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脱「ひとり勝ち」文明論
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さいとうゆう/今こそ「希望」についてみんなで考えよう
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2004年に山田昌弘さんの『希望格差社会』を読んで、もはや「希望」さえ持てない時代になったかと落胆したことを覚えている。そして、2010年に玄田有史さんの『希望のつくり方』を読んで、そうか「希望」というものは、どこか知らない「向こう」にあるのではなく、実は私たちのすぐそばに、ひっそりとあるものなのではないかと、思えるようになった。本書には、そんな希望のあり方の一つを、具体的な電気自動車開発という形で提示して見せた著者の、熱い想いと願いがあふれている。 本書の帯には、次のような言葉が踊っている。《不況対策も地球温暖化もエネルギー問題も全て解決!!エリーカ開発者が語る、「太陽電池と電気自動車」」…
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キュレーションの時代
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さいとうゆう/池上彰のつくり方
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メディア・リテラシーを身につけるというのは「情報の目利き」になることである(日垣隆)。あふれる情報の中から有用なものだけをピックアップし、それを必要としている人に対して提示するが「目利き」の役割だ。私たちは目利きの「目」を信用し、その人のアンテナを信頼している。キュレーターは、博物館や美術館の学芸員であることにとどまらない。「世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展として成り立たせる仕事」をするには、「情報を司る」ことができなければならない(p210~211)。かつては、世界中にある情報を収集するのも、それらに意…
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沈む日本を愛せますか?
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さいとうゆう/たそがれの日本
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「戦後」というのは「今日と明日とでは何もかも違う」「明日は新しい何かが起こる」というのが当たり前の時代だった(佐々木甚一)。常に変化と革新があり、あらゆるものが「右肩上がり」に成長してゆく。司馬遼太郎『坂の上の雲』の世界である。しかし1980(昭和55)年以降、特に何かが大きく変わるわけではない状態が続いている。高橋:ある時期から、僕たちは円環的な歴史の中に入り込んでしまった。…自民党というのは、右肩上がり、今日と明日は違うという前提でできていた政党なので、「変わらない時代」に対応できない。…自民党って、「戦後」という「世界」に住んでたんだよね。ところが…いつの間にか戦後じゃない世界になってい…
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戦争と万博
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さいとうゆう/万博という名の戦争
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万博というと「博覧会」の「博」のほうに注目が集まるけれども、「万」が「万国」の略であるようにすこぶるイデオロギッシュな企画である。にもかかわらず、1970年に開催された大阪万博には、当時「前衛」と謳われた芸術家たちがこぞって参加している。磯崎新、黒川紀章、岡本太郎、山口勝弘などである。 「新しい芸術」を模索する彼らが、国家規模で行われるプロジェクトに対して理念的には異和感を感じながらも、その実現への魅力へととり憑かれてゆく様はわかる気もする。しかし、万博へ参加することはすなわち、あらゆる個別の流派を超えたアーティストたちが一同に会してしまうという意味において「大政翼賛」的状況と変わりがなか…
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となり町戦争
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さいとうゆう/「彼女」と「戦争」の核心について
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アパートの郵便受けに入っている「広報」で戦争の開始が告げられる。町民税の納期や下水道フェアのお知らせに挟まれる形で、「となり町との戦争のお知らせ」が告知されている。あたかも道路工事か町民センターの建設がはじまるかのような手つきで、戦争の火蓋は切って落とされる。 戦争がはじまるはずの9月1日になっても「僕」の周囲に変化はない。いつもどおり会社に行き、いつもどおり「となり町」を通過してアパートへ帰る。戦争の有無をいぶかしむ「僕」のもとへ再び広報は届き、小さな文字で戦死者の数を告げる。 自分のまわりでは誰も死んでいない。戦争に参加しているような雰囲気さえ微塵も感じられない。しかし戦争は始まって…
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自閉症裁判
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さいとうゆう/福祉と刑事裁判の現状
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2001年の4月に起きた浅草女子短大生殺人事件は、容疑者がレッサーパンダの帽子をかぶっていたという奇異さから、こぞって報道各機関も取り上げたのだが、その後の展開や判決を巡って大きな反響が起こることもなかった。常軌を逸した人間の通り魔的な犯行として片付けられてしまった感さえある。 報道当初、容疑者が高等養護学校の出身者である事実はなぜか伏せられていた。殺人という重大事件において、容疑者が障害者であるという要素が、報道機関の自主規制を招くことを警視庁、報道関係者ともに危惧したのではないかと著者は勘ぐる。 犯罪を起こした者は、罰せられねばならない。この基本的な法社会のルールはとても大切だ。しか…
