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東京物語
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ゴンス/青春の適齢期は
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世に年齢別の名言は多いが、だいたいが20歳までのもので占められている。「僕は20歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」というポール・ニザンの言葉に代表されるように。20歳前後には煌めきがある。誰もが思う。これから自分は何者にでもなれるのだと。あふれんばかりの性欲があって、精神も体力も強いから、いくら傷ついても明日を生きる活力は衰えを知らない。そんな時期であるがゆえに名言もまた、生まれやすい。ところが、30歳前後に関する名言はあまりに聞かない。30歳前後というのは身の回りの環境が変化し出す時期でもある。結婚して子供が出来たり、親が病床に伏したり、社内では責任のある仕事…
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武士の家計簿
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ゴンス/江戸幻想
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江戸時代にはなぜ革命が起きなかったのか。年貢の減免を要求する農民一揆は度々起きていたが、もっと根本的な革命、すなわち「士農工商」に対する下剋上はなぜ起きなかったのか……。 磯田道史の『武士の家計簿「加賀藩御算用者」幕末維新』は数多ある江戸時代研究所の中でも出色である。見てはならない物を木陰からそっと眺めているような感覚すら味合う。なぜなら本書は、我々が江戸時代に対して抱くイメージを根底から覆しているからだ。 『江時代は『圧倒的な勝ち組』をつくらないような社会であった。武士は威張っているけれど、しばしば自分の召使いよりも金を持っていない。武士は、身分のために支払う代償(身分費用)が大きく、江戸…
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夢顔さんによろしく
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ゴンス/時代の渦中へ
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戦争は時として人の運命をあらぬ方へといざなう。だが、それが仕組まれた罠であったらどうだろう。そうとは知らずに死んでいった者以上に、残された家族の心中ははかりきれないだろう。戦争がもたらすそんな悲劇を痛感させられる西木正明の『夢顔さんによろしく』の主人公、近衛文隆は、近衛文麿の嫡男にして細川護熙の伯父という、名門中の名門の跡取りである。 戦前、プリンストン大学に留学し、その後、上海でも女性スパイと恋に陥るなどして奔放な生活を送っていた文隆。しかし一方で彼には政治的な先見性、交渉力、知識もあった。人脈も豊富だった。それゆえに彼のとりまきの中には、リヒャルト・ゾルゲや尾崎秀美もいた——というところ…
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父の肖像
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ゴンス/文芸愛好家からビジネスマンまで
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今から七年ほど前のブライダルシーズン。慣れない背広を身にまとった僕は赤坂プリンスの建物を飽きずに眺めていた。「飽きずに」というからには理由がある。高級感が漂うその眩い建物の傍らには、ひっそりと、それでいて近代的な趣を残す鹿鳴館のような建物があたかも混入物のごとき目の前に現れたからである。いったいどのようなコンセプトでこのような建物になったのか。一瞬そんな問いが脳裏をよぎったが、従兄弟の結婚披露宴会場で気持ちよくワインを煽っているうちにやがてその疑問も風化していった——。 ところが、本書『父の肖像』は僕のその疑問を記憶の底からたぐり寄せた。著者の辻井喬は夜な夜な筆をふるう小説家・詩人であるが、…
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砂の女
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ゴンス/シュールな絵画
