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- カテゴリ:一般
- 発売日:2009/10/30
- 出版社: 文藝春秋
- サイズ:20cm/586p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-16-370940-6
- 国内送料無料
紙の本
女優岡田茉莉子
著者 岡田 茉莉子 (著)
父は夭折した美男俳優・岡田時彦、名付け親は谷崎潤一郎、デビューは成瀬巳喜男作品。巨匠らに愛され、夫・吉田喜重作品の女神として輝き続ける女優・岡田茉莉子。戦後日本映画史を力...
女優岡田茉莉子
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商品説明
父は夭折した美男俳優・岡田時彦、名付け親は谷崎潤一郎、デビューは成瀬巳喜男作品。巨匠らに愛され、夫・吉田喜重作品の女神として輝き続ける女優・岡田茉莉子。戦後日本映画史を力強く生きぬいたひとりの女性の自伝。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
記憶のなかの、名も知らぬ映画にめぐりあえて
2011/05/07 09:20
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
岡田茉莉子主演のある映画を、私の前映画時代ともいうべき遠い過去に観ているのだが、それがなんという映画であるか全く分からないでいた。吉村公三郎の『女の坂』を観たのは、もしかしたらそれがかつて観た映画かもしれないと思ったからである。
映画が始まる。京都を舞台にしたその画面にもストーリーにも、また黛敏郎の特徴のある音楽にも、まったく私の記憶をかきたてるものはない。カラー映画であるとは思っていた。フィルムセンター所蔵のプリントは傷ひとつなく、端正なたたずまいのシネマスコープの画面には、京都の老舗の和菓子店を最初はいやいやながら、後には自覚的に継ごうとする関東育ちのヒロインの活発な姿が描き出される。
やがて佐田啓二が京都の舞妓さんを描きたいという版画家として登場するが、もちろん私の記憶のなかのどこにも、そうした人物はいない。けれど版画家と一緒に来た母親の勧めもあって、大きな和菓子店の空いた部屋に彼を住まわせるヒロインが、ある夜、お風呂に入るシーンを観て、私はうっすらとした記憶のなかの映画にめぐりあえたと思った。
お風呂に入っている岡田茉莉子を上から写した画面こそ、私の記憶と合致したのである。記憶のなかのシーンは真上からであり、その点が少し異なってはいたものの、なんとなく私はそのシーンを探していたのである。
さらに時が経ち、妻も子供もいるという版画家を愛し、一夜をともにしたヒロインが東京の彼の家に行き、彼の奥さんに話をするという展開になって、私にはもうひとつの記憶が目覚めた。ヒロインは物干しに吊られた洗濯物を見るだろう、そして彼女は男の妻には会わないだろうという続く画面を確信する記憶である。
男の立派な家は閑静な坂道の住宅街にあり、その点において荒井晴彦脚本の『ベッド・イン』の似たシーンに繋がる。とはいえそのロマンポルノ映画では若いサラリーマンである男の家の小ささが巧みな字幕で語られる(人の家を覗き見ようとする自身の小ささも)。ヒロインは男の家を探していただけだったが、やはり洗濯物が干されている。雨が急に降り、男の妻が娘とともに急いで洗濯物をとりこむところが違うとはいえ、ヒロインが愛する男の家に赴き、そこで「家庭」を象徴するものとしての吊られた洗濯物を見てしまうその画面こそ私が記憶のなかにさまよわせていた画面の手前にあったのだ。
シーンが意味するものにおいて、上から撮られた一人浴槽につかるヒロインの映像より、ひるがえる洗濯物のショットのほうがアクセントは強い。けれど記憶のなかでは、そのショットはさまざまな映画の類似シーン群のなかに、いわば溶け込んでいて、特に岡田茉莉子と結びついてはいなかった。
