コメント・書評 |
「よい爺(じじい)ぶりじゃ」…老境を模索する
流花
Sep 27, 2003 4:06:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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老人は、己の来し方を語るのは得意であっても、行く末を語るのは、不得手である。それは、限りなく“死”に近いからであろうか。自分の人生がどのような形で終わるのかなんて、予想ができないし、したくもないというのが、人間として当然の気持ちであろう。 『剣客商売』も、13巻めである。三冬も、大治郎と夫婦になり、小太郎が生まれてからは、めっきり出番が減ってしまった。出てきたとしても、ほんのついでである。だから三冬の心中が語られることなんてない。心なしか大治郎の出番すら少なくなったように思えてしまう。三冬ファンとしては、やはりおもしろくない。何か『剣客商売』に対する“熱”も覚めてしまった。 しかし、『剣客商売』で、池波正太郎さんが描きたかったのは、やはり“小兵衛”なのだ。小兵衛59歳という設定で始まった『剣客商売』シリーズ。本書では、小兵衛は65歳になっている。池波さん自身も、本書が単行本として発行された年に、還暦を迎えていらっしゃる。池波さんにとっても未知の世界である“老境”。 “ひとりの剣客がどのような老境に達するか”。それを手探りで模索しながら、ご自身の“老境”も模索しておられたのではないか。 「よい爺(じじい)ぶりじゃ」…第一話「消えた女」の中で、小兵衛が、堂守の嘉平という六十がらみの老爺をこう表現している場面がある。小兵衛にとっての理想の爺の姿が彼の中に見いだせたのだろう。やはり他人の“爺ぶり”は気になるものである。息子は自立し、孫の小太郎も生まれ、名実ともに“おじいさん”となった小兵衛。時々、剣で人助けをしながら、悠々自適の生活を送る。なかなか素敵な“爺ぶり”ではないか。人生ここまで来れば、人それぞれである。だから、老境も十人十色である。小兵衛の知り合いにも、10歳年上の医師小川宗哲がいる。医師と剣客では立場がまた違うが、二人は碁がたきであり、小兵衛も宗哲の老境を間近に見ながら、己の老境を探っているようでもある。しかし、やはり小兵衛にとって、同じ剣の道を志した者の老境というのが、一番切実に迫ってくるものなのであろう。 「夕紅大川橋」。これを読んだ時にわかった。内山文太、75歳。辻平右衛門の愛弟子であり、小兵衛とは同門の親友である。妻は病死し、娘の嫁いでいる井筒屋へ引き取られ、孫や曾孫に囲まれて、楽隠居している。その内山老人が、突然行方不明になってしまうのである。しかも、老人が岡場所の妓と猪牙船に乗って、大川をすべっていくのを、小兵衛は目撃している。何不自由ない楽隠居がなぜ? 不可解である。だが、そこには、老人の“過去”があったのだ。本人も忘れていたような、というか、もう無きものとして、彼の心の中に埋葬してしまった“過去”が。現在の幸せな生活の外側で、ひっそりと静かに回っていた“過去”。それが、ここまで来て、思いもかけぬ形で、しかもいっぺんに、目の前に現れる。老人は、その一件の後、呆けてしまい、急死するのである。小兵衛は、この一件の最中、「久しぶりに、愛刀を引き抜いた内山文太の皺だらけの顔に血がのぼり、生き生きとしている」姿を見ている。死の前の一瞬、灯った微かな灯し火。剣の道を生きた男の本性。「自分(おのれ)の半身(かたみ)のような気がしている」内山老人の死は、小兵衛にとって、自分の死を見るようなものだったのだ。 “過去”の積み重ねが現在であり、未来である。剣客ならば、「勝ち残り生き残るたびに、人の恨みを背負わねばならぬ」。老境も十人十色である。「年をとった」と口では言っていても、老いとはどのような境地なのか、誰にとっても未知の世界なのである。ましてや、自分の行く末——“死に際”を考えることなんて、できるものではない。でも、それでいいのだ。人の一生は、いくつになっても“いかに生きるべきか”を探り続けるものなのであろう。
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