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さようなら、ギャングたち
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すなねずみ/SpeedFreaksBabyRocketDive
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<>この直後に「今、それがわかる。/この、すごくナイスな今に」と書いてある。ほんとに、すごくすごくナイスだったに違いない。 この小説は、完全に突き抜けている。 一回ぐらいは最初から順番に頁を捲っていくべきだろうけど(これは、僕が旧弊な人間ゆえの寝言かも……)、一度読んでしまえば、あとは気分がクサしたときに適当な頁をバッと開いてちょっと読んでみるというような付き合い方ができる。そういう付き合い方のできる小説というのは案外少ない。すごく貴重である。 そもそも世の中にこれだけ沢山の本があって、それ以外にも山のようにいろんな物事が山積、今に雪崩でも起きるんじゃないかって状況のなか、一冊の小説を真面目に…
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かもめのジョナサン
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すなねずみ/一冊の小説を選び、読むということ。
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リチャード・バックと言えば、『イリュージョン』という小説を思い出す。ジョン・レノンを(あるいは「星の王子さま」を)思わせるドナルド・シモダという飛行機乗りと出会った、ひとりの若い飛行機乗りの話だ。 本編が始まる前に、ごく短い寓話ふうのお話が置かれている。ある川に、日々岩に掴まって生活している生き物がいる。川に流されて、どこか訳の分らないような場所に流されてしまわないように、みんな、必死に岩に掴まって毎日を送っている。ある日、彼らのうちのひとりが、「おれは岩から手を離してみようと思う」と宣言をする。仲間たちは、馬鹿にしたり、無視したり、あるいは引きとめようとしたりする。しかし彼は思いとどまらな…
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白い人・黄色い人
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すなねずみ/「道」
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「あまりに図式的でリアリティのない世界……善と悪、光と影、霊と肉、そんな二元論的思考?」遠藤周作の小説は図式的だ、という批判がある。思想的なものが前面に押し出されすぎて小説としては完全に失敗しているケースが少なくない、というふうに。でも、『白い人・黄色い人』(1955)『海と毒薬』(1958)『沈黙』(1966)『死海のほとり』(1973)『侍』(1980)『深い河』(1993)と七つの小説を続けざまに読んでみて思うのは、少なくとも『侍』や『深い河』のあまりに図式的な小説のつくりは、これは遠藤先生、わざとやってるな。旧約聖書の「神」と新約聖書の「神」の違い。『世界の終りとハードボイルド・ワンダ…
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侍
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すなねずみ/「私小説」
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『沈黙』が「信じること」の原点を抉り出す小説であるとすれば、『侍』は「表現すること」の原点を抉り出す小説である、と思います。『沈黙』の次に書かれた長編小説『侍』について、遠藤周作は「この小説は僕の私小説みたいなもの」だと言っています。それは『侍』の背景に、彼自身が小説家として生きていくことを決意するに至るフランス留学の体験(『作家の日記』に書かれている過酷な船旅)、そして少年時代の自らの意志とは無関係な受洗という体験があるからです。 ここで遠藤周作のシリアス系の小説の流れを整理してみると、たとえばこんな感じになるでしょうか。『海と毒薬』(壊すことの探究)→『沈黙』(信じることの探究)→『侍』(…
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死海のほとり
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すなねずみ/「光」
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<<「愛こそすべて♪」「愛が見たいならサーカスにでも行って!」>>(Last Tango in Paris)その涜神的な(性)表現ゆえに物議を醸した映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)のなかで、映画「地獄の黙示録」(1979)ではカーツ(→クルツ)を演じたマーロン・ブランドが演じる男(ポール→パウロ)は、「名前」を持たないままの関係に拘る、旧約聖書のなかの「神」のように。『死海のほとり』を読みながら、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と似ていると思った。ちょっと古臭い言葉でいえば「ハレ」と「ケ」とか「日常」と「非日常」とかそんな感じの二つの世界を交互に置いている…
