紙の本
主人公の切迫した息遣いがダイレクトに伝わって来る
2013/01/09 14:25
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投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
15歳でなぜかアメリカの中学校に入れられた少女の苦悩、果てしなき自問自答と襲いかかる過去の亡霊と幻影の数々、16歳で卒業試験に課せられた模擬ディベートの異常な体験、天皇の戦争責任と日本の戦後史について総括、などなど著者その人の自分史と実体験を生々しく想起させる主人公の切迫した息遣いがダイレクトに伝わって来る1冊である。
天皇の戦争責任のありやなしや、をテーマとするかつての敵国でのディベートに余儀なく臨んだ主人公が、「東京裁判」のやりなおしを命じられた生贄のような立場に立たされて四苦八苦する場面がこの作品のハイライトであるが、解答不能の難問にそれでも答え続けていく中で、私たち日本人がおのれの本性と来歴を問わずに現在まで呆然と生きてきた異常さが明るみに出されるのである。
小説という形式の中にあまりにも言わんとする多くの要素を持ち込んだために、時として進路が混沌とし、主人公も著者もその場に佇んではまた力を振り絞って歩き始めるのだが、多少の未熟さを併せ持ちながらも必死に生きようとする「彼ら」に思わず「大丈夫だからね」と声を掛けたくもなるのである。
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戦争責任
2015/12/17 06:11
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投稿者:テラちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
1980年。アメリカに留学したマリは、天王の戦争責任を語るよう強いられる。少女の目で見た、あの戦争は…それも敵国・アメリカで東京裁判や戦争責任を論じるとは。赤坂氏は戦後19年の生まれ。大きなテーマに挑んだ作家の熱意に脱帽。
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時空を超えて通じる背景
2015/09/30 14:02
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投稿者:くまくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
母親によってアメリカ東北部に留学させられたアカサカ・マリは、アメリカ政府の授業の単位を取るために、天皇の戦争責任について賛成する立場でディベートをしなければならなくなった。だが調べれば調べるほど、天皇とは何かが分からない。そして彼女の意識は時間と空間を超越し、その本質に迫っていく。
日本は戦争に負けたにもかかわらずいつの間にか世界第二位の経済大国になり、他方、勝者にもかかわらず双子の赤字で悩まされる米国という1980年の時代背景において、マッチョなアメリカの信奉者の論理の前に無理矢理跪かせられる日本人留学生の少女の立場と、経済戦争に敗北し斜陽の時代に入っていると感じている2011年の時代背景に於ける女性作家の立場、そして東京大空襲や原爆投下によって焼け野原になった1945年の日本と、大震災によって荒廃した2011年の日本という環境をごちゃ混ぜにしながら類似対比させ、その中で生きている日本人の根底にある価値観に、明治維新以後、戦時中における天皇の役割を投影して理解するような話になっている。
この作品の中で米国を象徴するのは、民主主義とキリスト教だ。だがその論理の中で明治維新以後から戦争中までの天皇を解釈しようとすると答えが出ない。そのことをディベートの破綻という形で表現しつつ、マリの最終弁論という形で主張を通している様に見える。
自分自身として日本や天皇、戦争というものに対して総括している人物が読めば、作者の主張したいことを同文学的に表現したのかを理解しようとすることが出来るかも知れないが、そうでないならば、まるで精神病患者の譫言を聞いているような気分になる気もする。つまり、これを読むことで何かを学べる性質のものではない。だから小説なのだろう。
