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商品説明
沖縄の現実的課題から問われた諸問題に対し、いかに自分なりに応えることができるか。沖縄戦の問題や米軍占領下の歴史について、それまでの研究成果をふまえて著者なりに「学びなおし」、新たな枠組みや視点から考察する。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
横に開き記憶を継承する
2010/01/24 22:37
13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:24wacky - この投稿者のレビュー一覧を見る
大手メディアでは、普天間「移設」問題が民主党政権の不安材料として連日報道されている。自民党政権時代には犯罪的なまでに等閑視された「沖縄問題」がクローズアップされること自体は、沖縄の人々にとってはもちろんのこと、国家の重要課題について目隠しされてきた哀れな日本国民にとっても歓迎すべきことだ・・・といいたいところだが、政権は変わっても変わらない官僚機構と大手メディアによるアメリカ従属路線の一大プロパガンダが展開されているのが実情であり、事実関係はもとより、もっともシンプルで重要なことがそこでは忌避され続けている。
その渦中で、一人の沖縄の近現代思想史研究者による、この10年間の論文をまとめた初の単著が静かに発行された。『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす 記憶をいかに継承するか』という本書のタイトルは、そのシンプルで重要なことを図らずも言い当てている。
普天間飛行場の「移設」ばかりがことの本質であるかのように報道され、それが実行されることがあたかも解決策なのだというような錯覚をそれらの報道は起こさせるが、ことの本質は第一に、生々しい「米軍占領」の歴史と現在なのである。二点目が、本土側に決定的に欠けている認識であるのだが、沖縄の人々にとって、現在の米軍占領が60年以上前の沖縄戦の記憶と、不可分に、じっとりと、突き刺さり続けながら結びついているということ。安全保障がどうだの、移設先がどこそこだの、直近の「地元」首長選挙の結果を云々する以前に、それらを共通のコードとしない議論は、本来議論たり得ない。
とはいえ、同時にこのタイトルは、これまで発行されてきた沖縄関連書籍のジャンル、すわなち平和教育がテーマのいささか教訓臭のするもの、あるいは基地問題を本土に向けて告発するもの、それらの焼き直しではないかという第一印象をも受ける。本書はそれらと一見して同ジャンルであるが、それらの限界を批判的に乗り越えようという隠された問題意識が基底にある。
その試行は「記憶をいかに継承するか」というサブタイトルに込められている。戦後世代として、つまり非体験者として、沖縄戦の記憶を〈当事者性〉を獲得しながらいかに継承していくかという。著者はこの難題に向う手立てとして独自の視点を挙げている。そしてこの視点に本土の人間としての私は驚く。
沖縄戦の継承といえば、当然それは沖縄の人々によってなされるべきである。当たり前過ぎる前提である。それは著者とて首肯しているが、続けてこうも書いている。
《と同時に、戦後世代が沖縄戦を考えるうえで大切なことの一つは、その世代への継承とともに、沖縄以外の戦後世代に対し非当事者の自覚をもって横に開き、体験者の教訓を多くの人びとに共有し分かち合って〈当事者性〉を獲得する努力を行っていくことが重要ではなかろうか。》
この視点は《沖縄出身者であるから沖縄戦を知っており、自分が常にその中心に位置しているとの感覚を常に疑う》という著者の倫理的な態度からきている。この峻厳な姿勢こそ、他の関連書籍を読むときの体験と異なる、絶えず遅延しながらも不意をつく新鮮さによって更新される、というような稀有な読書体験を与えてくれる。そしてその《横に開く》姿勢は本書を貫いている。その一例を挙げよう。
「6章 戦没者の追悼と“平和の礎”」では、メモリアルのあり方を問うている。平和の礎とは、沖縄戦終結五十周年を記念して本島南部の糸満市摩文仁にある平和祈念公園内に建てられた記念碑のことである。その刻銘碑は、沖縄戦で亡くなった戦没者を、敵・味方、国籍、軍人・民間人を問わず、すべて刻銘するという理念に基づいている。
その理念には「外来者を排除しない伝統的な平和思想」が沖縄にあると説明されている。具体的には「イチャリバチョーデー」(一度出逢ったら皆兄弟)「非武の文化」などがそうであろう。だが著者は、この「伝統的平和思想」を根拠にメモリアルが説明されることに疑問を持つ。
