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商品説明
32人が流れ着いた太平洋の涯の島に、女は清子ひとりだけ。いつまで待っても、助けの船は来ず、いつしか皆は島をトウキョウ島と呼ぶようになる。果たして、ここは地獄か、楽園か?いつか脱出できるのか—。食欲と性欲と感情を剥き出しに、生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描き、読者の手を止めさせない傑作長篇誕生。【「BOOK」データベースの商品解説】
【谷崎潤一郎賞(第44回)】32人が流れ着いた太平洋の涯の島に、女は清子ひとりだけ。果たして、ここは地獄か、楽園か? 食欲と性欲と感情を剝き出しに、生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描く傑作長篇。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
桐野 夏生
- 略歴
- 〈桐野夏生〉1951年金沢市生まれ。成蹊大学卒業。93年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞、99年「柔らかな頰」で直木賞、2003年「グロテスク」で泉鏡花文学賞を受賞。
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紙の本
誰が生き残るのか
2010/10/20 08:16
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
無人島に流されるとしたらどんな本を持っていきますか、というのは古典的ともいえる質問だが、まさか31人の男とたった1人の女が無人島で繰り広げる葛藤を描いた桐野夏生の『東京島』を持っていくとは思えない。
いや、もしかすれば、無人島でのサバイバル読本として、それもまたありかもしれないが。
トウキョウと名付けられた無人島は「潰れた腎臓の形をしており、縦が七キロ、横が四キロ程度」の島である。もちろん、電気も水道も何もない。
そんな島に32人の人間が、しかもたった1人の女が含まれているのだから、どのようなことが繰り広げられるかは容易に想像がつく。ただたった1人の女である清子がすでに四十を超えているというのは面白い意匠だ。
最初は清子をめぐっての男たちの戦いがあったものの、いつしか彼女への興味は薄れていく。女であることを武器にして、それは無人島ではサバイバルナイフよりも有効であったのだが、生き残りをはかろうとする清子という主人公の、狂気や愚かさが全編をひっぱっていく。
しかし、この物語でもっとも面白いのは、その清子が唯一抱かれることを拒んだワタナベという青年の存在であろう。
ワタナベは清子の夫である隆が残した航海日誌(それは同時に無人島へ漂着してからの日記でもある)を盗みだして、ただ一人の読者として読むことの快楽を独占している。
「ワタナベにとって、隆の日誌はバイブルであり、エロ本であり、映画で、テレビだった」わけで、彼ほど恵まれた島民はいなかったにちがいない。しかも、その日誌には白紙のページも残されていて、ワタナベは書くこと、想像し、記録する行為も一人占めしていたことになる。
この長い物語で、男たちと1人の女の生存競争よりも、このワタナベを描いた第二章は圧倒的に面白い。
もしかすると、無人島に持っていくべき本は、何も書かれていない白い本なのではないだろうか。
狂気を救うのは、想像力ではないか。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
紙の本
人間は食欲と性欲からは逃れられない
2008/07/08 00:44
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さあちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初に島に漂着したのは隆と清子だった。会社を早期退職してヨットでの旅行中に遭難したのだ。やがて20人を越す日本人の若者達と10人位の中国人達も別々に漂着する。日本人達は島を東京島と名付けコウキョマエとかオダイバとかトーカイムラなどという地名をつける。島の周りは流れが早くて脱出は不可能。しかし砂浜に謎のドラム缶が多数転がっているところをみると誰かが島に不法投棄にやってきたらしい。待ち続けるものの助けは一向に来ず次第に絶望感だけが募っていく。そんな中唯一の女として清子は奔放に振る舞い隆はだんだん力を無くしていく。それから5年。隆と2番目の清子の夫は謎の死をとげ唯一の女として男達の間に君臨してきた清子の地位ももはや落ち目。そんな中誰が父親かわからない子供を身ごもってしまう。これは島の意志であるとして妊娠を期に自分の存在を神格化しようとする清子。そんな時新たに島に漂着してきた者がいた・・・・
島での生活がリアル。とにかく何もない島なのだ。とれる魚は不味いし果物がたわわに実っているということもない。熱くて何もなく食欲に常に悩まされている。そして自分で食料を調達しなければ生きていけない。病気になることは死に直面することだ。そんな中食べたいと願うのが山崎の食パンだったりケンタッキーだったりで身近に想像できるものばかり。
身勝手でわがままでバイタリティ溢れた清子。彼女は女を武器に日本人と中国人のグループを渡り歩く。一方男達はというと集団で行動し生活力に優れた中国人達に比べ日本人の男達はブクロだのシンジュクだのと名付けた所に個々に暮らしそれぞれが自分の趣味や内面生活に没頭する。けっして統率もされないバラバラの共同体。そこには助け合いの心などは既に無くあるのは他人に対する猜疑心と欲望だけ。そこにみえるのは現代社会における私達の姿なのか?