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1980年、15歳で米国メイン州の高校に留学したマリ。
「昭和天皇」や「アメリカ合衆国」や「英語」や・・・そんなこんなに思いを巡らせた覚えのある世代の人間には、響く部分が。
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歴史の文脈の中で、自らと向き合う
1980年、15歳のマリは、アメリカの最果て、メイン州にいた。自分がなぜここにいるのか、「来なければならなかった」のかわからぬまま。
30年後の2010年、45歳になった「私」は、15歳のまま、閉じ込められた「自分」に思いを馳せる。自分が救われるには、15歳のマリが解き放たれる必要があると感じながら。
マリは、自分に向き合う心の旅に出る。それは日本人が見ぬふりをしてきた第二次世界大戦の「解釈」への旅でもあった。
中学卒業後、アメリカに留学することになったマリは、学校から1つの提案をされる。東京裁判についてのディベートをし、それが合格点であれば、進級を許すと。マリの立場は「天皇に戦争責任がある」側で、それを言論で立証した上、相手方を論破しなければならない。
現在のマリは、自分が留学生活で挫折を感じ、1年で日本に戻ってきたことを知っている。そしてそれをずっと負い目に思ってきたことも。
2人のマリは時空を越えて交わり、かつての挫折を乗り越える闘いを始める。
主人公はある種、感受性が強く、「霊媒的」な体質である。俗に言う、「見えやすい」人と言ってもよいだろう。まるでシャーマンのように、過去や未来の自分、そして英霊やベトナム結合双生児やヘラジカや「テンノウ」と交信する。
舞台は現実と空想を行き来しつつ、東京裁判の核心へと迫っていく。
私小説的な匂いの強い作品である。
実際に著者が作中の「マリ」にどの程度投影されているのかはわからないが、少なくともアメリカ片田舎のハイスクールの描写には非常に説得力がある。スターであるスポーツ万能生徒が「階級」のトップであること。自分の感情は棚上げにして、とにかく論理的に勝つことを目標とする「ディベート」というゲーム。悪い人たちではないが、時に押しつけがましいホスト・ファミリー。こうした部分は、経験した人でなければ書けないことのように思われる。
「戦争と戦後」のことを書きたいと願う著者の思いは真摯である。戦争を経験した親に育てられた最後の世代として、「戦争」や「戦後」を忘れたように振る舞うのではなく、見つめ直して自らのアイデンティティを問い直そうという試みは賞賛に値するものだろう。
戦犯のA級B級C級は罪の重さでなく、種類の違いだということや、憲法を英文にした場合の印象の違いなど、教えられることも多かった。
だが、個人的には、大上段に構えた天皇論よりも、むしろ東京裁判で翻訳を担ったというマリの母の話こそが聞きたかった。それこそが血肉の通った、地に足をつけた、戦争と家族の物語になり得たのではないかという思いがどうしても消えない。
労作であると思う。
しかし、作中で15歳の少女に異国語での戦争責任に関するディベートという重すぎる課題を課した教師と本作が重なってしまう。
この課題・この結論は、この物語には重すぎたのではないか。
*ハンティングで仕留めたヘラジカと森の描写が非常に美しい。
*作中、「リトル・ピープル」という言葉や、異世界とのつながり方(森や眠りを通���てのもの)が村上春樹を連想させる。これほど最近書かれた物語を想起させることが本作にプラスに働くとは思えない。
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「東京プリズン」(赤坂真理 河出書房新社 2012/7/6)をやっと読了した。
この書物を、発行月内に”読んだ”と報告できることがちょっと誇らしい。
もの凄い小説である。
1980年中学卒業後、母親の意向でメイン州の高校に留学した主人公は、英語に苦しみアメリカの文化に違和感を覚えながら日々を過ごす。
半年後、全校公開デイベートが行われる。デイベートでは肯定側、否定側2人づつのチームがそれぞれ立論、反対尋問、最終弁論を行い、審判が裁定を下す。
論題-「日本の天皇には第2次世界大戦の戦争責任がある。」
主人公マリ・アカサカは肯定チームに指名される。デイベートの完遂が進級の条件として与えられる。
私にはまだこの小説について感想や所見を述べる能力がない。