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「おろかもの」の正義論
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さいとうゆう/「絶対」などない世界のなかで
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現代において、あらゆる「絶対」は存在しない。絶対的な権威も、絶対的な価値も、絶対的な規範もない。もちろん絶対的な「正義」もない。相対主義者のたわ言ではなく、これは「事実」だ。 だがそれでもなお「正義」あるいは「正しさ」なるものが立ち上げられうるとすれば、いったいどのような形で可能なのか。 《「正しさ」を決定する絶対的な存在を前提できない以上、誤り多き人間が、約束事として「正しさ」を作り上げていくしかない。》(p.43) 作り上げられる「正しさ」とは、「規範的な正しさ」だ。それは「正しさ」の根拠うんぬんとは関わりなく、人間を尺度として測られる「見なし」の態度である。例えば、胎児はまだ生まれ…
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子どもが減って何が悪いか!
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さいとうゆう/子どもは減っても構わない。
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世間では「少子化だ! 大変だ!」と騒いでいる。「1.29ショック」はまだ記憶に新しい。だがしかし、どこの報道機関もその危機感を煽るだけで、少子化を是認、あるいは必然と断定する声が聞こえてこないのが不思議でしょうがなかった。なぜ、「少子化=問題」なのか。「出産&育児」という非常にミクロな出来事に対して、「労働力」だの「経済力」だのの衰退という、とてつもなくマクロな危機意識を植えつけようとするのはなぜなのか、そんな疑問に対して本書は答えてくれる。 《子ども数を規定しているのは、どういう都市に住んでいるのかという生態学的な要因であり、学歴、本人収入、従業形態といった社会経済的要因である。そしてこれ…
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「おたく」の精神史
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さいとうゆう/「私」の多元化と「私」への拘泥
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例えば1983年という年が、もう20年以上も前の事柄に属すという事実に、改めてある種の感慨を覚えてしまう30代以上の方は多いだろう。東京ディズニーランドが開園、任天堂はファミリー・コンピューターを発売、浅田彰が『構造と力』を上梓し、西武百貨店で「おいしい生活」が手に入った年だ。《80年代の全てを「おたく」の語に集約しうるなどとは考えないが、しかし80年代の「おたく」文化を検証することで見えてくる「現在」があり、それはアニメやコミックの「現在」ではなく、新世紀の日本社会の「現在」である、とぼくは感じる》(p.5 漢数字はアラビア数字に置き換えた——引用者注) 「リアル」なものの形が変質しつつあ…
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取調室の心理学
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さいとうゆう/人間的現象としての「冤罪」
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私たちの意識から「先入観」を取り除くことはむずかしい。例えば凶悪な犯罪事件が起きて「重要参考人が事情聴取」という報道に触れただけで、一視聴者にすぎない私たちはある「期待」を抱く。もちろんそれは「この人が犯人なのではないか」という「期待」だ。 事件を引き起こした犯人が確定できず、いまもどこかでのうのうと暮らしているという現実ほど、私たちを不安にさせるものはない。起きてしまった出来事が不穏であればあるほど、早期の解決、すなわち犯人の逮捕を市井に生きる平凡人として望んでしまう。 しかし、そこに「罠」がある。それは、報道された事件を対岸の火事としてしか見ることのできない罠でもあり、そのような世論のも…
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エロス身体論
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さいとうゆう/人間という奇妙な逆説
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本書で言う「身体」とは、物理的な実在や生理的な機構としての「肉体」のことではなく、1.生命機能を統一させたシステムとして2.主観的なイメージを成立させる「座」として3.外的な世界との関係を変更する手段として4.他者との関係における相互認知、相互交渉の手がかりとして5.エロス的な関係の価値を創造したり維持したり破壊したりする目標として などの、さまざまな機能面・実存面における複雑な「意味の体系」として存在するもののことである(p.69)。 ロゴス、すなわち言葉や論理だけで人間が語れるわけでもないし、パトス、すなわち情緒や感性だけで日々を過ごせるわけでもない。その両者の奇妙な複合体として〈私〉は…
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世界がわかる宗教社会学入門
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さいとうゆう/「宗教社会学」って何ですか?
