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失恋論
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オリオン/失恋という運命
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アラフォーの既婚男性が若い女性に恋をして、離婚も辞さない「悲壮な決意」をもって告白するが受け入れられない。その数ヵ月後彼女から「お元気ですか」のメールが届き、さらに半年が経ち「リセット」後のデートを何度か重ねるがノリが悪い。 男は失恋という状態を生きるにはどうすればいいかと苦しみ、「あの人」と友だちでも恋人でもない「第三の関係」になりたいと願う。「恋愛感情を通り越して、でもその人を大切にしたり、一緒にいると居心地が良かったり、その人を通して、この世界の中にどこか憧れていられるものがあるという気持ちは生き延びている。そんな関係を人と結びたかった。」 しかしそれは、あわよくばの肉欲を生きるエネル…
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日本の大転換
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オリオン/文明のインターフェイスとしての思想家
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最近、友人との会話のなかで、原発と自動車は同じかどうかが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するのとは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、何がどう「違う」かは自分でもよく分からなかった。 その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。 後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが電力を安定的に供給する…
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場所と産霊
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オリオン/「表現」としての近代日本思想史
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この書物は論考、評論のかたちをとった「表現」である。いいかえれば言語による芸術作品、すなわち小説。著者自身の言葉でいえば、フィクションとして再構築された歴史なのである。 そのテーマは、書名のうちに端的に示されている。西田幾多郎の「場所の哲学」と折口信夫の「産霊(ムスビ)の神学」、この二つのものを一つに調停すること。以下、第二部「霊性と曼荼羅」(第八章「場所と産霊」)からの抜き書きで、そのプロセスを垣間見てみよう。《その[西田と折口の]類似は、彼らがともに学問の究極の目標として定めた「神」の問題においても、またその「神」に近づいてゆくための独特の方法においても、顕著なものがある。西田も折口も、…
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哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか
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オリオン/音楽をつくりあげること
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この本の著者には「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感があまり感じられない。 読み物としては悪くないと思うが、いかにも気の利いた言い回しや素材(引用や話題)の切り出し方がときに鼻につく。邦訳のタイトルが軽いし、内容と合っていない。 それでも第10章「ホッブスと快感のシンフォニー」(と、これに続く第11章「カントとフロイト」)は面白かった。 とくに(カントと対照的な)「ホッブスの和合」の話題(性の快感には、他者を喜ばせることから得る喜びや快感という精神の喜びが含まれている云々)を経て、トマス・ネーゲルの引用(相手に感じとられているということが感じとられ、それが感じとられ…
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コラプティオ
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オリオン/腐敗しているのは誰なのか
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さすが真山仁。期待は裏切られなかった。 この作品は様々な切り口で読むことができる。たとえば、天才的政治家・宮藤隼人を中心に相対峙する二人の元同級生、つまり政治学者にして若き官邸スタッフ・白石望と経済部記者・神林裕太が、それぞれ首席秘書官・田坂義崇と社会部の看板記者・東條謙介という手厳しい「師」との軋轢や試練を経て、やがて宮藤を乗り越えていく一種の「成長小説」として。 本作にもし続篇があるとすれば、それは(田坂によって帝王学をたたきこまれ)宮藤の後継者となった白石と、東條に続く看板記者となった神林との、政治という場面における正義や愛をめぐる確執の物語となっていくだろう。(「愛」と書いたのはいう…
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子どもが育つ条件
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オリオン/子どももおとなも共に育つ社会
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児童相談所に勤める知人から「読むと必ず目からウロコが落ちる」と薦められた。たしかに何枚もウロコが落ちた。 たとえば、第1章で紹介される「育児不安」の実態。著者は「育児・子どもがらみの不安や焦燥よりも、現在の自分についての心理的ストレスの方がはるかに強い」という。育児には時間や労力など多大な「資源投資」が強いられる。その結果、子育てしている者(多くの場合は母親)が「おとなとしての成長・発達の機会から疎外」され、固有名詞をもった個人=主体としての「存在感・成長感」が損なわれる。このことが育児不安を深刻化させているというのだ。 続く第2章では「子育ちの不在」が論じられる。戦後、子どもは「授かる」も…