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母国の外に出て、改めてそれについて考えさせられることがある。母語以外の言葉を得て、当たり前のように思われた母国のことや、そこから連なって、現代に至る歴史を見つめ直し、洗い直して、改めて悟るものがある。1980年に米国北東部に留学した16歳のマリは、東京裁判をめぐるディベートに苦しみながら真理をつかもうとし、2010年の東京に生きる45歳のマリは、東京裁判に関わったという母と対話し、追体験しながら、時を超えたコレクトコールで過去の自分と向き合う。過去と現在、日本と米国、日本語と英語、母親と娘、これらの二項を対比させながら向かう先は、天皇の存在と、「people」の在り方…。断罪するではなく、答えの出にくい問いに向かい、考え、格闘すること。それは、もうすぐ70年になるあの戦争のことを決して簡単には忘れてはいけない、ということになるのだろう。非常に刺激的だった。
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結局マリはどうしてアメリカへホームステイしにいったのだろう。しかもなぜアメリカ最果ての町だったのだろう。
この大作を読み終えて思ったのは、そんな些細な疑問だった。
もちろん、「東京裁判」に関する膨大なディベートの部分は読み応えがあったし、読みながら自分自身の歴史認識を改めて問い直す必要にも迫られた。
「天皇の戦争責任」とはつまるところ何を意味するのか。どうして「終戦」といい「敗戦」とは言わないのか。広島、長崎の悲劇を盾にしながら、にも関わらず真剣に国のあり方や、国防について考えてこなかったのはなぜなのか。
戦後の焼け野原から高度経済成長期を経て、日本は立派に復興した、といいながら、その精神性は明らかに戦前に比べれば退廃的になったし、自己中心的になった。
アメリカから急いで輸入した個人主義や民主主義を、たいそう喜んで受け入れ、身にまとってきた。
ほんの少し前までは敵国だったのに。「鬼畜米英」だったのに。
あの変わり身の早さを、誰も深く考えなかった。考えることは傷口をえぐることになるから、あえて見ないふりをして、蓋をして、戦後民主主義を謳歌してきたのだ。
私も、著者と同じくらいの年なので、学校の歴史の授業で第2次世界大戦後のことを学んではこなかった。明治維新、大正デモクラシー、朝鮮特需、くらいまでだ。
「そして日本は戦争に突入していきました」のあとは「広島、長崎に原爆が落とされ、日本は無条件降伏しました」に飛んでしまう。
そして、現在では、日本とアメリカがかつて戦争をしていたこと、しかも日本が負けたことを知識として知らない世代が現れている。
少しでも興味を持って調べた人はそのことと原爆のこと、さらには、今問題にされている原子力発電の問題までつながっていることを知るだろう。でも、そうでない人は全部バラバラの知識のかけらしか持たないことになる。
「憲法9条を守ろう」という。「改憲反対」という。「誰からもらおうといいものはいいのだ」とも言う。でもその「いいもの」の中身をきちんと検討してから受け入れたのだろうか。
私はいつも憲法前文を思うと居心地が悪くなる。なぜ自国の平和を、他国の信義や公正に頼らなくてはならないのだろうと。そんなふうに人任せで大丈夫なのか。他国が、私たちの国の利益を優先してくれるという保証はどこにあるというのだろうか。
「人はみな平和を望む」という。でも「平和を手に入れるために戦う」という一面だってあるのだ。
終盤のディベートの部分を読みながら、私もマリと同じ気持ちになった。そして彼女の出した結論を、痛みを持って受け入れた。まったき善、完全な正義はどこにもない。人はみなある部分で間違いを犯す。と同時に正義も持つ。間違いは正していくしかないし、でもその間違いのせいで権利を侵害されるべきではない。
そんなことをいろいろ考えさせてくれたのはとてもよかった。ただ、小説としては若干読み辛かったことも確かである。
特に冒頭はいきなり面食らってしまった。これは幻想なのか? 夢なのか? 現実だとしたらどういう���味があるのだろう、と思いながら読み始めたのだ。
作品自体の構造がこういう書き方を要求していたのかもしれず、だとしたらたしかに「小説として書くしかなかった」のだろうと思う。そしてそれは成功していると思う。
思うけれども、慣れるまでは幻想のシーンは読みにくかった。象徴しているものを想像しながら読まなくてはならないし、出し抜けに現実が顔を出したりするので、つながりがわからなくなる。