相変わらす桐野夏生は居心地の悪い作品を投げかけてくる。
紙の本
無人島に何か1つだけ持って行けるとしたら何を持って行くか?
2008/08/14 22:18
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説は我々が「無人島」とか「漂流記」とか「サバイバル」とかいう言葉から連想するものとは少し違っている。帯に書いてある宣伝文句:「生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描き」というようなものでもないと思う。こういう表現をするとかなり語弊があるとは思うが、僕は読んでいてもう少し気楽なものを感じたのである。他の読者の方はそんなことないんだろうか?
無人島に流れ着いた者たちが生きて行くということは、どのレイヤーで切って考えても、とても大変なことであるはずだ。しかし、その一番根源的なレイヤーの記述がこの小説では省かれているのである。
まず、この島には果物類がふんだんにあった。動物性蛋白質を摂るのが少し大変なようではあるが、我慢して食べれば貝や蛇やトカゲはかなり取れたようでもあるし、たまには野ブタなどというメニューも登場している。飲み水はどうしていたかについてはほとんど記述がない。
簡単な釣りの道具を作って魚を獲っていたように書かれているが、何もないところから竿や糸、そして釣り針なんてそう簡単に作れるものではないはずだ。だが、そういうものを作る労苦についても一切言及がない。そして、まず何よりも最初の難関であったはずの火熾しの方法についても記述は完全に省かれている。何故ならば、これはそんなことを読ませる小説ではないからだ。
こういう表現もまたものすごく語弊があるだろうが、僕はこの本は俗にいうサバイバル小説なんかではなく、よくある質問:「ねえ、無人島に何か1つだけ持って行けるとしたら何を持って行く?」の延長線上にある命題だと思う。
極限的に簡略化された世界で、それぞれの人間が何を糧として、何を心の拠り所として、何を矜持として武器として特色として生きて行くのか──そのことが丹念に丹念に書かれた小説であると思うのである。
主人公の清子にとってそれは性、つまり自分が女であるということであった。彼女はそれを糧として、心の拠り所として、矜持として武器として特色として生き抜いたのである。彼女が島でたった1人の女であるということ、しかもやや盛りを過ぎた中年女であったということはそのことを描くための舞台装置でしかなかったのである。
つまり、大勢の漂流民の中に女が1人だけ混じっていたらどうなるかを描くために清子を登場させたのではなく、女であることを前面に打ち出して生きるヒロインを描くためにそういう極限的な設定を用意したにすぎないのだと思う。
清子以外の大勢の登場人物についても、結構行数を割いて彼が何に生きて来たのか、これから何に生きて行くのかということが丁寧に丁寧に書いてある。そして、それこそがこの小説の主題であると思うのである。だから、割合ご都合主義の設定や展開もそれほど気にはならない。
最後の、あのあっけらかんとした結末についても、僕は如何にもこの作家らしいものだと思った。まあ、人間、最後はなんとかなるもんですよ、それぞれその人なりにね──と作家が言っているような印象を受けた。
僕にはこの小説はそんな風に読めた。最初に書いたように「サバイバル小説」みたいな雰囲気はまるで感じなかったのだけれど、どうなんだろ、他の読者の方とは随分違った読み方なんだろうか?
