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商品説明
【小林秀雄賞(第3回)】まさか私が六十三? 当り前で何の不思議もないのに、どこかで、えっまさか噓だよなあと思うのが不思議である。いつのまに六十三になったのだ。わしゃ、知らん。著者ならではの眼差しとユーモアが光るエッセイ。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
佐野 洋子
- 略歴
- 〈佐野洋子〉武蔵野美術大学デザイン科卒業。絵本、小説、エッセイ、翻訳など幅広く活躍。絵本「わたしのぼうし」で講談社出版文化賞絵本賞受賞。著書多数。
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紙の本
老いてみるのも、いいんじゃないか。〜怖れや不安を払拭してくれる逞しいことばたち。
2012/08/10 03:01
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:奈伊里 - この投稿者のレビュー一覧を見る
洋子さんは、60歳を過ぎて、群馬の山の中に女ひとりで暮らしている。結婚していたこともあるが、今はひとりだ。80代後半の痴呆の母がいるが、老人ホームに預けて今はひとりだ。
鏡の中の崩壊しつつある自分の容姿を眺めて「ウッソー、これ、わたし?」とペテンにでもかかったように思っている洋子さん。
物忘れがひどくなり、仕事への集中力も薄れ、退化していく肉体を悲哀とともに受容する一方、、母の看護生活で焼き付いた痴呆への恐怖が内臓のおさまっている暗い場所の底に住み着いているという洋子さん。
10代の時は、人間は40を過ぎれば大人というものになり、世の中をすべて了解するものだと思っていたのに、実際は幾つになっても人は惑い続けるのだということに仰天して暮らしている洋子さん。
このエッセイは、自分が老人になるなんて思ってもみなかった洋子さんが、60代の初老の女となった自分と驚きを持って暮らす、日々の記録だ。そしてその記録の、なんと真っ当で、なんと人間的で、なんと生きる喜びに溢れていることか!
わたし自身、すでに不惑に達しながら、惑いに惑って暮らしている。それでも、未来と自分自身がすべての価値基準だった思考回路は閉ざされつつあり、その代わり、いよいよ老いること死ぬことが、現実的な不安となって自分に組み込まれている。
夜中、自分のやり直せない時間と死に向かう時間に押しつぶされそうになって、声にならない叫び声をあげたり、寒い夜にひとり寂しい道を歩いていて、「ああ、わたしは斯様にひとりなのだ」と絶望的な孤独感に陥ったり、とにかく、日常に暗い落とし穴が、ぽっかりぽっかり口を開けているんである。
それでも、陽が昇ったり沈んだりの美しさに日々心を奪われるし、それを眺める気持ちは幼い頃から変わっておらず、歳を取るってことは一体なんなんだ、わたしって誰なんだ、と首を傾げつつ生きているんである。そして、不惑を過ぎても何者でもない自分に呆れ、死ぬなんてまだまだとんでもないよ、と、怯えているんである。
洋子さんの文章は、そんなわたしの恐怖や疑問を、ひとつひとつ、「誰だってそうなんじゃないの? わたしだってそうよ」と笑い飛ばしてくれる。誰だって、10代の頃は60代の自分なんて想像できない。誰もが、その年齢に達して、はじめてその年齢の自分と出会い、折り合いをつけながら生きていく。なんだ、歳を取ることは、ちょっと面白そうじゃないかと、老いてみるのもいいじゃないかと、そう思えてくる。
『いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外はない。……いつ死んでもい。でも、今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。』と言う洋子さんの日常は、驚きや感動や歓びや感謝に溢れていて美しい。
読んでいるわたしの中にも、世界への愛情やら生きていく元気だのが、ふつふつと湧いてくる。人生の先輩の声を聴く歓び、ここにあり。
洋子さんを知ったのは、著書「100万回生きたねこ」。そして、谷川俊太郎氏との共著「女に」で、その結婚を知った。そして今、洋子さんはひとり、山の中、そこで知り合った素敵な友人たちと時間を分け合いながら暮らしている。
ともに生きるのが喜びだから/ともに老いるのも喜びだ/ともに老いるのが喜びなら/ともに死ぬのも喜びだろう/その幸運に恵まれぬかもしれないという不安に/夜ごと責めさいなまれながらも
男であり、詩人である谷川氏の詩情を笑い飛ばしてしまうほどのたくましさ、現実的な力が、このエッセイにはある。いやはやかっこいい。出会えてよかった、洋子さんのことばたちに。
紙の本
納得!