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『砂の女』というタイトルにはどこか蠱惑的な響きがある。コケティッシュな匂いがする。シュールな香りが漂っている。見てはならないものを木陰からそっと眺めているような気がする。それは例えば全裸の女性が砂にまみれている姿。それは例えば夜な夜な誰もいない公園で砂を口しているグロテスクな女性。それは例えば砂場に埋もれた女性の死体。それは例えば砂場に全裸のまま仰向けになって「ああ、冷たい」と小声漏らす傷を負った女性——そのどれもがあまり日本的な情景とは言えない。そう、言うなれば『砂の女』はシュールレアリスムの絵画なのである。読んではならないのである。 確かに、多くの識者が言うように『砂の女』にはある種の回…
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地獄の季節
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ゴンス/ゲームの始まり…
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あのセンセーショナル事件から、何年が経っただろう。日本中を震撼させ、「うちの子も隣の子ももしかして……」と疑念を抱かせた神戸連続児童殺傷事件から、何年が経っただろうか。 本書の著者、高山文彦氏は知る人ぞ知る気鋭のノンフィクションライターである。連続児童殺傷事件の記憶がまだ生々しい頃、フリーランスの物書きはこぞってこの事件のおぞましさ、異常さを謳った。が、しかし、今でもそのとき書いた文章に責任を持っているライターがはたして何人いるだろうか。高山文彦氏と社会学者の宮台真司氏だけであろう。 高山氏は「想像力」と「自分の足」でこの事件の解明にあった。とりわけ事件そのもの対するアプローチではなく、「背…
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人間失格
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ゴンス/自己の発見
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人間失格。文学に興味のない者とて、このタイトルを目にすればたじろがずにはいられないだろう。 今日にして太宰の小説、とくに『人間失格』は時代の隔たりを感じさせずに圧倒的な存在感を放っている。が、それはおそらく「暗さ」に何らかのインスピレーションを感じてのことだろう。もちろん、それはそれでいい。事実、太宰の小説はそういう読み方をされ、またある者は滑稽でユーモラスがあって面白いとも云うだろう。 しかしながら、太宰の文学で大事なことは自己の発見である。自虐的な自己の中でこそ、突然新たな自己は発見される、つまりその自虐的な自己こそが本来の自分ではないか、太宰は我々にそう問いかけているのである。
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風の歌を聴け
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ゴンス/三無主義の予感
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生きる気力がない。目標もない。何もない。空っぽだ。それでもビールはあった、友達もいた、だから、ピンボールを打ちに行こう。これが、村上春樹の小説である。 この空虚さは、まさしく全共闘終焉当時のものである。村上はそれを表現した、つまり、何もないという空っぽのものを表現したのである。 さすがに、こんなものを書かれては誰も何も云えない。事実、今日でも村上の小説は多くの論者を戸惑わせている。 結局、作者の意図は別として、評価しにくいアバンギャルドなものを書けば、しかも村上の小説に至っては中身がはっきりとしないのだから、これには大きな評価を下すか、全く無視するかのどちらしかないのである。 もっとも、そん…
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岬
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ゴンス/中上部屋
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大家である。作家としての「大」はもちろんのこと、その風貌と言動、全てにおいてスケールの大きな作家である。 中上が一貫して描いたものは、「風土」と「歴史」、それに「構造主義」である。 「岬」。これは紀州の、新宮という辺境の地を舞台に家族を描いた物語である。が、ここで云う家族とはいわゆる一家を指す家族ではなく、その「地」そのものを意味するものである。つまり、「地」とは「路地」と呼ばれる地域のことであり、そこでは被差別部落の人々が住んでいるゆえに閉ざされた空間になっているのだ。中上はその空間を利用して、更にはそういう空間ゆえに繰り返される人間模様の構造を壮大に描いたのである。 中上文学に触れた人は…
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杳子・妻隠
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ゴンス/いざ、頂点へ!