by yama-a 賢い言葉のWeb
紙の本
感想が変化する。
2011/04/10 11:30
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kumataro - この投稿者のレビュー一覧を見る
東京島 桐野夏生 新潮社
感想をなんと表現してよいのか思い浮かばない。他の書評を参考にしてみようと読んでみたけれど本作品を支持する人が3割、残り7割は首をかしげている。そして、わたしは残り7割の人間です。
「東京島」というタイトルからは、東京にある島、されど尋常な島ではなかろう。たとえばごみの島というような先入観をもって読み始めました。東京島は東京にはありませんでした。フィリピンの近くにあるようです。
悪天候で遭難し漂流した人々が漂着した無人島で、彼らがその島を「東京島」と名付けたのです。32人中1人が女性で、彼女は46歳の清子さんです。遭難者のなかには、中国人男性たちもいます。どちらかといえばひ弱な男性が多い。人々は、自分の本名を捨てます。島内には、彼らが付けた地名が生まれます。地名については、ブラジル移民が、ブラジルの地で、「太郎滝」というように自ら地名を付けたことを思い出しました。
救援はなかなか来ません。夢や希望がかなわないと確定したときに彼らは本能で生きようとします。食欲と性欲そして宗教です。法治国家ではなくなる。倫理観もなくなる。あきらめからみんながおかしくなっていく。現世とは別の世界が誕生します。名前が変わることで人格まで変わる。
作者はどうしてこの長い物語を書いたのだろうか。人間は、極限状態におかれると変容するという状況描写が続きます。身の回りにあった便利なものがなくなると、人間は原始生活に戻る。
最も後ろの部分を書くとネタばれになってしまうので書きません。ここまで、感想を書いてみて、本作品に対する自分の評価が変わってきました。冒頭に書いた3割、この作品を高く支持する部類に属することにしました。
紙の本
どんな状況にあっても決して失われない望郷の念
2009/02/15 13:28
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:菜摘 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今回もまたまた桐野氏しか書けない世界の登場。桐野作品の特徴である人の心の黒い部分をこれでもかこれでもかと前面に出す内容や展開にこの頃やや食傷気味ではあったのですが、それでもなお本書は必読です。
多くの書評によれば本作は現代社会の縮図として描かれている、とありますが、私はそれはちょっと違うと感じました。人が持つ妬み嫉み、それらよりももっと強くこの物語で描かれているのは、どんな状況にあっても決して失われない【望郷】の念、だと思うのです。
清子達が置かれているトウキョウ島の劣悪な衣食住の環境のせいでもなく、狭い社会の憂うつな人間関係のせいでもなく、そうした状況を超越してもなお色濃くみんな、特に清子の考えの最終的な目的は、どんな場合でもやはり 『いつか必ず日本に帰る』 という望郷の想い。彼女が自分を常に島における強者、権力者として皆に印象付けたい理由はいつか日本へ帰る日に自分が真っ先に戻る(船に乗る)権利を持つためで、そのためには強い男であるホンコン達にすがろうとするのも子どもを産むのもすべてが 『帰るため』。それほどまでに人とは故郷、自分の居場所を求めてやまないものだということだろうか。
他の登場人物の様相、特にワタナベ、森、マンタらが自ら生み出した思想にがんじがらめにさせられてしまう様子がありありと描かれているのは、本当に恐ろしい。これらが決して荒唐無稽ではなく同じ状況に置かれたならば程度の違いはあれ、誰もがこのトウキョウ島の住民らと同じ道を辿るのではないかと思うと、それもまた恐ろしい。
恐ろしい恐ろしい、と思い続けて終章に用意されているチキとチータのそれぞれの一人語り、これが本当に見事。この終章のためにこの作品は存在しており、そしてこういう終章を用意できる桐野氏という作家はやはり本物だと、強く思います。
紙の本
私には昔の東宝の怪獣映画と同じレベルのお話にしか思えないんです。これがなぜ純文学誌に掲載されたのか、本当の読者はどう思っていたのか、本当のところを聞きたいです。ともかく、フツーでした。
2008/11/06 20:28
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
出版当時、随分騒がれた本です。当時、なんて書きましたが、今年に出た本なんですねえ。今、読んでいる人がどれだけいるか、少なくとも通勤電車にはいない、と断言できます。理由ですか、桐野らしからぬ大味な話だからではないでしょうか。なんだか東宝の怪獣映画を観ているような大雑把さ。どうしてこれが「新潮」に連載されたのか、理解に苦しみます。
装幀のほうも野暮ったい。色合いも造本も、20年前の本と何処が違うのか、って聞きたいくらいです。新潮社も「新潮」連載らしいものにしてあげればいいのに、これじゃあ「小説新潮」か「週刊新潮」本とではないですか。意匠を変えるだけでも印象は大きく違ったのに。
ま、内容から言えば中年のオバサンたちが喜んで読むようなないようなので、純文学系の上品な装幀では買ってもらえなかったでしょう。そういう意味では俗っぽい装幀のほうが似合うのかもしれませんが、なんだかなあ、桐野にとってこれは書かれるべき小説だったのかなあ、なんて想います。写真は三好和義、装幀は新潮社装幀室。
内容はシンプルなので、出版社のHPの言葉を借ります。
あたしは必ず、脱出してみせる――。ノンストップ最新長篇!