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キリストの誕生
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すなねずみ/「逃げる」
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「宗教」っていうのは、あんまり格好いいものではない。というか、とても格好悪い。おまけに危険な臭いさえする。それは、たぶんある意味では正しい。「宗教」には人間の弱さを煮詰めたような醜悪さがあるし、空想的な狂気と危険性が充満している。 そして、だからこそ、「宗教」というものを敬遠し、あるいはそれを一種の「逃げ」に過ぎないものとして斬って捨てるのは間違っている。 小説家・遠藤周作がキリスト者・遠藤周作を対象化し、自らの信仰告白として書いたのが、『イエスの生涯』(国際ダグ・ハマーショルド賞受賞)と『キリストの誕生』(読売文学賞受賞)である。『イエスの生涯』は徹底的に無力な「生活」無能力者としてのイエス…
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海と毒薬
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すなねずみ/「可能性」
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何人かの人物のそれぞれの「生」がひとつの「事件」に向けて収束していくさまを、複数の視点からの回想を交えながら描く。映画「羅生門」のように。『深い河』では五人の登場人物がガンジス河へやってくるに至る事情が、すべて三人称で語られる。(「一章 磯部の場合」「三章 美津子の場合」「四章 沼田の場合」「五章 木口の場合」「十章 大津の場合」)『海と毒薬』では「第二章 裁かれる人々」として看護婦・上田、医学生・戸田、医学生・勝呂(すぐろ)の三人が米軍捕虜の生体解剖という事件へと転がり落ちてゆくまでの経緯が、上田、戸田については一人称で、勝呂については三人称で語られている。看護婦・上田には遠藤周作の母のイメ…
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深い河
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すなねずみ/「神」
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三波春夫は「お客様は神様」と言ったけれど、役者が舞台の上でもうひとりの役者に台詞を投げかけるとき、その台詞がリアリティをもって「言葉」として立ち上がってくるのは、劇場という孤独な空間のなかで、役者にとって確かに「お客様は神様」だからなのだと思う。 シェイクスピアが地球(グローヴ)座で「世界は舞台」と言ったとき、川上弘美が『神様』という小説にひとりの熊の喜びと悲しみを描いたとき、ナチの強制収容所でひとりの人間が「世界はどうして、こう……美しいんだろう」と言ったとき、その言葉をV・E・フランクルが『夜と霧』に書き留め、ふたたび遠藤周作が『死海のほとり』にその言葉を書き留めたとき、彼らの視界から、…
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沈黙
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すなねずみ/「モノローグ、ダイアローグ、ポリフォニー」(ここで、跳べ!)
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<<日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。「ここもねえ、」と、突然マーロウが言い出した。「かつては地上の闇黒地帯の一つだったんだ。」>>(『闇の奥』)伝道教化の意志を抱きアフリカ奥地へと向かいながらその闇黒に呑み込まれ、鈍く強烈な光を放…
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葉隠入門
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すなねずみ/ファナティック(狂信的)ということ。
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<<根本的には「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という「葉隠」のもっとも有名なことばは、そのすぐ裏に、次のような一句を裏打ちとしているのである。「人間一生誠にわづかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。」>> 三島由紀夫(1925〜70)が自らにとってのただ一冊の「座右の書」であると語る「葉隠」は、佐賀藩士田代陣基が元藩士山本常朝の草庵を訪れて、宝永七年(1710年)から七年あまりの歳月をかけて、その語るところを聞書・編纂したものである。 山本常朝は、主…
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青春ピカソ
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すなねずみ/温故知新
