コメント・書評 |
古典SF中の古典。やはり、それだけの力があるということだ。
FAT
Mar 2, 2001 10:44:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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『幼年期の終り』は1953年と半世紀も前の出版であり、いわば古典SF中の古典だ。「古典とは、名前は知られているが、もう読まれる事のない作品のことをいう」なんていう皮肉を誰かが言っていたけれど、『2001年宇宙の旅』と比較すると派手さがないので、『幼年期の終り』は、こういう意味での古典に過ぎないと思われる方もいよう。しかし、そこはやはり古典SF中の古典、読んでみさえすれば、現在でも十分堪能出来る傑作なのである。
「成層圏の希薄な大気の中を通過するかすかな悲鳴のような音」と共に巨大な宇宙船がしずしずと降りてくる。しかし、地球に訪れた上帝(オーバーロード)達は、一向に姿を現すこともなく、国連事務総長を通して最低限の接触しかしてこない。彼らが地球に訪れた目的もハッキリせず、時間ばかりが過ぎて行き…。
派手なドンパチもなく淡々としてした展開の中で追求される本作のモチーフは、「知性の進化の行く末」である。「存在の大いなる連鎖」がダーウィンによって破壊されて以降、人間の進化の行く末という問題は、新たに人類に突きつけられた神学的問題として浮上してきた訳である。この極めて不安感を煽る問題への回答として、本作が描いているのが、認識能力が爆発的に増大し、物質的肉体を跳躍してしまうという「幼年期を終える人類」の姿だ。 こういった答えに対して、「古典的」という評価もできるのであろうが、翻ってみると、この姿はサイバーパンクが描く電脳世界における意識共有(ジャック−イン)という別の形で、現在でも繰り返し具象化されつつあるのであり、結局、「意識の共有と肉体の超克」というモチーフは、SFの尽きることのない着想の源であると言うことが出来るのであろう。
しかし、ドンパチも全く起きることなく淡々とした筆致でストーリーが進んで行くもにもかかわらず、ぐいぐいと作品中に引き込まれていく処は、「やはり永く生き残る作品には、それだけの力があるのだ」ということを実感させてくれる。 |
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