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「宗教はこわい」と単純に思っている人は少なくない。昨今の新興宗教が巻き起こす事件の異常性によって、その印象はさらに強くなっている。そして、信仰を持つ人と社会からの逸脱行為をする人との間に明確な線引きをすることもなく「自分は無宗教だ」と語り、「宗教を信じているのは意志が弱いからではないのか?」などという差別的な発言をするだけでなく、「自分だけは絶対宗教なんかにハマらない!」と、あからさまに傲慢な主張を平気で展開する人もいる。だが海外へ、例えば英米圏に出かけて「What's your religion?」と聞かれ、真顔で「Nothing.」なぞと答えようものなら、驚きのあまり目を剥かれてしまうこ…
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はじめての構造主義
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さいとうゆう/はじめての『はじめての構造主義』
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絵画において、奥行きを表現する方法としての遠近法は「ウソ(=虚構)」である。二次元の平面に、三次元の空間を写しとれるわけがないからだ。遠近法とは、二次元をあたかも三次元のように見せかけているだけであって、そこには「あるたった一つの視座から見た世界として画面が構成される」という虚構が孕まれている。 神の被造物としての立場を離れ、魔物や悪霊などの非合理なものたちを追放し、神に替わって人間が人間を規定するようになったのが近代という時代であり、そこにおいて思想としての人間中心主義は確立する。主体としての人間という立場を明確に自覚し考察することを通して、人間は「知のシステム」を構築してきた。その歴史…
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人間にとって法とは何か
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さいとうゆう/正義としての法は理不尽さを孕む
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著者によれば、法とは「強制をともなったルール」であり、それは一人ひとりの利害や幸福の追求と、個人を含んだ集団全体の存続とが「調停」するための工夫であると言う。私たちの身近なところにもさまざまなルールはあるが、あまたあるルールのうち、私たちに対して有無を言わせぬ強制力をもつものを特に「法律」と呼んでいることになる。法律は誰でもを同じように、つまり「公正」に扱うので、それぞれの事象においては「個人」を理不尽な境地へと追い込みうるのだが(例えば「冤罪」)、それは法律が背後に「正義」を孕んでいるゆえであると筆者は言う(第1章)。 例えば、凶悪な殺人犯には「極刑」が妥当である、あるいは、借金は苛烈に…
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海辺のカフカ
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さいとうゆう/不在というかたち
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画家が白いキャンバスに向かって筆を執るとき、彼によって捉えられている〈かたち〉があるだろう。いまだ具体的な〈形〉としては顕在化していない、目には見えない〈かたち〉。まだ線になっていない線、色がついていない色。それらはまだはっきりとした輪郭を持っていない。それでもそこに〈形〉は先取りされ、すでに孕まれている。 〈形〉を生み出す母胎・基盤でありながら、それは〈形〉が姿を現したときに忽然と姿を消し、そもそものはじめからこの〈形〉であったかのような顔をして、さまざまな観客の前に提示され、伝わってゆく。 〈私〉というのも、このような成り立ちをしているのではなかろうか? 〈私〉という〈形〉ができてし…
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文脈病
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さいとうゆう/「顔」とは何か?