この部分だけは萩尾望都さんのマンガで読みたいなあと思ってしまった。マンガなら自由自在に行き来できる現実と幻想の狭間を、文字だけで想像するのは難しい。
そして最後に残るのは、最初に書いた疑問だ。
なぜ、マリはアメリカ最果ての町へホームステイに行かなくてはならなかったのか。
母親は「それしか生きる道がなかった」と言うのだけれど、1980年の日本でいったいなにがあったのだろう。その描写は小説内には出てこないし、結局秘密も明らかにはされない。いろいろほのめかしてはあるが、ついにその理由は書かれない。
そんな枝葉末節のことは、本編には関係ないのかもしれない。とにかくマリはたった一人でアメリカへ行かなくてはならなかった。1980年という、終戦後35年たった時代で、スペンサー先生は「まだあの戦争の傷跡は残っている」という。マリの疑問は私の疑問でもあった。戦勝国なのに、原爆まで落としたのに、なぜあなたたちが傷を負うのかと。敗戦国の日本では、そんなことは全くなかったことにされているというのに。
このことを描くために、マリはアメリカへ行かなくてはならなかった。戦後の日本の歴史やあり方に無知な人間として。彼女は戦後の人間すべての代表なのだ。
決して楽しかったり面白かったりするエンターテイメントの作品ではないが、非常に読み応えがあり、読み終わってからも折にふれていろいろ考えざるを得ない。
まもなく67回目の敗戦記念日がくる。漠然とした曖昧さで、主語なしで「過ちは繰り返しませぬから」と唱えているだけでいいのだろうか。誰が、どんな過ちを犯したのかを、厳密に徹底的に明確にしなくては先へは進めないのだが、きっとそれはとてつもなく難しいことだろうと思う。「空気」が力を持つこの日本では。
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天皇の戦争責任をめぐるディベート。
ヘラジカ、贄の大君、結合双生児、リトルピープル、母と娘の入れ替わりなど、混沌としたストーリーだが、それも必然と感じさせるほど圧倒された。
著者の渾身作。
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非常にレビューが書きにくいというか、
自分の知っていること経験していること感じていることで
捉えようとするには難しすぎます。
事前情報としては東京裁判が分かるということで買ってみたのですが
実はこれ小説なのです。コミック、アニメ、ラノベなどに慣れていると
ファンタジーを読んでるのか?タイムリープもの?とか・・・
どうやって最後に回収して行くのだろうと思いながら半分以上
続きます。
まるで自分の脳の中に一部著者の脳が組み込まれた感じで
進んで行くので『ん?』『ん?』という疑問や、これはきっと
何かの象徴かキーワードなんだろうと考えてみたり
かなり読み辛いです。
ところが後半から東京裁判やり直しディベートが始まると
怒涛の流れが来て一気にスピードが・・・
と思いきや前半の話がフラッシュのように挟み込まれて
別の場所に飛ばされたりして、
またディベートに戻りスピードが上がり疲れたりします
最後半になっても全て回収するわけでもありませんが
自分が長年モヤモヤしているものや不思議に思っているものが
解けるかもしれないと感じたり、これからもっと色々知りたいと
気付かせてくれる凄い本です。
すべての人におすすめとは決して言えませんが
この本で自分の中の何かが剥がれる人が必ずいると思います。
どうでもいい話ですが後半一番盛り上がるところで真っ先に
思い浮かべたのがFateシリーズの聖杯でした。
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人も時代も行きつ戻りつする混沌の中で、物語は東京裁判のディベートへと収斂していくラスト100ページが面白い。16才のマリの葛藤がそのままの自分の葛藤でもある。
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著者は、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱える器って小説しかなかった」(『週刊読書人』インタビューより)と語っている。だから、私も、このレビューをジグソーパズルのように、断片だけを並べることにする。いつか、それぞれのピースが近づいてゆっくりと形を作ってくるのを待ちながら。