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政治の精神
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オリオン/政権を選択することの意味
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可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、(最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバー、シュムペーター、トクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題…
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難解な本を読む技術
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オリオン/なぜ難解な本を読むのか
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なぜ難解な本を読むのか。「そこに難解な本があるから」というのは、それはそれで一つの答えになる。 私の場合、未読の哲学系難解本が書棚に山のように「寝かせ」られていて、それらの書物が一斉に「いつ読んでくれるのか」と日々恨めしげに背表紙で訴えかけてくるものだから、鬱陶しくてしかたがない。 かといって「書庫」に移動し安楽死させようと企んでも、なにしろ敵は不死性をもった言葉で武装しているのだからそうはいかない。 読まないで読んだことにできる方法はないものか。常々そう思っていたら、この本に「読書の技術の真骨頂は「読まない」ことにあります」と書いてあった。 それは、第5章「さらに高度な本読み」に出てくる。…
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不在の歌
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オリオン/双子のように響き合う文人哲学者
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文人哲学者・九鬼周造という「異例の哲学者」(『九鬼周造エッセンス』「解説」での田中久文氏の評言)の度はずれたスケールとその深さまた高さを、「註解」もしくは「註釈」という方法で凝縮した格好の入門書。入門書というよりは誘惑の書。坂部恵というもう一人の文人哲学者(もしくは、『かたり』の文庫解説での野家啓一氏の評言を借りるならば、「詩人哲学者」)の音韻と音階が「双子」のように重ね合わされている。とりわけ「ポンティニー講演」をめぐる叙述の濃度が高い。以下、その概略。 第1章「天心の影──「根岸」と「或る夜の夢」」。 「[実の父]隆一、母[波津]、[心の父・岡倉]天心と周造自身とからなる九鬼の四角形の宇…
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かたり
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オリオン/〈インメモリアル〉な時を求めて
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「かたるに落ちる」というけれど、「はなすに落ちる」とはいわない。 だから、〈かたる〉は〈はなす〉よりひとつ上の世界にすまいしている。 〈うたう〉や〈いのる〉、〈つげる〉や〈のる〉と〈はなす〉のはざまから、 神と人の垂直の関係へ、はては〈しじま〉に向けて、〈かたり〉は転移し変容する。 おなじ〈はなし〉はあるけれど、世にふたつとおなじ〈かたり〉は存在しない。 語り手が〈巫祝の時制〉をもって「見てきたように」かたるのは、とおく過ぎ去った 〈いにしへ〉の思い出ではなく、生きたままよみがえるいまは〈むかし〉の物語。 〈インメモリアル〉な神話的過去のアウラを帯びた、出来事の一回性。 「…
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紀貫之
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オリオン/フィクションとしてのテクスト、フィクションとしての人生
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貫之ときけば、古今集仮名序の「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」を想起する。 和歌は「人のこころ」を詠んだもの。表現せずにはいられない、やむにやまれぬ「思い」を言葉の技術を駆使してうたいあげるのが和歌である。仮名序冒頭の言葉は、そのように読むこともできる。 しかし、貫之は「屏風歌」の名手だった。屏風に描かれた絵に合わせて言葉を編集する。なにか詠むべき「思い」が先にあって、それを苦心惨憺して和歌に表現したのではない。その屏風歌を貫之は大量に詠んだ。貴族からの注文生産に応じるいわば和歌の職人。 ここに、古典和歌をめぐる「建前」と「本音」のミスマッチがある。 し…
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パースの宇宙論
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オリオン/パースの閃光
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チャールズ・サンダーズ・パース。その生涯に1250篇近くの論文を発表。総計は1万2千枚、加えて、未発表の草稿が少なくとも8万枚はあるという。 ある研究家は、「アメリカ大陸がこれまでに生んだ最も独創的で最も多才な知性」とし、「数学者、天文学者、科学者、……、俳優、短編作家、現象学者、記号論者、論理学者、修辞学者、形而上学者」等々と、25項目を列挙している。 このリストの最初と最後を組み合わせた「数学的形而上学」を、パースはしばしば「宇宙論」の同義語として使った。 本書は、「相対性理論や量子論が形成される以前に、物理学の根本的な革命の必然性とその方向への予感に導かれて」構成された、パースの「多宇…
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科学の世界と心の哲学
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オリオン/デカルト哲学、より善く生きるための学問