2005/10/10 04:46
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 なおこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
佐野洋子さん、以前からとても気になる人でした。いろんな絵本、いろんな詩、そして今回は久しぶりに読む彼女のエッセイ。「神も仏もありませぬ」は高山なおみさんのエッセイで知り、早速読むことにしました。
のっけから、ぐいぐい引き込まれました。そして、積年のもやもやが晴れました。納得って感じです。
「いったいいくつになったら大人になるのだろう。混迷は九歳の時よりより複雑で底が深くなるばかりだった。人間は少しも利口になどならないのだ。そしてうすうす気が付き始めていた。利口な奴は生まれた時から利口なのだ。馬鹿は生まれつき馬鹿で、年をとって馬鹿が直るわけではないのだ。馬鹿は、利口な奴が経験しない馬鹿を限りなく重ねてゆくのだ。そして思ったものだ。馬鹿を生きる方が面白いかも知れるなどと。」
いったいいくつになったら大人に…という疑問。私もうすうす気づき始めていた。いつになったら大人になるって、考えるだけ馬鹿げてる。大人も子どももない。あるのはいつもその時の私なのだと。佐野さんはこうも語る
「いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、いきてゆくより外はない。いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思っていきるのかなあ。この日本で」
いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいい。この感覚は大いに共感する。
「しかし、私は全然死なないのだ。日々飯を食い、糞をたれ、眠った。一人で暮らしている私は、気がつくと不機嫌なのだった。心配になって友達に電話した。『そんなの当たり前だよ、一人でニヤニヤしている人がいたら不気味じゃん。一人の時は人間は機嫌がいいわけがない』そーか、一人で居るときは不機嫌が常態なのか」佐野さん、不機嫌なままで65歳を迎えられたそうです。このエッセイ、ずっと続きを読みたい気分です。
紙の本
佐野洋子さん、大好き
2004/12/21 13:50
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:花の舟 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ああ、おもしろかった!!というのが、まず来ます。歯切れよく、テンポよくこの世の理不尽さ、人間の不可思議さをぶった切る語り口に引き込まれて一息に読みました。
豪快・痛快・爽快、あるいは鮮烈・強烈・清冽とでも言ったらいいでしょうか。ストレートにこちらの胸に響いて、気持ちのいい風を送り込んでくれるような本です。
知り合いの農家のアライさんの言葉に「真実」を感じとり、素直に尊敬の念を抱く佐野さん。厳しい自然の姿に、感動を覚える佐野さん。老いた母との関わりにおいても、寿命が尽きそうな猫を世話している時も、佐野さんの“考える目”はどこまでも透徹していて、そこに人が生きる意味や真実、命あるものへの敬虔な態度を、きっぱりと見せてくれています。
そしてまた、言いたい放題言っているようにみえて、友人とのつきあいの中で案外気を遣う佐野さんのかわいらしさがいいです。
佐野さんは、ただ生きて、一生懸命生きて、感じて考えてきたことを書いている……それゆえ佐野さんは「今日死んでもいい」「けれども今日でなくてもいい」と言い、年が63にもなっていることに不思議さを覚えるのです。「いったいいくつになったら大人になるのだろう」というふうに。
愛想笑いでごまかして、体面ばかり気にして暮らす私には、佐野さんの言葉、「神も仏もあり」ましたよ。
紙の本
自然と共生しながらの随筆集
2011/02/19 19:10
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kumataro - この投稿者のレビュー一覧を見る
神も仏もありませぬ 佐野洋子 ちくま文庫
88歳の母親と暮らす作者は63歳で、本の発行は2003年11月となっています。そして作者は2010年に亡くなりました。72歳でしょうか。
母親はどうも認知症らしく、自分の年齢を4歳と言い、ひと月ほど前に読んだ作者の絵本「だってだってのおばあさん」では、おばあさんが自分を5歳と言い張るのです。物語のヒントは作者の生活にあったことが、この本でわかります。
