コメント・書評 |
ナジャの迷宮、ブルトンの迷宮
SlowBird
May 27, 2009 12:09:08 AM
|
評価 ( ★マーク )
★★★★★
|
作者自身の私生活を「ガラスの家」のように描いたという、小説とも日記とも言えそうな奇妙な作品。ナジャと名乗る奇妙な女性との交際について、訳者岸田國士の解説によればほぼ事実そのままであったということだが、90%の事実からブルトンは美しい幻想を取り出してみせた。 ナジャと会った場所、ナジャと眺めたオブジェ、ナジャの書きなぐったデッサン、そういった写真も散りばめて、まるで人生の断章であるかのように扱われているが、僅か数ヶ月のそれは彼にとって、人間の抱く幻想の正体についてのインスピレーションをむさぼった時間だった。ブルトンは、ナジャの行動や言葉と、自分の無意識から沸き出す想念との間のシンクロニティに瞠目した。彼女こそが、シュルレアリスムが芸術の枠を超えて、人間の根源に迫りうることを示しているのではないかという幻想がそこに生まれた。 現代においては、無意識にしろ表層意識にしろ、例えば脳波という概念によってそれを物理的な実体として捉えることができる(その意味が理解可能かは別として)。しかし20世紀初頭においては、無意識とは合理性と神秘性を併せ持った存在であり、そこにフロイトやブルトンが幻想を抱く余地があったし、その幻想は科学的考察から逸脱したものでもなかった。ブルトンの無意識に対する関心を刺激するこの奇矯な美少女は、真理を伝道する霊媒であり、ブルトンを導く聖女。無意識という対象自体が幻想を紡ぎ出す装置であり、この物語はシュルレアリズムの創世神話だった。 それでは1928年に発表されたこの作品が、1963年に著者により改訂出版された書かれた意義はなんだったのかということになる。ナジャは確かに、シュルレアリズムに殉じた聖女だったかもしれないが、時間が経つに連れて、シュルレアリズムという幻想に殉じた、いいや、シュルレアリズムに殉じた幻想の少女、そういった認識がまったく等価値に生じたのだと僕は考える。同時にナジャにとって文学やブルトンは、これからの生活を、人生を豊かに引き上げてくれるという幻想の体現者であったはずだ。だからブルトンにとって、彼女の存在が誘う迷宮は深まるばかりであり、その生は幾度でも再生されなくてはならない。繰り返される短い生の記憶は、取り残された人々によってもう一度虚飾を剥がされて、新たな神話に生まれ変わるはずだ。 この物語の現実との対比については多大な研究が為されていることが、詳細な訳注からは伺われる。それは事実との合致について織るためというより、出来事や風景からブルトンが受け取った幻想の匂いや体温、また悔恨を探ることで、時代と一体になった物語の完成に近づくこともできるのではないだろうか。 |
|
|
| 現在の投票
はい:4人(100%)
いいえ:0人(0%) |
|
|
|