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かつて『新しいデカルト』(渡仲幸利著)と『デカルト入門』(小林道夫著)を続けて読み、デカルト哲学の射程の広さと深さに圧倒されたことがある。以来、心と身体の関係をめぐるデカルトの二元論を批判した文章に接するたび、まずは疑ってかかるようになった。 そのデカルトの心の哲学がいかに豊かで重要な洞察に富むものであるか。このことを、当のデカルトによって設定された近代科学の世界像との対比のうちに描いた本書は、著者によるもう一つの「デカルト入門」である。 たとえば、ポール・チャーチランドは「消去的唯物論」を唱えた。心の哲学は心の科学へと自然化(科学化)させられる。われわれが日常言語の常識に従い、心や人格を基…
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動的平衡
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オリオン/福岡伸一の「流れ」と「淀み」
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ひと頃、著者の連載コラム「エレメント・フラグメント・モーメント─等身大の科学へ─」を読むためだけに、毎月『ソトコト』を購入していたことがある。たかだか見開き二頁に綴られた文章なのに、奥深く広大な思考世界がその背後に息づいているのが伝わってきた。いつか単行本になったらまとめて読みたいと思っていた。 本書は、その連載記事に再編集と加筆をほどこし、別の雑誌に執筆した文章も取り込んで、プロローグと八つの章に仕立て直したものだ。「汝とは「汝の食べた物」である」「人間は考える管である」「生命活動とはアミノ酸の並び替え」「「飢餓」こそが人類七○○万年の歴史」「全体は部分の総和ではない」「生命は分子の「淀み…
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できそこないの男たち
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オリオン/もうひとつのYの悲劇
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保坂和志の小説論がそれ自体小説であったように、福岡伸一の科学啓蒙書は、細胞内の出来事を描写した一篇の小説である。 本書の前半は、極上のミステリー小説のように綴られた、性決定遺伝子をめぐる科学者たちの物語(書名の候補としては、『もうひとつのYの悲劇』)であり、後半は、性決定へのカスケードを演じる細胞内物質群の物語(同様に、『平衡宇宙』)である。 朝日新聞(2009年2月14日付け朝刊)に、加藤周一への追悼文が掲載されている。 「アンリ・ファーブルのような緻密さ、ジュール・ベルヌのような飛躍、あるいは今西錦司のごとき自由な変幻さ」に憧れて大学に進学した著者は、理科系の学問に半ば失望し、ひそかに文…
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「裏声」のエロス
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オリオン/“歌のような”感情の言葉
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不思議なテイストをもった本。著者は「裏声の幸福論」というけれども、裏声の人類学、裏声の性愛論、裏声の健康法、裏声の人生論、裏声の教育論と、時々の関心と心身の状態に応じて、さまざまな読み方で楽しむことができる。 葛飾北斎の春画に書き入れられた、蛸と睦み合う海女の「よがり声」「もだえ声」「あえぎ声」の話題から始まる。まさにそれが裏声で、そのルーツはニホンザルのメスが交尾中に発する発情音(他のオスを呼び込み、乱交を続けることで、優秀な子孫を残すための「精子戦争」を誘発する)にある。「励めば励むほど、女性はさらに言葉にならない声を発し、男性の嫉妬を呼び起こしてしまうのです。そして、嫉妬した男性はこれ…
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ゼロの迷宮
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オリオン/人生に必要な物語
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メソポタミア南部の都市ウルクに建造されたイナンナ神殿の女大司祭からイラク戦争下の考古学者まで、五千年の時を隔てた五つの物語に登場する同じ名と顔と声と躰をもつ主人公。 この五人のアエメールに寄り添って物語を糾っていく男たちは、それぞれなんらかのかたちで数と計算と観測と記号の世界に(あるいは殺戮と破壊の世界に)かかわっている。ゼロの概念の発見という五つの物語に伏流する趣向はそこに由来する。 それは性と死、破壊と復元、不妊の子宮とからっぽの墓とが交錯する、叙事詩か神話の文体で綴られた物語群が湛える静謐でどこか抽象的な幸福感の隠し味となっている。「これはどちらかといえば、飛び越えることなんだ。おれた…
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なぜ意識は実在しないのか
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オリオン/なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか
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「なぜ意識は実在しないのか」って、変な問いだと思いませんか? これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのか、それとも有神論の立場から逆説的に神の存在証明を企てているのかのどちらかだとあたりをつけることができます。 ところが、意識が実在をめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。 そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんて脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他方に、そう考えること自体が実は意識現象なのだから、そう考えているかぎり意識はあると主張する唯心論者がいる。 でも、「なぜ意識は『存…
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大森荘蔵−哲学の見本