もう少し横道にそれることを許してもらうとして、私は『ベッド・イン』よりもっと前に観たデイヴィッド・リーンの『ライアンの娘』を思い出す。
その映画では守備隊基地に向かう車の通り道にあるヒロインの家の庭に赤いドレスが洗濯物としてひるがえり、アイルランドの寂しい赴任地にやってきたイギリス将校に「女」の存在を意識させる。モーリス・ジャールの伴奏音楽がやがて訪れる出会いをいやがうえにも印象づける。そこでは洗濯物の「赤さ」こそがアクセントになっており、『女の坂』や『ベッド・イン』のごとく主人公たちを引き離すのではなく、逆に結びつけるものとして機能していた。
いま観ると映画全体はメロドラマとして破綻しているように感じられるが、あの「赤さ」は封切り当時、私にとって叙情的なインパクトだった。そしてそれは同じ監督がアラビアの砂漠でひるがえらせた白さ、主人公が身にまとう民族衣装の白さと対比させるべきものかもしれないなどと思ったりした。
特に岡田茉莉子のファンであったわけではないため、今まで本書を手にすることはなかった。だが記憶のなかの映画にめぐりあえたために主演女優への関心が高まり、そして読み終わってみれば、私はひとりの女優の生そのもの、彼女自身のすべてを短時間のうちに経験したような気持ちになっている。
著者はやがて生涯の伴侶となる監督とともにつくった『秋津温泉』を見て、こう思う。《私はこの作品を見て、私自身のすべて、映画女優としての岡田茉莉子のすべてが、この映画のなかにある、そうした強い思いを抱きながら、見終わることができた。》
岡田茉莉子の代表的な作品はほぼ観ている。それは彼女のためというより、むしろ成瀬巳喜男や木下恵介、小津安二郎や吉田喜重への関心からだった。だがくっきりと美しい彼女のイメージはごく自然に私のなかにあった。
本書を読んで驚くのは、彼女が映画を撮ることで出会った男女優についての鋭い分析である。たとえば『流れる』で共演した高峰秀子や山田五十鈴や田中絹代について語る言葉の的確さ、特に高峰秀子について語る言葉は比類がないとしか言いようがない。
俳優、映画スターの書いた本をこれまでほとんど読んだことがないため比較できないのだが、この本にはそのドラマティックな人生を映えさせる、飾りのない見事な文章力があり、岡田茉莉子における書くことの才能を認めざるをえない。通常より多い読点とか、「私」の多用とか、おびただしい出演作の説明で「私」が役名の代りにも使われることとか、通常では欠点になりそうな文章の特徴はかえって快い刺激となって、私にページをくくらせた。著者が2年半かけて書いたと「謝辞」で記すその本を、わずか2日で読んでしまった。
たぶんこの本のチェックは夫の吉田喜重を始め、多くの人によってなされていると思う。文章の個性をこわさないかたちで、丁寧にフォローされたことだろう。そうした人たちが何故か直さなかったと思われるものに、26ページの「私にとっては姪に当たる赤ん坊」がある。それは姪ではなく従妹ではないだろうか。「姪」はこの後にも何度か登場するが、母親の妹(つまり叔母)が著者にとって常に「お姉ちゃん」だったための勘違いだと思われる。あるいは母親への強い同一化によるものか。
そうしたことより私にとって興味深かったのは、彼女がデイヴィッド・リーンの『逢びき』を好きだったことである。リーンはこの本にその名が一度も登場しない同時代の女優(岸恵子)を起用し、映画を撮る可能性もあったメロドラマの巨匠だが(ちなみに夫のライバルである大島渚の名も一度も登場しない)、結局『逢びき』を越える恋愛映画を撮ることができなかったと思う。岡田茉莉子はみずから希望して、この映画の舞台化に挑んだが、本書を読むと著者が映画のほかに、驚くほどの数の舞台、テレビドラマに出演していること、そしてそれらの主要なものについて適切な説明をほどこしていることが分かる。
『女の坂』は1960年6月に封切られ、私がその年のうちに観ているとしたら中学1年のときになる。