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<>「目のくりくりしたたこ坊主」=パブロ・ピカソ。 岡本太郎(1911〜1996)は、「今日心から尊敬する唯一の芸術家」パブロ・ピカソを「目のくりくりしたたこ坊主」と呼んだ。(彼は原稿を口述のかたちで書いたらしいので、じっさいに「目のくりくりしたたこ坊主」という言葉を口にしたのだろう。なんだかとても可笑しい。) 1953年4月に南仏ヴァロリスのアトリエ(陶房)に七十二歳のピカソを訪れた四十二歳のタロー。 その顛末を描いた「ピカソとの対話」が『青春ピカソ』の最後に、ぽんっと投げ込まれている。まるで一幕のファルス(笑劇)のように。そこで展開されるのは燃え滾るような熱い芸術論の「爆発」とかではさらさ…
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私のピカソ私のゴッホ
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すなねずみ/三つのエス
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ポール・トルトリエの無伴奏チェロ組曲(ヨハン・セバスチャン・バッハ)。彼は、人が生きていくためには三つの「S」が必要だと言った。「Solitude」「Space」「Silence」ほんの戯れに『私のピカソ 私のゴッホ』のなかで取り上げられている三人の画家を三つの「S」に対応させてみようと思ったりした。パブロ・ピカソ(1881〜1973)<<ピカソの消えたノートルダム・ド・ヴィーのアトリエ。「沈黙のスタジオ」。ピカソの姿はどこにも見えない。主人公の去った舞台に、しかし画家が残していった総てのものが置き去られている。総てのものがそのままの状態で、何一つ動かされていない死の直前のままの状態で、残され…
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小説の終焉
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すなねずみ/「よく味はふ者の血とならん」(文鳥堂書店のブックカバーより)或いは「虚にして実、実にして虚、バランスが命綱」(阿佐田哲也)
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<<毎日を充実して生きる。その積み重ねが僕の歴史である。日々はできるだけ単純で、潔癖なのがよい。そういう日々を重ねて六十年が過ぎた。 そういう生活のそばにいつも小説があった。日々の生活が「実」なら、小説の世界は「虚」である。この二つが重層する空間が僕の日常であった。「実」の空間だけあってもだめ、「虚」の空間だけあってもだめで、「実」と「虚」の空間が重なり合ってこそ、僕の日常は充実していた。>>(「おわりに」より) 1941年生まれの文芸評論家・川西政明さんが小説とともに歩んできた日々を振り返りながら語った随筆『小説の終焉』は、とても充実している。二百ページほどの本なのに、百冊分くらいの小説世界…
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青空感傷ツアー
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すなねずみ/素敵な少女に「すてきなかれし」ができますように。
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「世の中のカップルがみんな喧嘩別れするわけじゃないでしょ? だから、忘れられなくて引きずる人っていうのが、いつでもどっかにいるんじゃないかな」「うん。そうかも。どっちかが引きずってたり、両方とも全然引きずってなかったり、ふたりとも引きずってたり……」 クリスマスを前に恋人と別れたらしい制服姿の十六歳の女の子が、親友と思しき女の子と話している。 ふたりの会話はトーンとかリズムがとてもやわらかくて、うるせえなとかまったく思わせるところがなくて、これ見よがしのところも皆無で、そのやわらかな空気のふるえ。 会社帰りのサラリーマンやらOLやら塾帰りの子どもやらだらけの車内には宛先の定まらない敵意みたいな…
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きょうのできごと
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すなねずみ/よしなしごと。トム・ウェイツとか聴きながらの。
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『迷走王 ボーダー』という漫画に「捕鯨・発祥の地」という胡散臭い名所が出てきて、その海辺にあるハリボテの鯨のなかに「もうひとつの知られざる三億円事件」の犯人たちが阿漕な大金持ちから失敬した札束を隠して、ほとぼりが冷めるまで十年だか十五年だか待ってから取りに行くというエピソードが描かれている。で、たまたまそれを小耳に挟んだ主人公たち三人(社会のボーダーライン上を生きている男たち=「ボーダー」)がそれを横取りしようとするという展開になるのだけれど、「もうひとつの知られざる三億円事件」の犯人(女一人、男二人)はいわゆる「シネフィル(映画気狂い)」で、ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・…
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アフターダーク
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すなねずみ/ささやかな胎動へ