32人が流れ着いた太平洋の涯の島に、女は清子ひとりだけ。いつまで待っても、無人島に助けの船は来ず、いつしか皆は島をトウキョウ島と呼ぶようになる。果たして、ここは地獄か、楽園か? いつか脱出できるのか――。欲を剥き出しに生に縋りつく人間たちの極限状態を容赦なく描き、読む者の手を止めさせない傑作長篇誕生!
以下でも以上でもありません。初出と目次は以下の通り。
第一章
1 東京島(「新潮」2004年1月号)
2 男神誕生(「新潮」2004年6月号)
3 納豆風の吹く日(「新潮」2004年9月号)
第二章
1 棄人(「新潮」2004年11月号)
2 夜露死苦(「新潮」2005年2月号)
3 糞の魂(「新潮」2005年10月号)
第三章
1 島母記(「新潮」2006年4月号)
2 イスロマニア(「新潮」2006年7月号)
3 ホルモン姫(「新潮」2006年9月号)
第四章
1 早くサイナラしたいです。(「新潮」2006年11月号)
2 日没サスペンディッド(「新潮」2007年2月号)
3 隠蔽リアルタワー(「新潮」2007年4月号)
4 チキとチータ(「新潮」2007年7月号)
5 毛流族の乱(「新潮」2007年9月号)
第五章
1 有人島(「新潮」2007年11月号)
舞台となった島の様子と、主な登場人物について書いておきましょう。
トウキョウは、潰れた腎臓の形をした縦7キロ、横4キロ程度の小島で、東京湾にあるわけではありません。毒蛇や山猫などの危険な動物は生息せず、野生種のバナナやタロイモが豊富に採れ、椰子も大量に生えている食物に恵まれたこんもりした緑に覆われ、高い山のない無人島です。
島に流れ着いた日本人たちは、島の色々な場所に日本にちなんだ名前をつけます。黄色くペイントされた蓋でしっかり封印されたドラム缶が大量に転がる浜は、トーカイムラといいます。ホンコンが連行されて着たところはオダイバ。島の広場はコウキョと名付けられました。
五年前、クルーザーで旅に出た清子と隆夫妻が島に流されてきた3ヶ月後、与那国島の野生馬調査に雇われ仕事への不満から脱走を企てた若者23人が流れ着き、3年前に中国人グループが何者かに船で送り込まれ、32人の島民が暮らすようにな、島の西側をトウキョウ、中国人グループが住むトーカイムラを含む東側をホンコンと呼んでいます。
トウキョウ人たちは気の合ったもの同士で集落を形成し、ブクロ、ジュク、シブヤと名づけてひっそりと暮らし、一方、ホンコンたちは軍隊式の集団生活を行なっている、それが現状です。
登場人物を紹介します。
キヨコ:清子:46歳。結婚20年で夫を失う。32人中ただひとりの女性。
隆:清子の夫。五年前、47歳の会社を辞め那覇港からクルーザーで世界一周の旅に出るが、島に流され、三ヶ月の闘病ののち死亡。崖から突き落とされたともいわれる。
ワタナベ:性格の粗暴さ、ゆえに皆と離れてトーカイムラというハマに廃棄物の封じ込められたドラム缶とともに暮らす。キヨコと寝ることばかり考え追い掛け回すが、嫌われ、それを恨みに思う。隆の残した日記を盗み出し読むのを楽しみとする。
ヤン:11人からなるホンコンのリーダーで、30代半ば。後に清子と関係する。
ユタカ:GMこと森軍司。推定年齢27,8歳。記憶を失ったことから、衣服についていたイニシャルをとってGMと呼ばれるが、キヨコの4代目の夫となったとき、彼女からユタカと呼ばれることに。
マンタ:俊夫、31歳。三つ年上の姉のカズこと和子を幼いときに亡くすが、彼女の人格が時々現れる。一人暮らしが好き。
オラガ:学習塾で教えていたという30歳の男。
カスカベ:21歳の獰猛な若者で、隆なきあとキヨコの夫となったが二年前、サイナラ岬から落ちて死亡。
掲載誌というものを気にしない向きもあるでしょうが、ちょっと考えながら読んでみるのも一興ではないでしょうか。異色作であることだけは確かです。
紙の本
極限で露呈する現代人のサバイバル作法とは………と大見得切った作品なのかな?