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「単なる人間の頭部」でも、「コミュニケーションのインターフェイス」でもないとすれば、「顔」とはいったい何か。またそれはいったい何を伝達しているのか。 自分の知己の「顔」は、時間が経てもすぐに認識することができる。その人のもつ〈固有性〉を、われわれはその「顔」を通して手に入れることができる。だがしかし、そこで手に入れられている「顔」の〈固有性〉とはいったいどのようなものか。 《「顔」の認識とは、いかなる意味でも「表象の再現前」ではありえず、むしろその都度一回性を刻印された、生成の過程であるほかはない。》(p.17) 「顔」による伝達がその〈固有性〉である限り、その顔はパターン化することがで…
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戦闘美少女の精神分析
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さいとうゆう/なぜ少女たちは戦うのか?
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ふと目にした雑誌『美術手帖』で村上隆の特集を組んでいて、本書の表紙を思い出した。メカニックなボディスーツから突き出た、剥き出しの乳房に恥らうこともなく、腿の部分から広がる等身大の虹色の翼で舞い降りる美少女。村上隆による「戦闘美少女」のフィギュアである。 《もっとも私を混乱させるのは、…戦闘美少女という徹底した虚構的コラージュであるべきイコンが、欲望され消費される過程の中で獲得してしまう逆説的リアリティ。これこそが解かれるべき最大の謎ではないか》(p.11) あくまでもヒーローのネガ、つまり「マッチョのパロディ」としてではなく、『ナウシカ』あるいは『セーラームーン』に見られるような、可憐さと…
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福祉を変える経営
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さいとうゆう/慈善事業と経営戦略
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以前、わが家にこんな訪問客があった。何の気なしに玄関の扉を開けると、20代前半くらいの女性が、福祉作業所で作った化学雑巾を買ってくれと言う。2枚で2000円。思わず私は聞いてしまった。「その雑巾はそんなに価値があるものなのですか?」と。相手が答える。「これは、障害を持つ方々が一生懸命作業所で作った雑巾なのです」。使命感に裏打ちされた頑なな意志と、傲慢なまでの誠実さが彼女の顔には表れていた。 何とも言えない不愉快さがこみ上げる。これではただの押し売りではないか。怒鳴りつけるわけにもいかず、その場をやり過ごしたい一心で、露骨に不機嫌な態度を顕わにしながら、その商品を購入した記憶が私にはある。 …
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釈尊の生涯
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さいとうゆう/神話の向こうにある具体的な個人の生涯
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「ブッダ」が固有名詞でないということを、私は本書を読むまで知らなかった。「仏陀(ブッダ)」とは「覚者」すなわち「真理を悟った人」のことで、「釈迦」とは種族の名なのだと言う。「釈尊」と言ってみても、「釈迦族出身の聖者」という意味で、それだけでは複数の「釈尊」が存在してしまいそうなのだが、そのようにしてしか「ゴータマ・ブッダ」その人を指し示す術がないのである。 著者自身明言しているように、本書は「仏伝」でもなければ「仏伝の研究」でもない。その目的は「後代の要素を能うかぎり排除して、歴史的人物としての釈尊の生涯を可能な範囲において事実に近い姿で示そう」とすること、これである。神話的な釈尊ではなく…
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人類の自己家畜化と現代
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さいとうゆう/高度文明社会に適応できない旧石器人のゆくえ
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タイトルにある「自己家畜化」に惹かれてつい手にとってみたものの、肩透かしを食らった感は否めない。自然人類学から遺伝学、果てはペット法学まで様々な研究分野の知見が示されているのだけれども、その横断的な手法が禍してかどれも本質的な究明に達しているとは言い切れず、しかもそこかしこに散見するのが陳腐な自然回帰では、読んでいて鼻白むのも無理はない。 自分の専門分野を現代的な領域へと接続しようという試みは大変結構なのだが、《幼児期からゲームなどの機械によって一種の「刷り込み」を受けた結果、親や周囲の人間との関係の薄い、まるで家畜のような子供たちが増えている》(埴原和郎)だの、《私はクローン人間は、それ…
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団塊の世代とは何だったのか
