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季節風
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コメント・書評 |
故郷は遠くにありて思ふもの
夏の雨
Nov 13, 2008 6:46:17 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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重松清の、季節の風物を素材にした短編集の、本作は「春」の巻である。 ここに収められたのは12編の短編だが、春は「雛飾り」や「鯉のぼり」といった子供の節句が多い季節だから、重松の得意とする親と子の世界をたっぷり味わうことができる。 また、卒業入学といった人生での別れとか出会いを経験することが多い季節で、どうしても人の感情が揺れ動くので、それもまた重松の世界である。 そんななかで田舎(故郷)と都会という構図を描いた作品もいくつか描かれている。(「島小僧」「ジーコロ」「霧を往け」「お兄ちゃんの帰郷」)
「故郷は遠くにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(小景異情)と詠ったのは、詩人室生犀星である。 今でこそ通信手段や交通手段が発達しているから、故郷といっても物理的には近いものかもしれないが、気持ち的には一旦離れた故郷は遠い存在である。嫌な言い方をすれば、捨てるに近い思いであろうか。 重松清自身が岡山の出身ながら大学の時に東京に出てきた経歴があるから、どうしてもそのような思いが強く匂う作家である。私も大阪の地方都市から東京に出た人間だから、そのあたりの匂いに敏感なのかもしれない。
「ジーコロ」は東京の大学に入ったばかりの自身を回想する男の物語だ。 知った人など誰もいない東京での淋しさと不安でふさぎこんでいた青年に田舎の母から一通の手紙が届く。それは<元気ですか?>に始まる短い文面だが田舎への電話を求めるものでもあった。青年は下宿の電話ではなく、「なるべく遠くの、話し声が誰にも聞こえない」公園の電話ボックスまでいって、故郷に電話をかける。 題名の「ジーコロ」とは、ダイヤル電話の、回したダイヤルが戻る音である。 実は同じような経験を私もしている。私の場合は下宿に電話がなかった。携帯電話が普及した時代に電話がない世界は想像しにくいだろうが、30年前にはたしかにそんな世界があったのだ。ましては当時はテレホンカードもなかった。百円硬貨や十円硬貨を握りしめて、公園の電話ボックスに行ったものだ。(電話ボックスというのは不思議な空間で、かぐや姫が唄う「赤ちょうちん」という歌の中に「公衆電話の箱の中/ひざをかかえて泣きました」というフレーズがあるが、今でも泣ける一節である) また「お兄ちゃんの帰郷」は、東京での淋しさにまけて田舎に逃げ帰ってきた兄を妹の視点から描いた作品である。 家族の立ち居地など出来すぎている印象は否めないが、田舎(故郷)というのはそういう甘さもふくめて故郷なんだと思う。 「霧を往け」も夢に破れ、東京で死んだ男の故郷を訪ねる作品だが、ここでも故郷の年老いた両親はつまらない死に方をした息子であってもどこまでも愛して、信じているものとして描かれている。
故郷は、単に生まれた土地をいうのではない。それは親と同義語なのだ。 いつでも、どんなときでも、自分をうけとめてくれるそんな存在なのである。だから、重松の故郷を描いた物語は、親と子の物語でもあるのだ。 犀星の詩もそのような甘やかな書き出しだが、実はそのあとこう続く。 「よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」と。 犀星は重松よりも、あるいは私よりもうんと厳しい目で故郷を、自分自身を見つめていたのかもしれない。 |
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