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古井は純文学の分野において、村上春樹と共に現在の日本文学を支えている作家である。 「杳子」。時折起こる記憶の喪失と虚脱感に憑かれる主人公、それを見守る彼氏を通してその淵源を辿る物語。 現実と幻想を行き来しながらも、なお現実に留まっていようとする姿に彼氏が救いの手を求めるものの、結局、その彼女の存在によって彼氏の異常さも浮かび上がってくるという逆説的な構図をとっている。つまり、ここでは彼女の「自己回復」が強調されているのではなく、彼氏の「他者回復」が示されているのである。恐ろしいほどの精神世界の中で。 作家志望者は一読するべきだろう。ただし、一読して何も感じないのであれば今すぐにでもペンを置い…
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太陽の季節
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ゴンス/今も昔も
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昭和31年、事件が起こった。それは、石原慎太郎というストイシズムを醸し出す、かつ世の中を達観する姿勢を示す青年の出現という事件であった。 『太陽の季節』は文壇だけでなく社会にも大きな一石を投じ、更に石原はそれを楽しんでいたのだから今の都知事としての暴れぶりには納得できるし、同時に物足りなさも感じる。と言えば都庁の職員に怒られるだろうか。 ともあれ、この作品には石原慎太郎の原点がある。モラルを打破し、自己肯定を貫く主人公。ボクシングを通して肉体的肯定に快楽を見出す主人公。この両者がシンクロした形で、主人公の生き生きとした息吹を伝えている。石原自身と共に。
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原色の街・驟雨
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ゴンス/ファインダー
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吉行は、今で言う風俗雑誌の仕事を経て作家になった人であり、その影響の下に出発した作家である。 吉行が徹底的に描いたことは娼婦である。が、単に娼婦の人間模様、あるいはその行為を描いたのではなく、娼婦というフィルターを通して「女性」を描いたのである。 更に、吉行の小説は一見すると思わせぶりで、数多くの娼婦が頻出するにも関わらず、性描写はほとんどない。そこが吉行の巧さであり、それこそが本物のエロティシズムなのである。簡単に云おう。女性の躰に「触れる」行為と、女性を眺める行為、後者が吉行の小説である。 そしてそれは、「美」や「耽美」なる大袈裟なものに繋がらないからこそ、逆に吉行の小説は輝きを放つので…
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焼跡のイエス・処女懐胎
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ゴンス/ペダンティック
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衒学的な文章を書く作家である。と同時に、小説の枠組み、その在り方についても意識的な作家である。 そしてそれはおそらく、自身が漢学者の祖父から論語や形而上学を学んできたゆえのことだろう。 『焼跡のイエス』、『処女懐胎』、特にこの2作にはそれらが顕著に示されている。石川の小説にはキリスト教関連の事柄が頻出するが、それらは形而上学の思想によって超越され、結局のところ、宗教や天皇制ではない他の形なき「神」へと読者を誘っているのである。約50年前に書かれた小説だが、現代の、しかも日本の未来をも予見させる、つまり相対主義のなれの果てが訪れたときに必要な「神」を、石川は怖いぐらいに描ききっている。狂人かあ…
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蜘蛛の糸・杜子春
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ゴンス/かくも鮮やかな純文学
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はたして、純文学とは何か。その答えを知りたければ、芥川龍之介の作品を読まなければなるまい。 純文学とは家族や恋愛、その他諸々の「悩みと葛藤」をモチーフにしたものだ、と云う輩が数多くいるが、それらは純文学ではなく、あくまでも純文学に数多ある「道具仕立て」に過ぎないのだ。 では、純文学とは何か。端的に云えば、例えば『蜘蛛の糸』における糸が切れる瞬間、あるいは『トロッコ』における暗い過去のフラッシュバックである。つまり純文学とは、小説の設定に関係なく読者に不安や恐怖を投げかけることである。その意味で、芥川の小説こそ紛れもなく純文学であり、本来、芥川賞とはそういった作品でなければならないのだ。
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三四郎
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ゴンス/文学かくあるべし
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『三四郎』は、田舎から上京した青年の、恋愛や友情や学問に対する不安と戸惑いを、きわめてポピュラーに、しかし屈託なく描ききった小説である。 『三四郎』は、田舎から都会へ。 『坊っちゃん』は、都会から田舎へ。 今日、この手の小説が数少ないのは、漱石がたった2冊の中で確固たる意匠を築いてしまったからだろう。それとも昨今では村上春樹的な「もののあはれ」がうけるゆえ、この手の小説は売れ筋ではないと睨んでいるのか。 どちらにせよ、『三四郎』は上京物語の古典であり、そこにはどんなに面白いエンターテイメントとて適わぬ本物のリアリティーと人間の息吹があることは確かである。