2008/09/28 19:12
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「32人が流れ着いた太平洋の果ての島に、女は清子ひとりだけ。いつまで待っても、助けの船は来ず、いつしか皆は島をトウキョウ島と呼ぶようになる。果たして、ここは地獄か楽園か?いつ脱出できるのか………。」
清子ら夫婦は夫が退職金でクルーザーをもてる、そのくらいの身分だったようだ。後から流れ着いた23人の若者は与那国島で臨時雇い労働からの逃亡組。そこへ中国人で島流しにされた胡散臭いのが11人。装飾帯コピーの「32人」とは計算が合わないが、死んだ人もいるだろうし、暑いので数え間違いをしているのかもしれないが「そして誰もいなくなった」ではないのだから、そんなことはどうでもいいのだろう。
まずいのを我慢すれば食うものには困らない程度に植物や動物が生息している。セックスのほうも清子がいるから民主的に何とかまわせる。一人や二人事故死か殺人があったところで、総体としては数年も生きていられるのだからね。精神に異常をきたすものがいるかと思えば、もともとちょっとおかしいやつらだから、そのまんまのようだねぇ。(フリーターなんてやっている連中はみんなこういう人種なんだといわんばかりで、そうだとしたらそれはあんまりではないですか)
「食欲と性欲と感情を剥き出しに、生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描き」とコピーがあるがそれほど酷い生活環境ではないな。
「読者の手を止めさせない傑作の長編誕生!」
ともあるがこれもどうかな。
ストーリーには盛り上がりがないし………。
そうかこれは現代の「グリム童話」なんだ。
と気がついて、では現代日本を痛烈に皮肉った何かがあるに違いない。隠喩?どこに内に含んだ毒があるんだろうと丹念に探してみたが容易なことでは見つかりません。
島流しになった中国人たちの知性、腕力、統率のとれた組織力、創意工夫力、サバイバル能力、危機管理能力を際立たせて、平和ボケした日本人をあざ笑っているのかもしれないなぁ。わからんでもないが賞味期限切れの乾燥ワサビ程度の刺激もない。
この閉ざされた原始共同体では、中年の女性でもセックスを武器にすべての男性を支配し、またダメな亭主をさておいて未経験の快楽におぼれることができる。これでトウキョウ島の女王だ。飽きられる頃には妊娠して子供をつくれば種族保存のための女神様だともてはやされるのである。「元始女性は太陽であった」んだ。現代社会での性差別に憤る女性たちに元始に戻って復権をとメッセージを送っているのだろうか。著者の『グロテスク』に通じるようなところもあるから、もしかしたら共感する女性読者もおられるだろうし、こんな風に論評するのはこのあたりでやめといたほうがよさそうです。
スケベ根性から過激なセックスシーンを期待するところもあったんですが、過激は過激でも「グリム童話」だからか、過激にエロいギャクを連発する谷岡ヤスジ風漫画のようで笑ってしまいます。
各章ごとに時間軸が前後するのでなにか衝撃のラストに向けての伏線だろうか。しかしこれはミステリーではないのでそういう意味で読者を混乱させる意図はなかったようです。
雑誌「新潮」に2004年1月号からとびとびに2007年11月号までかなり長い期間にわたり掲載されたことが最後に記されていました。もともと連載長編だったのかそれとも短編の合冊なのかよくわかりません。
この作品、谷崎潤一郎賞を受賞しています。だからとにかく「女はしたたかに生きよ」という大切なメッセージがあるように思われました。