「私の家には、何か隠されたことがある。ごく小さなころから、そう感じてきた。」 家の隠された秘密は、実は、日本という国の隠された秘密に繋がっていた。戦争と戦後処理の秘密が、私を、東京を息苦しくしている。監獄の中に閉じ込められた東京=東京プリズン。
構想に10年かかって、ようやく小説という形式に落ち着いたという(本当は30年かかったのだろう)。壮大なスケールで、小説の可能性を展げて見せてくれる。
アメリカと日本を自由に行き来し、現在と過去を行き来し、16歳と45歳を行き来し・・・。
電話口から聞こえた「ピーポウ」から始まり、”Piaple”が響き続ける。国民、人民、リトル・ピープル・・・。
あの戦争は一体どうして始まり、どのようにして終わったのかを知らずに生きてきてしまったのは、アメリカへ留学して間もない時に、切り取られたヘラジカの耳を埋めたことから始まったのかもしれない。その耳を取り返そうとする「耳」と「電話」の物語とも読める。
「耳」、「リトル・ピープル」、「繭」、「壁抜け」などのイメージが氾濫し、村上春樹の小説世界に迷い込んだような感覚もしばしば覚えた。社会的・政治的な問題を扱いながら、人間存在の深みへと連れて行ってくれる小説。
繭は蛹となり、脱皮する。不自由な英語を学ぶ中で、日本の文化を相対化し、あの戦争についても学んでいく主人公は、著者の体験に裏打ちされた部分もあるのだろう。仮面劇として演じられるディベートによって、浮かび上がってくるものが確かにある。仮面(ペルソナ)から、複数形のpeapleへ。しかも、ディベートという論争=言葉の戦争によって。あの戦争の経緯を初めて知るようになった主人公マリが、その枠をはみ出して思考する女へと成長し、ディベートというゲームそのものを批判し、さらにはキリスト教批判をやってのけるまでに成長するラストは圧巻だ。ここには、敗戦後に経済や防衛そして文化までもアメリカナイズされて来た日本が、これから乗り越えるべき道が暗示されているようにも思える。(この、大演説は、チャップリンの『独裁者』想起させる)
戦争を語る時、戦争で命を落とした人々、英霊の存在をどう処理するかが、戦後を生きる者に残された大きな課題だ。風化し、忘れ去られていく戦争の死者達。残された者は、その死者の魂をどう受け継いで行くのか。母は東京裁判の資料を翻訳する媒介者であり、それゆえに娘にもまた媒介者であり続けることを、母は望んでマリをアメリカへと留学させたのではないのか。この小説は、死者の魂の継承をめぐる、「媒介者の、媒介者による、媒介者のための神話」である。したがって、著者の赤坂真理は「現代の巫女」である。
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16歳少女のアメリカ留学、45歳の私、80代の母、祖母、
時間と空間を行き来しながら「東京裁判」を問いかける。
リメンバーパールハーバー、東京大空襲、広島長崎の原爆、天皇制、旧憲法と現憲法、A級、B級、C級戦犯、南京大虐殺、731部隊、ナチスノホロコースト、イエス、神話、
植民地の甘い汁を吸った現地人、
英霊とは忘れられた人々、そして忘れた人々、
神の名のもとに戦争をする、
縁とはムスビである、ムスビとは自然に備わった生産力、そこからすべてがうまれ出る点、虚空である。
東京裁判の物語と思って読み始めたので、ちっとも東京裁判に行き着かないな〜と思いながら読み進んだ。赤坂まりさんの本は初めて読んだので、ペースが合わなかったのかな、
最終章「私の東京裁判」は素晴らしい、
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結構楽しみにして読み始めたのだが、導入部分から意味不明でストーリーについていけず。ある程度の耐性はある方だと思っていたが、ここまで拒否反応してしまうのも珍しい。結局、40~50Pぐらいで挫折してしまったんだが、自分がオカシイのだろうか?
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天皇の戦争責任が主なテーマだが、ベトナム戦争やキリスト教についても言及している.物語は村上春樹的ファンタジーのオブラートに包まれて読みやすい.しかしアメリカでアメリカンガーヴァメントの授業のなかで日本の天皇の戦争責任についてのディベートなんかやるんだろうか?