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刺青・秘密
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ゴンス/美の極致
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自然主義流行の当時、谷崎の小説は軽視されていた。SMやレズビアン、更には盲目の少女と奴隷青年、と。結局のところ、当初は変態扱いされていたのである。 ところが時代が一気に「売れ筋」を求めたとたん、谷崎は瞬く間に文壇の中心へと躍り出たのである。 『刺青』。この作品は谷崎の処女作である。題名からして痛々しさを想像させられるが、しかしその肉体的恐怖がいつの間にか耽美なものへと変わっていく点に、読者は圧倒的なまでのカタルシスに遭遇するだろう。 谷崎の多くの作品は、当時では志賀直哉、あるいは最近では町田康がそうであったように実験小説である。結局、伝統を学び、そして伝統を「壊した」者こそが最後には勝つのだろ…
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東大落城
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ゴンス/四畳半の頃…
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昨今の大学生の代名詞と言えば何だろう。コンパ、バイト、麻雀、パチンコといったとこだろうか。しかし飽食な世の中にあってそれはむしろ当たり前なことなのかもしれない。 ところが、だ。前述した大学生の代名詞に「学生運動」という言葉が加えられる時代があった。今から約三〇年ほど前のこと。人はそれを政治の季節と呼んだ。学生運動とも全共闘運動とも呼んだ。一部の学生達がゲバ棒と火炎ビンを手に、ヘルメットとマスクといういでたちでイデオロギーを振り下ろしたのである。結局は内ゲバ(仲間同士の争い、リンチ、なれの果ては殺し合い)という一般市民の論理を越える悲惨きわまりない行為へと突っ走ったが、しかし軽率ながらもある意…
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天皇の影法師
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ゴンス/真実の発掘
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今や猪瀬直樹はノンフィクション界の「貌」である。なくてはならない存在である。日本の知性だと言っても過言ではない。それは彼の実績、そして鋭利で優れた洞察力が嫌でも裏付けているのだから。 ところで、話は少し逸れるが人は生きていれば様々な興味にぶつかるものである。当たり前である。が、その興味がたまたまとてつもないものだったらどうだろう。宿命と見るか、もしくは一時の気の迷いと見るか。仮に前者だとしてもはたしてそれを成せるのか。猪瀬直樹は背負ったのである。彼が出会った興味は幸か不幸か〈天皇〉すなわち〈近代〉なのである。常人ならば一刻も早く立ち去ったほうがいいだろうそのテーマを、猪瀬直樹は自らの宿命と課…
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維新前夜
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ゴンス/写真が語るとき
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一枚の写真が、時には饒舌に何かを物語ることもある。それは例えば原稿用紙一〇〇〇枚にも勝るほどの勢いで。本書はまさしくその一枚の写真からすべての物語が始まる、手に汗を握るミステリー小説仕立てのノンフィクションである。 では、その一枚の写真とは何か。エジプトのスフィンクスを背景に、江戸時代末期のサムライ達が写っているのである。現代人の目からはとても奇妙に見える。珍妙と言ってもいいかもしれない。なかにはパソコンを使って加工しているのでは、と疑う人もいるかもしれないが、その写真は新聞でも大々的に取り上げられているし、撮影日の一八六四年四月四日以来、資料館できちんと保管されているものなのである。 写真…
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一九七〇年の漂泊
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ゴンス/漂泊の人
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はたして、自分とは何者なのか。どこから来てどこへ行こうとしているのか。この問いに答えられる者は誰もない。ともすれば気が狂いそうになるこの人生のテーマは、しかし私達の日常には存在しない。それが当たり前だと言わんばかりの顔で私達は日常生活をやり過ごすのである。 その問いに、果敢にも自分の青春を費やした者がいる。足立倫行である。本書はその足立氏の自伝的青春ノンフィクションだ。 六〇年代後半の学生運動華やかなりし頃、二二歳の足立氏はアリゾナ、メキシコ、ロンドン、スペインと足かけ四年にいたる漂白の旅に出る。政治闘争に揺れた日本に、映画製作のバイトにも別れを告げ、更には早稲田大学すらも中退し漂白の道を選…
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