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さいとうゆう/革命ごっこと家族ごっこ。そして会社という社会。
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昭和20年生まれの私の父がもうすぐ還暦を迎えようとしているから、狭義の「団塊の世代」と言われる昭和22〜24年生まれの方々もすでに50代の後半である。文字通りの「戦後」を生きてきた彼らは、文字通りの「労働者」として高度経済成長を支え、文字通りの「消費者」として文明の繁栄を享受してきたと言ってよいだろう。そして、明治後半から大正生まれの両親と、昭和40年代後半以降に生まれた子ども達に挟まれる形で、その境界(はざま)に生きる困難さを一手に引き受けてきたことになる。 《戦後生まれ第一世代。新しい若者文化の担い手。既成権威に反乱を起こした学生たち。長じては民主的な友だち家族(ニューファミリー)を作り…
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“It”と呼ばれた子
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さいとうゆう/「感動共同体」への違和感
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夏目漱石はその著書『文学論』の中で「情緒は文学の試金石にして、始にして終なりとす」と述べ、いかなるものを材料としたものであっても、それが読者によって情緒的反応を呼び起こすものであれば「文学」として成立する、とした。 本書『“It”と呼ばれた子』も、文庫版の帯によれば世界中で1000万部を超える販売数を誇り、幾多の人々の「情緒」を掻き立てた意味において紛うことなき「文学」であると言っていい。 しかし、これを「文学」であると言ったときに湧き上がる疑問もまた抑えることができない。文庫版の巻末には、本書の読者によって寄せられた「感動の声」の数々が記されているけれども、その情緒的反応の一つ一つを見…
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A
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さいとうゆう/他人本位では成り立たない職業と信仰
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イランの映画監督マジッド・マジディは、徹底的に素人の俳優を出演させることにこだわっている。役者のプロ意識でもって迫真の画面を撮ることもできるはずだが、それでは伝わらない「何か」があるのだと彼は確信している。 映画という虚構作品に対する彼の態度を、弘前劇場の脚本家・長谷川孝治に倣って「ドキュメンタリズム」と呼んでみれば、それは逆に、人間が役割として演じることのできない部分を炙り出すための戦略であると言っていい。 《ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ》(p.89) 本書の著者である森達也は、自らの、ドキュメンタリー制作者…
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正義の喪失
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さいとうゆう/二分法を越えて
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「平和を守るための戦争」という言い方ほど、矛盾した物言いはない。「平和」のために「戦争」が肯定される。「正義」を標榜した「戦争」が称揚される。仕方がないと言われるかもしれないが「戦う」こと以外に方途がないのだとすれば、いつまで経っても「争いの連鎖」から解き放たれることはない。 《正義と平和の間には、克服し難い原理的矛盾がひそんでゐる》(p.55) 「自由」と「平等」が相反する概念であるように「正義」と「平和」もまた相容れない要素を持っている。これは基本的な事実だ。湾岸戦争もイラク戦争もその意味でまことに「奇妙な戦争」であった。 《問題は、人々の掲げる正義が一致しないことにあるのではない。喰…
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可能性としての家族
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さいとうゆう/「家族」は解体しない
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初版が発行されたのが1988年だからもう15年も前の本になるのだが、この度出版社を替えて再版されることになったようだ。私は今回が初読である。扱われている時事的なものは時代を感じさせるところがないでもないが、「家族」なるものの〈本質〉を見極めていこうとするその姿勢自体は、15年経った現在においても全く古びていないように思われる。 大雑把に言ってしまうと、「自分のことは自分で決める」という考えに基づいた狭義の個人主義にとって、「家族」というものは立ちはだかる壁として感じられる部分が少なくなく、そのような個人意識の発達と浸透によって、これまで強固な基盤を誇ってきた「家族」なるものが崩壊の危機に面…
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