コメント・書評 |
「起源」と「病」(このエッセイに込められた凄みを味わうために):<<自分は、あの苦しみのようなものを忘れることができない。それからあの至福の味わいも。それから不安も、いっときの平安も>>
すなねずみ
Jul 6, 2004 10:33:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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色川さんの小説に何度か出てくる「遊び」について。 (引用は凡て『狂人日記』より)
<<自分の両掌を眺めて指を動かしてみる。はじめはトイレでしゃがんでいるときなどに、そうやって遊んでいたのだ。掌を立てて五本の指を微妙に開き、第二関節のあたりから微妙に曲げると、力士の誰それに似てくる。……親指の開き方、一方の指の曲げ方によって固有の力士の相が出てくる、ように自分には見えた。見えてしまえば、もうその印象は動かない。それで取組をする>>
僕も子どものころにやったことがある。そこから先は、どこまで「リアリティ」に憑かれてしまっているか……彼が力士の名前をカードに「書く」ことから生じてきたもの。
<<こういう遊びは短期でやめてしまっては意味がないので、長い歴史を形づくるほどの縦のリアリティが欲しい。同時に横のリアリティも欲しくなる。たとえば、はじめは二十名内外の力士で構成していたが、番付の下位で負越しても据置きという所が面白くない。それで十両という級を作ったが、同じ理由でその下の幕下という級を作りたくなる。勢いがそこでとどまらず……カードにしたおかげで非常に煩瑣な、つまり一つの社会に似たものができあがりだしてきた。……すると、どうしても紙幣が欲しくなった。経済を抜いてリアリティは成立しない>>
<<倦きるし、疲労もする。そこがつまり現実らしさでもあるので、自分の恣意でやめるわけにいかない>>
そして「他者」が現われる。
<<他人は他人で、ちがうこわれかたをしているのか、いないのか、それもよくわからない。……自分は、カードの自分と、神のように俯瞰している自分と、二色の自分を持ってしまった。そのときはなんだかそんな実感がして、ごくッとそれを呑みこんだものだが、いつのまにか自分一人で、例の遊びを神さまごっこと呼ぶようになった>>
彼はやがて野球好きの弟を巻き込むためにプロ野球選手のカードを作り、「どういうわけか、やむにやまれず、というかたちで、映画の撮影所も作」り、やがて「自分でも恐れていたこと」に手を出す。
<<絵葉書を電車に見立てはじめたのだ。ということはつまり、無数の市民を作るということだった。そうでないとどうしても重要な部分が欠けているように思えてならなかった>>
<<もうとっくに煩瑣に耐えられなくなっていたし、倦きたし、馬鹿馬鹿しくもなっているところがあった……ところがそれがやめる理由にならないのである。現実というものが、そもそも煩瑣で、退屈で、阿呆らしくて、どうにもならないもののように思える。自分が生きている以上この遊びもやめられない>>
<<「自分のような男が、どんなふうに生きていったらよいでしょうか」 久しぶりに医師の前に出て、概況を述べた後、こういう質問をしてみた。 「むずかしい質問ですな。私はただの医者でしかないが、なんとか、近いところをお答えする義務がありそうです」 医師が言葉をつなぐのを、自分は待っていた。 「隣人に、気狂い、と罵られて、逆に狂ってしまったといいましたね。怒って当然でしょう。ですが、医者の処方として申し上げると、貴方の場合、怒って収穫はないのではないかな。むしろ、たとえ不当な罵言であろうと、甘んじて受けることも必要でしょう」>>
医師:「自分は何か。曖昧な部分のどこか一点に自分の位置がありそうだが、はっきりしない。そういう思案はプラスにならないどころか、病気を進行させる因になりかねません」 自分:「つまり、生き方を簡略化しろとおっしゃるんですね……それが治療ですか。自分を簡略にしようとするくらいなら、こうして質問なんかしませんがね」
(色川さんの言葉) 「狂人日記について言えば、自分たちの運命というかその状態に対する怒りがもう少しあれば、解決とはいかなくても救いに似た印象を呈するかなと思うんだけど、怒るとそこで発散してしまって書けなくなってしまう…」 |
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