《沖縄の「伝統的平和思想」は、沖縄の人びとの本質的な特徴として昔からあるのではなく、歴史的に形成されたものだと考えるべきである。すなわち、沖縄の「伝統的平和思想」は、歴史的に形成され構築されたものにすぎないのだ。
(中略)
さらに、私の考えでは、それらの沖縄の「伝統的平和思想」は、ずっと昔からあるのではなく、むしろ戦後の難しい政治的状況に向き合うことによって、新たに「発見=創造(Invention)された言葉だと言えるように思う。つまり、基地問題をはじめとした沖縄の困難な状況下で沖縄住民の意思が問われたときに、あらためて沖縄の歴史や沖縄戦が語りなおされる過程で、それらの言葉が「発見」されたのである。」
前半でいっていることは、「平和」を語るのは沖縄だけの特権ではないのだという横への開き方である。日米政府による植民地的状況への抗議の声として相手の暴力性を批判するときに(批判がなされるべきこと自体は至極当然である)、翻って自分たちを「武器をもたない平和な民」だと規定してしまう「本質論」の危うさを著者は指摘している。その「本質論」が、「沖縄の人びとは平和な民なのだから、外来者を排除しないでしょ。たとえそれがあなたたちを死に至らしめた敵国の軍人であろうと、差別的に扱った日本軍であろうと」というお仕着せとして逆利用されることの危うさを。
そうではなく、もし仮に沖縄に平和思想なるものがあるならば、それは基地に占領された「戦後」の過酷な状況下で、それへの対抗手段として、その時々に発明されたり創造されたクリエイティブなものなのだと著者は説く。だからそれは固定的なものというより、絶えず更新され蘇生され続けるものである。著者の横への開き方に促されて、私は緊張しつつそう読んだ。
紙の本
問われる「鎮魂」に至る過程
2010/04/28 09:37
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野あざみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
沖縄では毎年、4月から6月にかけて歴史と向き合う日々が続く。「米軍本島上陸」(1945年4月1日)、「日本から切り離すサンランシスコ講和条約発効」(1952年4月28日)、「本土復帰」(1972年5月15日)。いずれも沖縄を知る上で外せない。最後は、「沖縄戦の組織的戦闘終了」(いわゆる慰霊の日、1945年6月23日)。ニュースは「沖縄県内は島中で鎮魂の祈りに包まれた」と、「歴史」を取りあえず締めくくる。
慰霊の日は、戦没者の名が刻まれた平和の礎を涙ぐんでさする老婆がマスコミに大写しにされる。しかし、本当に焦点化されなければならないのは、「老婆の背景に」いて、「思いを共有しつつも、なんともいえぬ困惑の表情を浮かべている息子/娘たち」なのではないか。戦後64年が経過し、薄れていく記憶。戦争体験者が抱く「鎮魂」の中身を、未体験者が如何にして獲得するか。本書は問い掛ける。
沖縄戦体験者を親に持つ子どもたちでさえ、当事者性の獲得は容易ではない。世代が違ってしまえば、そこに生まれ育つだけでは芽吹かないようだ。ましてや、沖縄県民以外には想像すら難そうに思えてしまう。
看護従軍した女学生の足跡を残す「ひめゆり平和祈念資料館」。同館を訪れ、凄惨な手記を見た県外学生は違和感をあらわにした。「同窓生たちの怨念が嫌だった。(中略)。今私が泣いたら(中略)私にとってのカタルシスにすぎない」と。
この感想文が世に出た1992年当時、沖縄の学生から「認識不足」と批判する声が上がった。だが、沖縄出身の著者は「感想文の率直な語り口に、むしろ共感」したという。県外学生が自然と抱いた「違和感」は継承の入り口で、どのような出口を見出すかが大切だととらえているからだ。
著者はむしろ、一方的に批判する沖縄の学生に違和感を感じたという。彼らは、県外学生と沖縄戦体験者を両端とすると、その真ん中に位置し、「沖縄戦の理解度において県外も県内も学生は五十歩百歩と思った」と述懐する。
戦争体験を継承する問いの立て方は多様で当たり前。紋切り型になってしまうことが恐ろしい。だが、県外学生が抱いた違和感は、深く議論されることなく、一つの騒動として終息してしまった。
沖縄の格言、「命こそ宝(ヌチドゥタカラ)」は有名だが、沖縄戦の経験から生まれた。時代や人により、戦争を理解する切り口が様々に変わる証左だ。そのしなやかさこそが、戦争未体験世代に身体化され、継承される推進力になる。
沖縄県民は、米軍への抗議を表すため、度重なる県民大会を開いてきた。平和志向が、県民性に生来、根付いているというより、現在も模索しながら獲得に向けて学んでいるという表現がふさわしいのではないか。いわば、不完全な状態で、沖縄の中で完結していない。だからこそ、世代や住む地域を越えて、非戦の思いが普遍的に広がる余地がある。本書の至る所に、ヒントが示されている。