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浅井マリと姉エリの関係がふと『ノルウェイの森』のなかの直子と姉の関係とパラレルなものに思えてしまって(77頁あたりから)、気がつくと読み始めの頃の違和感もほとんど気にならなくなっていて、しっとりと身体にしみ透ってきた感じ。<>(『ノルウェイの森』)そして直子はある日、部屋で首を吊っている姉を見つける。『ノルウェイの森』ではそうなる。でも『アフターダーク』ではそうはならない。<>(『ノルウェイの森』では、直子は姉ではなくワタナベのベッドにそっと入ってくる。姉はすでに死んでしまっているから。)失ってしまったもの、取り返しのつかないもの。乗り越えたつもりでいても、それは、よりによってこんな時にって思…
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沈黙博物館
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すなねずみ/沈黙と、暴力
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小川洋子さんは佐野元春の歌を元にして『アンジェリーナ』という短篇集を書いている。佐野元春の詩には、アレン・ギンズバーグやらゲイリー・スナイダーやら、アメリカの50〜60年代を彩ったビートニクたちの影響がときに痛々しいほど率直なかたちで現われている。『沈黙博物館』にも、ビートニクたちの声がどこか遠くのほうでかすかに響いている。「わたしたちは盲目で、盲目のまま最後まで盲目的な生活を送っている。詩人たちというものは呪われているが盲目ではない。彼らは天使の目をもってものを眺めている」(ウィリアム・カーロス・ウィリアムズが、ギンズバーグの『吠える(Howl)』に寄せた序文より)「沈黙博物館」はこの世を去…
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美の呪力
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すなねずみ/クールに爆発する
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「芸術は爆発だ」と叫ぶ奇妙なおじさん。それが岡本太郎のイメージだった。ブラウン管のなかでタモリにからかわれている、ちょっと(かなり)あぶない感じのおじさん。ああはなりたくない、という思いを子ども心に強く持った覚えがある。おまけに芸術家が実作を離れて書いたものというのは、えてして信用ならないところがあったりするから、バタイユやブルトンや花田清輝(←個人的なお気に入りの三人)との交流という予備知識がなかったら手に取ることさえなかった本だと思う。彼は書くという行為について、(「造形(=芸術制作)の場合、私にはコミュニケーションを拒否する意志が強烈にはたらく」と書いた上で)こんなふうに位置づけている。…
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ガンジー自伝
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すなねずみ/「真実をわたしの実験の対象として」という副題をもつ、マハトマ・ガンジーの自叙伝です。
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ガンジーといえば、「非暴力・非服従」というキーワードで知られるインド建国の父である。リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」はとても感動的で、ガンジーの一生をドラマティックに描き出している。ガンジーのことを知るための入り口としては、この映画が一番だと思う。(アッテンボローといえば、映画「大脱走」での役者っぷりも忘れがたい。ちなみに、あの映画で僕はマックイーンに惚れた……)で、アッテンボローの映画を見て感動したりしたならば、次はこの本に進んでみたらどうだろう。ガンジーはいかにしてあの「ガンジー」になったか、それがわかると思うから。(ちなみに、この本の解説を書いているのは博覧強記の松岡正剛…
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西瓜糖の日々
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すなねずみ/僕の個人的な「西瓜糖」体験
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散漫になりつつある印象がある。散漫さは優しさに似ているけれど、それはとても脆弱ですぐに壊れてしまう。一点を見据える強さがなければ、ほんとうの優しさは、たぶん不可能だ。技巧的な優しさは、意識的に表出される強さと同じように、所詮は他人を傷つけるためのものとしてしか働くことがない。外に向かうのか内に向かうのか、そんな二分法で考えるのは、なんだかとても難しい。一気に(たぶん)内側へと極端なほどに強い力で自分を向けてくれる(無意識裡に、気づかぬうちに)ようなものに触れることが、ときに必要なものである。作品の世界に入り込むことが、『地下街の人びと』や『西瓜糖の日々』のような、それぞれに非現実的な肌触りのリ…
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五分後の世界
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すなねずみ/サバイバル…終わりは始まり。(結末をちょっと書いてしまっています。結末を知っていても「力」をもらえる小説だと思うので。ちょっと前の小説だし)