作者は、たくましい方でした。中国からの戦争引揚者としてこども時代を送り、自分にふるさとはないと書いてあります。群馬県の山間部の村で暮らしておられたようで、自分で雪道の運転をしたり、暗闇の中、ひとりで秘湯へと入浴に行かれたりされています。時間がゆったりと流れていきます。毎日スピーディな動きを求められる生活を送っているわたしにとっては、別世界です。また、コンクリートとアスファルト、ガラスとプラスチックに囲まれた環境にあるわたしと、浅間山をながめながら日を送る作者とでは段違いです。子どもの頃、山に囲まれた盆地で暮らしていた頃がなつかしい。
41ページには、いつ死んでもいいという作者の言葉が記されています。そして作者は亡くなりました。わたしの祖父の墓参りに行ったとき、祖母が、もうすぐ自分もその墓に入るときがくると言い、そのとおりになったことを思い出しました。
テレビは人の心を荒廃させていくという言葉には共感します。テレビを見るだけの毎日を送る高齢者たち。老いる、ボケる、物忘れがひどくなる。それは40代後半から始まります。目が見えにくくなる。指先が乾燥して、ページをめくれなくなるということもあります。今はぴちぴちの若い人でもいずれはそうなります。
章「何も知らなかった」は胸にしみます。悲しみを山の自然が癒します。文中にもあるように、日本は、長老がいらない世界になりました。共同体は崩れて個人で生きていく時代になりました。人生はわびしい。自分は相手を愛しているつもりでも、相手は自分を愛してくれていない。世捨て人であった鎌倉時代後期、吉田兼好の徒然草を読んでいるようでもありました。
紙の本
悪態をつきながら、軽やかに老いを楽しむ64歳の心意気
2004/05/14 16:07
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とみきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
佐野洋子は口が悪い。佐野洋子の前で、うっかり気取った口や賢しらな口をきいたりしたら、途端にどやされそうである。群馬の山の中に一人住まい、老いと死を見つめて暮らす64歳。かわいげがないところが実に可愛らしい。文章も生き様も、さばさばとしていて、読んでいて楽しい心持ちになる。他人のことをけなさないのである。徹頭徹尾、自己責任の人なのである。農業をする人や、フツーの人を心の底から尊敬しているのである。老いて、弱い者同士が肩を寄せ合い、傷をなめ合うような友人なんて要らないとばかり、なんだか楽しい人ばかりがワサワサと集まってくるのである。
赤ん坊の時から知っている2歳年下の孔ちゃんがニューヨークで亡くなったと、妹から電話で知らされた瞬間、いろいろなことを思い出す。家の応接間ではいはいをしていて、おむつからウンチがこぼれた時の記憶から、カレーのなべを広げたひざの間にはさんで、なべの中にごはんをぶちこんで盛大にカレーを食べていた姿、演劇をやっていた学生時代。そして、商社マンになり、お見合いで結婚して、世の中に組み込まれていく孔ちゃんを見て、裏切られた気持ちになったことなど。それでも、赤ん坊の時から知っている孔ちゃんは特別な存在なのだった。
“どこかに孔ちゃんは居るにきまっていたのだ。「もう一回だけ会いたいよう」。私は声を出して床をたたいた。たたきながら、「一人暮らしって、こういう時に便利だなあ」と思っているのだ。そうだ、泣いても平気なんだと思うと、私は大声を出して泣いた。(中略)一カ月前床をたたいて泣いてたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。生きているってことは残酷だなあ、と思いながら笑い続けている。”
また、老いについてはこんなふうに考えることもある。
“でも私が超美人だったら、きっとひどい嫌な人間になっていたにちがいない。私はブス故にひがみっぽい人格になっている事を忘れて、力弱く我が身をはげまして一生が過ぎようとしている。そして、しわ、たるみ、しみなどが花咲いた老人になって、すごく気が楽になった。もうどうでもええや、今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない。世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役ではないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくとして嬉しい事でもあるのだ。”
どこをほじっても色気など出てこないバアサンだとあっけらかんと言う佐野洋子には、野菜をたくさんくれて、日々をフツーに生きているアライさん夫妻をはじめ、ものすごくたくさんの仲間がいるのだ。このことが佐野洋子の老年を充実したものにしていることは、まごうことなき事実である。自立した60代の心意気を感じる書である。