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渚にて  創元SF文庫
人類最後の日

渚にて(東京創元社) ネヴィル・シュート著
佐藤 龍雄訳
税込価格: ¥1,050 (本体 : ¥1,000)
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出版 : 東京創元社
サイズ : 15cm / 472p
ISBN : 978-4-488-61603-8
発行年月 : 2009.4
利用対象 : 一般

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コメント・書評

核戦争で北半球が壊滅し、放射能の汚染が徐々に南へも広まっていく。その危機的状況の中で、鱒釣りに出かける人、ヴィンテージカーのレースに参戦する人、草上で家族と語らう人、友人と酒をくみ交わす人、任務を全うしようとする人。自分らしくあるための各々の選択が胸に響く。
中村びわ
Jun 24, 2009 1:51:52 PM
評価 ( マーク )
★★★★★

『渚にて』は古臭いSF小説だ。携帯電話もPCも普及していない時代に起きた、核兵器による世界終末戦争の後日談なんぞを描いた物語だからである。
 しかし、『渚にて』は決して古びない小説だ。それは、家族や友人を大切に思ったことのある人、住んでいる場所や出かけて行った土地の素晴らしさを感じたことのある人、食べ物をおいしいと思い、買った物に満足を感じ、仕事の大変さのあとでのびのび過ごせる自由時間に有難さを抱いたことのある人ならば誰もがよく分かる「何げない人としての喜び」を、世界の終末のなかに淡々と綴った物語だからである。
 これから四五百年ののち、人類が知性のある友好的な宇宙人に出くわすことができたなら、私たちはこの本を翻訳して、自己紹介代わりに手渡すと良いかもしれない。

 「古典」と言われるものは、一般的に「100年品質」を指すのだろうが、それを考えるとSFというのは例外的なジャンルだ。登場人物たちが携帯電話どころかパソコンを用いていないとなれば、科学技術的にそれはもう前近代的とも言えるだろう。10年、20年前に書かれたものでさえ、当時の技術発達程度を少しは心得ながら読まないと楽しめないこともある。
 通信や交通の発達において特に、人類史上これほど変化が急激な時代はなかった。そう言われるここ20年ばかりの間で、どういうガジェットを用いれば末長く読んでもらえる作品が書けるのか、作家の知恵がより厳しく問われるようになったのではないだろうか。
 また、世界がイデオロギーで東西に分かれ、核兵器や宇宙開発で牽制し合いながら覇権を争っていたという時代も、SFジャンルの好むものであったようだが、今の若者たちにはぴんと来ない。世紀が変わる前あたりから、イデオロギーの差ではなく経済格差のある南北の国々が共に手を携え、地球環境を破壊して行く仮想敵に立ち向かわなくてはならなくなった。よって核兵器を利用した世界終末戦争物の小説はひっくるめて、50年を待たずして堂々の古典と化してしまったとも言えよう。
 もっとも、ここ最近に来て再び、「核による世界の終末」というイメージは、私たち日本人にとって他人事ではなくなってきている。すぐお隣に住む手のつけられない狼藉者が、どうやら最後に一滴だけ残されているらしい理性の雫をこぼしでもしたら、「もうあと数時間」「もうあと数日」の日常が残されるだけという状況を覚悟しなくてはならないことも起こり得る。

 完全新訳だが、原書が出版されたのは1957年だと言う。
 ソ連が不凍港を求め、上海への南下を目的に中国に水爆を仕掛け、中ソ間の核戦争が欧米や中東、エジプトへと飛び火して行ったという設定。インターネットで映像を発信できる個人も組織もなく、北半球で起こった戦争の全容も、壊滅的状況についても南半球へ情報は伝わらなかったという設定。高濃度の放射能を避け、南半球の島からオーストラリア海軍に助けを求めた米国海軍の原子力潜水艦<スコーピオン>が、どうもコンピュータで操縦や制御がされていそうではなく、通信にも無線電信を用いているという設定。
 50年前の世界情勢の設定も科学技術の設定も、今読むのに「前提」としては明らかに通用するものではない。したがって、ある程度の歴史的知識を持った読者でなければ、この空想世界の現実感は伝わってこないというハンデがある。つまり50年前の過去に身を置きながら、現代とは異なる空想の未来を透視するという離れ業が要求されるのである。この小説を読んでいる時の不思議な感覚の第一は、そういう読み方の中にある。

 では不思議の第二は何であるかというと、そちらは時代性には左右されない要素で、小説世界の住人たちの事態の受け止め方と限りある日々の過ごし方である。
 北半球のどことも連絡が取れず、生物がすべて死滅したらしいことが分かっている。ただ時々思い出したように、北半球のある地点から無線の発信が確認される。高濃度の放射能は、徐々に南半球にも押し流されてきている。
 その前線が迫る状況で、オーストラリアの人々、米国や英国の海軍関係者が最後の日々をどう過ごすのかが丁寧に描かれる。オーストラリアののどかな土地柄のためなのか、北半球の壊滅やせまりくる放射能の悲劇があまりにも非現実的であるためなのか、人々の生活はパニックとは無縁で、原油の輸入が止まってしまったということもあり、馬車を利用するような何十年か昔の牧歌的な状態に巻き戻されている。
 そのようなゆったりとした流れの中、オーストラリア海軍士官ホームズは潜水艦<スコーピオン>での連絡任務をこなす。列車と自転車で通勤をして妻と赤ん坊と過ごす時間を確保し、買い物をしたり庭の手入れをしたりする。
 <スコーピオン>艦長としての任務を遂行し続けるタワーズ大佐は、故国アメリカに残してきた家族の元へ早く戻りたいと思いつつ、オーストラリアでの日々を退屈しないで過ごせるようにとホームズから気遣いを受ける。ホームズ家近所の牧場主の娘モイラを紹介され、オフタイムを紳士的に楽しむ。
 特殊な状況下だからこそ結ばれた人間関係を大切にし、狂気に陥ることなく自然体で良き日々を送っていこうという姿勢に、「最期の日々なのに、この穏やかさは何なのか」という不思議さを感じつつ、それでも、こういうものであってほしいという願いを持ってページを繰る。だが、この穏やかさの中で、いざという時のための準備と覚悟が地道に進められていく。

 タワーズ大佐やホームズの高潔さも忘れ難いが、そう重要ではない登場人物であるモイラの父のエピソードが心に残った。彼は、飼っている肉牛の方が人間より放射能への耐性が強いかもしれないと知り、自分の死後のエサやりの心配をする。人が乾草の俵のかたまりをほぐしてやらないと牛がうまく食べられない。それをどうすべきかをタワーズ大佐に相談するのである。
 世界終末物というSFジャンルでありながら、潜水艦をめぐる冒険的要素もあり海洋小説としての要素もあり、そして、それぞれが下す選択にヒューマニズム小説としての感動がある。
 帯にある小松左京氏の「21世紀を生きる若者たちに、ぜひ読んでほしい作品だ」という言葉、小さくても原画の壮麗さが窺える表紙装画、「われらこの終(つい)なる集いの地にて」で始まる、どこか典雅なエリオットの巻頭の言葉などに誘われるまま静かな渚に最後に辿りついたとき、感動の余韻のうちに、自分らしい選択とはどういうものなのかが問われる。
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