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オリオン/大森哲学の流れとよどみ
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著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流・下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの明晰簡明な言葉で語っている。 目の前にコーヒーカップが見える。でも、見えているのはある特定の視点(パースペクティブ)からでしかない。たとえば、その背面は見えない。見ようと思えば見えるけれども、回り込んで見たコーヒーカップの知覚像は、いま・ここで私に見えているそれではない。こんなシンプルな場面から大森哲学は始まる。 知覚を超えたもの、およそ経験を超越したものを、われわれはどう理解しているのか。たとえば、知覚されない物、電子などの理論的構築物、過去や他我。それらを…
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古代から来た未来人折口信夫
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オリオン/《怪物の力を解き放つこと》
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折口信夫は「古代人」だった。たとえば、『古代研究』冒頭の「妣が国へ・常世へ」に出てくる一節。「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。(略)此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。」 この文章をめぐって、著者は次のように書いている。 日本人のルーツのひとつは南洋諸島にある。一万数千年前、水没した大陸スンダランドの高度な新石器文化が島づたいに日本列島に渡り、縄文文化の基礎を築いた。この民族的な集合記憶が、間欠泉のように折…
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破綻した神キリスト
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オリオン/空しさに耐える知恵
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人はなぜ苦しむのか。600万の無辜のユダヤ人は、なぜ抹殺されなければならなかったのか。神はなぜ、心を凍てつかせる悲惨な出来事を許すのか。全能の神、そして愛である神が。 著者は、この問いへの答えを、聖書うちに探る。そこには、苦痛と悲惨に関するさまざまな説明がある。1.人が苦しむのは神に背いた罪に対する神罰である。2.悲惨を創り出すのは他者を虐待し抑圧する人間である。3.苦しみには積極的な恩恵があり、神は救済をもたらすために苦難を引き起こしている。4.苦痛と悲惨は、人がいかなる時にも敬虔でいられるかを試す神の試練である。5.苦しみにはわれわれに理解できる理由など何も無い。6.苦しみは悪の勢力によ…
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思考するカンパニー
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オリオン/「特殊解」としての思想
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本書は、事業家という生き方を選んだ著者が、利他的モデルで世の中を変えたい、新しい産業革命をおこしたいという夢にかけた自らの思いを綴り、メッセージとして社会に問うたものだ。実に志の高い本である。いや、事業家とは本来こういう志をいだき、かつそれを現実的なかたちにしてみせる人のことを言うのだ。 著者の志をキャッチフレーズ的に述べれば、次のようになる。 「物と物、人と物の関係性を技術化し、自然資本(ナチュラルキャピタル)と社会関係資本(ソーシャルキャピタル)を豊かにすること」。農業 Agriculture、工業 Industry の次に来る「心産業」(「フィロカルチャー Philoculture =…
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哲学の誤読
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オリオン/哲学の四つの門
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著者はまえがきで、本書は現代文の受験参考書と哲学の入門書を橋渡しするものだと書いている。その橋を渡ること自体がすでにして哲学の門をくぐることであるような一冊であると。 この「哲学の門」という語彙に着目すると、本書の四つの章に描かれた哲学の構図のようなものが見えてくる。 まず、哲学的思考がそこから立ち上がる「基底的情報源」としての端的な生の経験がある。見えている物は実在しているか。過去はいま記憶しているとおりのものか。そういった問いがそこから浮上する。 これらの問いに答えられないと、日常生活は破綻する。猛スピードで迫ってくる車の実在を疑う前に、身をかわさなければ命を落とす。過去は写…
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日本語の奇跡
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オリオン/日本語を支えるシステムと情緒
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『堤中納言物語』に、ある貴人からの贈り物への返礼として、カタカナで和歌を書き送った(虫めづる)姫君の話が出てくる。 本居宣長の門人伴信友は、この一篇に寄せて、「さて其片仮名を習ふには五十音をぞ書いたりけむ。いろは歌を片仮名に書べきにあらず」と記した(『仮名本末』)。和歌をカタカナで書いてはいけない。草仮名すなわちひらがなで書かなければならないというのだ。 ここに、この本で書きたかったことの淵源がある。著者は、あとがきでそう述べている。 伴信友がカタカナを五十音図に、ひらがなをいろは歌に対応させたことを敷衍して、著者は本書で、日本語を培ってきた二つの世界を腑分けしてみせた。すなわち…
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〈畳長さ〉が大切です