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日本が「無条件降伏」せずに地下に潜って戦争を続行している、そんなパラレル・ワールドに紛れ込んでしまった男の話。 「村上龍はバカだ」なんて言う人(←「軽率すぎ」「ホントのトコがわかってない」等々)もいて、それも一理あるような気もするけれど、少なくともこの人は小説家として深い闇に降りて闘っている。<<「……最も大切なことがある、絶対に悪い想像をしてはいけないということだ、最悪の状況をイメージしてはいけない、敵に囲まれて何時間もそのまま息をころして潜んでいなくてはいけないような場合、戦闘になって追いつめられたような場合、負傷した場合、絶対に悪い想像をしてはいけない、大丈夫だ、と自分に暗示をかけるんだ…
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地下街の人びと
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すなねずみ/チャーリー・パーカーを聴きながら。
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「昔、あんたみたいな女がいた。だれも、その女を助けようとしなかった」(『荒野の用心棒』1964)クリント・イーストウッドはチャーリー・パーカー(1920〜55)の生涯を描いた映画『バード』(1988)を作り、ジャック・ケルアックは、バードを中心人物とする音楽的革命「バップ」(bap)を散文的形式の中に取り込むことで、『地下街の人びと』(1958)を書き上げた。ケルアックといえば『路上』(1957)だ。その自伝的で記念碑的な小説はこう始まる。「はじめてディーンに会ったのは、ぼくが妻と別れて間もないころのことだ。そのころ、ぼくはある重病から回復したばかりであった」(ケルアックはかつて「偏執狂的精神…
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武蔵野
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すなねずみ/『忘れえぬ人々』という小説と「忘れ得ぬ人々」というスケッチの間。
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多摩川沿いの田舎宿で無名の物書きと無名の絵描きが、ほんの偶然に同宿する。『忘れえぬ人々』はそんな小説である。その物書きがスケッチふうに書きとめていた「半紙十枚ばかりの原稿」が「忘れ得ぬ人々」である。<>その人のことを思い出す理由など、これっぽっちもない。“心”を動かされるような交流など皆無。むしろそんな余計なものがあったら、何かが損なわれてしまうような眼差し。国木田独歩の物書きは言う。「とにかく、僕がなぜこれ等の人々を忘るることが出来ないかという、それは憶い起すからである」。僕のなかでこのフレーズと響き合ったのが、『草枕』の冒頭にある「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が…
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海からの贈物
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すなねずみ/静かな本を静かに読みたい。そんなふうな気分になったときには、たとえばこの本を。
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<>功利的な世界観。内心その状況に対して「否」を突きつけていても、実際のところ自分の口をついて出る言葉はとても功利的で、あまりに醜すぎる。洗練されていないぶん罪は少ないのかもしれない。そんなふうに自分を慰めても虚しい。結果として自分が生み出すものが不快であるとしたら、すべてのためにすべてを賭けて黙ること。(かもしれない。)<>饒舌ではなく沈黙へと向かうような言葉。沈黙へ向かって進み、沈黙の世界に触れて、そこから戻ってくる。そんな古ぼけたイメージ。「そこから戻ってくる」ために「沈黙」に向かおうとするのではなく(なんだか打算的でいやらしいから)、ただ沈黙を求める、その気持の強さだけを大切にする。語…
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失楽園
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すなねずみ/ミルトンの失楽園
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『失楽園』を読みながら、堕天使たちが神への復讐についてひどく人間的に喧々諤々の議論を戦わせる場面(→その結果、彼らは人間どもを誘惑することに決めたわけだ)に妙に力強さを感じ、魔王サターン(=堕天使ルシファー)の潔い言葉の数々にとても格好いいなぁと感じ入ってしまって、これは困ったもんだなぁ……と思わず悪魔な微笑が洩れる。坂口安吾が「堕ちよ」と書くとき、彼はこういう堕ち方のことを言ったのではあるまいか、みたいな。盲目の詩人たちが書いたもの……といったところで、ミルトンとホメロスしか読んだことはないし、ヘレン・ケラーの『わたしの生涯』(訳者の岩橋武夫氏も盲目の人……ちなみにミルトンとかホメロスが盲目…
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白痴・二流の人
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すなねずみ/安吾の優しさと力強さを存分に味わえる作品集。この角川文庫版は素晴らしい選曲です。
