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ほとんど記憶のない女
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コメント・書評 |
Passage
tau
Jun 25, 2007 2:42:22 AM
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評価 ( ★マーク )
★★★★
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薄い書物だ。作品を収めている頁数は200にも満たない。そしてその中に51編の散文が収められている。リディア・デイヴィスという書き手については何の知識もなく、訳者の岸本氏の名前に惹かれて本書を読んだのだけど、とても興味深かった。 「散文」という言葉を使ってしまうのは、本書には時にはたった三行で全てが語られてしまう作品とほぼ30頁にも及ぶ作品まで様々な文章が収められているのだけど、それを小説と形容すべきかどうか戸惑ってしまうからだ。ある時代や舞台が設定されその中を行動し考察する人物が描かれているという理由で、取りあえずは小説と呼んでも差し支えのないだろう作品も一応収められている。例えばコペンハーゲンやモスクワ、そしてティフリスまで極寒の地から砂漠までを旅する人物の記録を贅肉を削ぎ落としたレポート風の文章で描き切った「ロイストン卿の旅」は小説の範疇に一応は入るだろう。では大学の英文学の教師である主人公がカウボーイと結婚したいという願望を綴り始める「大学教師」や、「初秋から翌年の夏にかけてほぼ一年間」「住み込みの管理人をして暮らした」二人が貧困に喘ぎながら退屈な田舎町で淋しく暮らす日々を淡々と描いた「サン・マルタン」は小説なのか。後者はあのポール・オースターと一緒に暮らした日々の経験から成り立っており、オースター自身も同じ日々について『赤いノートブック』に記しているという。従って内容は、事実から成り立った自伝的なエッセイとして受け取ることは十分に可能だろう。だが、果たして本当にそのように安直にエッセイとして受け容れてよいものなのだろうか? 本書を読んでいると、そうした散文を小説やエッセイ、事実と虚構といった形で区分することが難しくなってくる。それに加えて、例えば村の女たちがヒマラヤ杉に変身したことから始まるバリー・ユアグロー的なシュールさを帯びた寓話「ヒマラヤ杉」、水槽の中の魚を描写する「水槽」、ビュトールとジョージ・スタイナーを引いて旅することと読むことと翻訳することについて論理を弄んでみた「くりかえす」まで、筆遣いとしては軽薄な部分は何一つなくむしろ淡々とした無駄のない筆致で全てが簡潔に綴られているにも拘らず、その内容もまたヴァラエティに富んでいるのだ。本書に収められている作品の全てを小説とは呼べないにして、ではどこから小説は始まりあるいはその枠組みから逸脱して散文に入り込むのか? そうしたジャンル分けが自明ではないということを本書はスマートに提示してみせる。むしろジャンルを越境して、事実か虚構か、シリアスであるか皮肉が効いているかとかいった作風の一貫性にも拘らずに散文それ自体が持つ論理の明晰さや描写される事物、出来事や心理の吐露といったものを巧みな筆致で描き上げてみせる。それが本書の孕む魅力なのだろう。それは時に上述したオースターの散文のように冷徹でありかつ思索の深みを際立たせており、ユアグローの寓話のように荒唐無稽に意味と無意味の間の曖昧な部分に着地させてしまう。 散文は思索や認知の連なりによって生じる。ある文章を記し、それについて考察することや続けて行われる出来事を観察することで次の文章が生まれる、というように。本書ではそうした、時にどこに向かうのかこちらを予測させない瞬間が多々見受けられる。書かれることによって生じる思索や想起そのものを実況するように、乱暴に言えば「筆の趣くままに」作者は記しているかのようだ。敢えて言えばそうした考察のドライヴしていく過程こそが著者の表現したい事柄なのではないか。本書が内容としては支離滅裂であるにも拘らず一貫性があって面白く感じられるのは、恐らくそうした筆致の動きを如実にそして冷徹に観察し記す著者の姿勢故のものなのだ。 |
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