コメント・書評 |
シュールっていえば、大体みんな共通のイメージをもつ。超現実主義、それは確かにそうだけれど、いざ本質を語ろうとするとその漢字訳以上のものにはならないんじゃあないのかな
みーちゃん
Nov 7, 2003 8:48:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★
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パリの町で出会った妖精のような若い女・ナジャ 彼女とともにすごす驚異の日々のドキュメントが、「真の人生」のありかを垣間見せる。「私は誰か?」の問いにはじまる本書は、シュルレアリスムの生んだ最も重要な、最も美しい作品である。1963年の「著者による全面改訂版」にもとづき、綿密な注釈を加えた新訳・決定版。訳者の巖谷國士の解説によれば、彼自身三度目の訳となるものだという。
50葉近い写真や図版と、本文と同じくらいの頁数の訳注(実は活字のポイントが小さいので、分量的には注の方が本文を凌ぐ)が特徴的な文庫本。訳文は、難しい漢字は殆ど使われず、その分量たるや村上春樹の文章以下で、頁が白く見えるというのは、珍しい。文についても、それは言えて、なんで「かな」で書くのと思わずいいたくなる。
それは、カバーのことばにある「最も美しい作品」という評価に対して訳者の巖谷が与えた衣装といってもいいだろう。マン・レイの手になるポール・エリュアールのポートレイト、J-A・ボファワール撮影のパリの風景、作品の中に出てくる、もしかするとシュールレアリスムの世界では有名かもしれない人々や、スケッチ・手袋などの写真といった、ブルトン自身が初版と同様に使用し、あるいは今回新たに入れ替え付け加えたものたちと同様、不思議な思いにさせる。
全体は、明確にはなっていないけれど二部構成らしい。解説にはそう書いてある。大体が、分類がはっきりしない本なので、読んでいて、途中から急に日付が出てきて「む、いつのまに日記に?」などと思っていると、そのまま走っていってしまう。変わらないのは夥しい写真が相変わらずついている事、ナジャがいることくらいだろうか。
で、冒頭にも書いたけれど、目に優しい訳文なので、すらすら読める。有名な人物が登場するし、図版も多い。ナジャを見るギャルソンの奇妙な取り乱し方といった描写も面白い。でも、殆ど頭に残らない。結局、シュールレアリスムが、誰がナント言おうと美術以外に何も残さなかったのもいたし方が無い、と納得させてしまうほど、空虚なのだ。
超現実主義、という言葉を冠する作品は現在もある。絵画にしても、私自身が「シュールじゃん」などと書く。しかし、それはあるイメージであって、ブルトンの提唱したムーブメントとは全く関係が無い。例えば、先日、柴田元幸の訳ででたグレッグ・バクスターの絵本(?)『バクスター危機いっぱつ』も、シュールであるのは分るけれど、そしてそれは面白いのだけれど、多分、ブルトンの精神などはどこにも感じられない、ただ超現実という糸だけが繋ぎとめている、そんなものだと思う。
そういうシュールレアリスムの未来を暗示させる作品、といったところだろうか。たしかに1940年代生まれの巖谷國士にとって、シュールレアリスムは空気のように身近にあったのだろう。彼の青春の時期に、それが勢いを持ち、煌いていたことは否定しない。しかし、結局、文学に関してはシュールという言葉だけを残して実体を無くしてしまったのではないだろうか。
因みに訳者の巖谷は東京都港区高輪生まれ。東京大学文学部仏語仏文学科卒。評論家、旅行家。フランスを中心とするシュルレアリスム、ユートピア文学などを専門領域とし、その他メルヘン、美術、都市、映画、マンガ等さまざまな分野にわたる評論活動をおこなっているという、いかにも一時代前の高等遊民を思わせる。仲間のための本、そう言ってしまえば、あらゆるところから非難の波が押し寄せるのだろうなあ。でも、あえて言おう、これ読んでシュールに奔るなんざあ、俗物だね。 |
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