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大正十四年、二十歳の坂口安吾は一年間小学校の代用教員をしていたことがある。昭和二十一年、四十歳の坂口安吾は『風と光と二十の私と』を書いた。その頃のことを思い出しながら。<>「自然(=風と光)」のなかで「生活の悩み(=私)」とは無縁の場所で生きていた二十歳の頃の自分(の世界)をなつかしく思い出す気持ちが、『風と光と二十の私と』というタイトルには込められている。たぶん。そして、それは単なるノスタルジーを超えている。もちろん。キース・ジャレット(ジャズ・ピアニスト)に『サムウェア・ビフォー』というアルバムがあって、その一曲目にはボブ・ディランの「マイ・バック・ペイジス」という曲が入っている。(ディラ…
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グレン・グールド孤独のアリア
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すなねずみ/「音楽はわれわれがなす言葉への復讐である。」
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(ビル・エヴァンスのように、ピアノに、深く深く屈み込むようにして鍵盤のうえに繊細で力強い指を走らせる。キース・ジャレットのように、すぐ其処の無限の彼方にある音を求めて、美しくも不完全な音を自らの歌で補おうとするかのように奇声を発する。クラシック音痴の僕にとって、グレン・グールドはそんなピアニストだ。)クラシックを聴いて涙が出そうになったのは、初めてだ。グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」(1955年録音盤)。<>最近デイヴィッド・クローネンバーグが作ったグールドのドキュメンタリーを見たことや、そのドキュメンタリーにも出てきた何だか僕好みな雰囲気を持ったおっさん(ミシェル・シュネーデル)の…
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傑作から学ぶ映画技法完全レファレンス
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すなねずみ/とってもクール。
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(イラストつきで説明も簡潔、章ごとに付されている「練習問題」もぜんぜん暑苦しくないし、さらにはそれぞれのテクニックが使われている映画をさりげなく教えてくれたりもします。べつに映像作家なんか目指してなくても、ふんわりと風に舞うように楽しめたりする感じの、とってもクールな本です)映画の技法と小説の技法を、ひとつかふたつぐらい、なんとなく並べてみて、それを眺めていると、いろいろとりとめもなく考えたりもして、リフレッシュ法としてなかなか悪くない。ステップ5「視野に変化をつけるテクニック」より、ふたつのテクニック。(前置きの抜粋→「映画に関してだけいえば、見る者は自らの観点を捩じ曲げられることを、むしろ…
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わたしの生涯
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すなねずみ/真夏の強烈な日差しが地上のあらゆる物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている
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大切なこと。そんな言葉を書きつけて、我ながら気恥ずかしくなる。大切なこと、それはぜんぜん大切そうじゃない場所に、ひっそりと息を潜めて、僕を(君を)待っている。鳥肌が立ちそうだけど、堪える。「愛とは、今、太陽が出る前まで、空にあった雲のようなものですよ」とサリバン先生は言う。そして説明する。「あなたは手で雲に触れることはできませんが、雨には触れることができます。そして花や渇いた土地が暑い一日のあとで、どんなに雨を喜ぶかを知っています。あなたは愛には触れることができませんが、それがあらゆる物に注ぎかける優しさを感ずることはできます。愛がなければあなたは幸福であることもできず、その人と遊ぶことも望ま…
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淀川長治究極の映画ベスト100
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すなねずみ/語り部の声に耳を傾ける。「映画を頭で見たら、つまらないね。もっと感覚的に見てほしい。」
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淀川さんの本が近所の本屋に平積みになっていて、「ふ〜ん、新刊なのかな」と思ったら、そういうわけでもなくて、奥付を見ると2003年9月20日初版発行とある。命日が近いのかな、とネットで調べたら、亡くなったのは98年11月11日。結局なんでかよくわからなかったのだけれど、最近昔の名画をあれこれ見散らかしていることもあり、「これも天のお告げかな」と馬鹿なことを考えて、購入する。『アパートの鍵貸します』を見てジャック・レモン演ずるバクスター(保険会社勤務)に妙に感情移入してしまったものだから、未だにちょっとばかり数字に五月蝿くなっているらしい僕としては、百本のうち自分は何本見ているのか、と数えてみたの…
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