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オリオン/哲学という最も畳長な営み
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阪神・淡路大震災の後、リダンダンシーという言葉をよく耳にした。基幹道路一本で地域が結びつく都市構造は脆弱で、大規模災害に弱い。平時には無駄とも思われる複数の交通アクセスを確保しておくことが、いざという時のバックアップ機能につながる。確かそういう趣旨のことだった。 都市計画や建築物の構造といった分野だけではなく、暗号や情報理論やコンピュータ科学でもリダンダンシーは重要な概念である。たとえば『宇宙を復号する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(チャールズ・サイフェ著)もリダンダンシーをめぐる話題から始まっている。 一般に冗長性と訳されるこのリダンダンシーを著者は畳長性と呼ぶ。冗長…
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貨幣と精神
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オリオン/アクロバティックなまでに複雑なモデル
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ホッブス的秩序問題といわれるものがある。自由な個人が好き勝手に行動をとると、万人の万人に対する闘争に行き着くと思われるが、にもかかわらず社会に秩序がもたらされうるのはなぜか、というものだ。 そのような下からの秩序が「創発」するメカニズムを(部分的にであれ)いかに制御しうるか。著者が取り組んだのは、その前提として、「生きている構造」とは何かを原理的に考察することである。 著者が関心を寄せるのは、表層的には昨今のグローバリゼーションの流れであり、より核心においては、あたかも自動機械のように稼動する資本制そのものが孕んでいる矛盾である。 それは貨幣や人間主体の成立が孕んでいる矛盾と同型のもの、すなわ…
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大人のための「ローマの休日」講義
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オリオン/スクリーンのなかの身体
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「『ローマの休日』は、『裏窓』と同様に、五○年代という時点でハリウッドが蓄えてきていた、演技法のレパートリーをふんだんに盛り込んだ映像的身体の競演といった側面をもつ傑作なのです。『ローマの休日』は、身体の映画であるといって間違いないのです。」 第四章「足先のレッスン」の末尾に出てくるこの文章が、本書の魅力の在り処を語っている。 そこにちりばめられた「映像的身体」や「身体の映画」といったキーワードが、第五章「フォトグラフィック、シネマティック」から第六章「スタイルの身体、そして身体の戸惑い」へと続く、「スクリーンのなかの身体」をめぐる著者独自の映像詩学の開始を告げている。 その極めつけは、著者が…
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画面の誕生
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オリオン/「メカニックな手つき」でデザインされたドキュメンタリー
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鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められ、後に単著『重力のデザイン』に収録された「重力の行方」を、こう書き始めていた。「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」 その模倣というわけではないけれども、私もまたここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午睡の前に、読み進めるのをならいとしてきた。「日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。……だが、魅力がないわけではけっしてなく、叙述の平ら…
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仏とは何か
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オリオン/変容する仏のイメージ
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宗教とは「聖なるもの」と「俗なるもの」との区別を意識した合目的的行為である。すべての宗教行為は世界認識(世界観)、目的(目標)、手段(実践)の三要素を含んでいる。 本書では、マンダラという仏や菩薩の住む世界の中に示されている、仏教における行為の目的・目標が、「ホーマ」(バラモン教のヴェーダ祭式=護摩)や「プージャー」(ヒンドゥー教の儀礼=供養)などの宗教儀礼、仏塔(涅槃のシンボル、世界=宇宙、ブッダの身体、立体マンダラの四つの意味をもつ)や仏像といった宗教シンボル、そしてバクティ(帰依)等々の宗教行為をめぐる詳細な叙述を通じて、具体的に考察される。 また、宗教には時代の状況に対処して進む自覚…
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時間はどこで生まれるのか
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オリオン/刹那刹那に創造される時間
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なぜ時間には過去から現在へ、あるいは未来から現在へという「流れ」があるのか。つまり、「今現在」に依存する主観的な時間(マクタガートのA系列)はどこで生まれたのか。また、なぜ時間には先後関係という「向き」があるのか。つまり、歴史年表のような客観的な時間(B系列)はどうやって成り立ったのか。 これらのことを解明するため、著者は、相対論と量子論の成果をもとに、次の前提条件を導き出す。ミクロな量子系に時間は実在しない。時間はマクロな相対論的世界のどこかで生まれている。そこでは、事象は、過去・現在・未来といった様相や時系列のうちにあるのではなく、数列のように一覧表として並んでいる(C系列)。 このよ…
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