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挟み撃ち
講談社文芸文庫
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コメント・書評 |
矛盾を矛盾のまま追求していくこと
king
Jun 21, 2003 7:51:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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一体どのようにしてこの作品について書くことができるだろうか、と思う。まごうことなき後藤明生の代表作であり、日本文学のなかでも異質な方法的意識でもって書かれた「挟み撃ち」はいつも私にとって一つの謎である。その全貌を描こうとすれば逐一書いていくしかなく、それでは字数の限られたここでは不足に過ぎるだろう。あえてここは作品を迂回しよう。
矛盾があるとして、その矛盾を解決しようとせず、矛盾を矛盾のまま追求していくこと、と後藤明生は自身の作家的態度を表現した。矛盾とは、われわれ現代人の生の実相である。現代とは誰もが故郷喪失者である時代であるともいう。
中学生の時に敗戦を体験し、軍人になろうという夢を抱いていた後藤少年は、初期の短篇「赤と黒の記憶」にこう書き記している。
「不自由を不自由と感じ得ず、また、自由を自由と感じ得ない、悲劇的で滑稽な役割を負わされた自分に気付いた時、屈辱以外に、一体何を感じ得るだろうか」
戦中と戦後とに「挟み撃ち」された少年の述懐である。また、後藤明生が生まれたのは朝鮮の永興であるのだが、そこは敗戦直後、日本でなくなる。現実的な意味で、後藤明生は故郷喪失者である。だが、彼はそれを何かしら特殊なものとして称揚したり、特権化したりはしない。それが現代の様相であるという視点だからだ。
また、引用のなかでの「悲劇的で滑稽」という文言が後藤明生にとっては決定的に重要である。現実に引き裂かれた自分を、悲劇的であると見る自身の目と同時に、滑稽であると見る他人の目、もうひとつの目が、彼の主要なモチーフであるからだ。見る=見られる、それは、笑う=笑われるという関係の変奏である。この世はつまり、いつも誰かは他人に笑われているのだという関係。私と他人とが同じ地平に立っていて、どちらもが相対的なポジションであるという「楕円の世界」とは後藤明生の基本的な世界の捉え方である。 それがまた、「喜劇」の舞台装置なのだ。絶対的な神の退場により、すべてのものが同じ地平に立っている近代とは、まさに喜劇の時代ではないか。喜劇とは、物語の構造の問題であり、実際に笑う笑わないという判断によるものではない。それはレトリックである、と後藤明生は言う。
そろそろ、「挟み撃ち」に戻ろう。ここで後藤明生が試みようとしたのは、現代人の様相を、様々な方法を用いて、喜劇として書くことだった。現代とは何か、現代人の矛盾とは。そのような問いが頭にあったであろうことは推測できる。
ある朝、主人公である語り手はとつぜん思い立ち、過去に上京してきた時に着ていた陸軍歩兵の外套を探すことにする。外套はもちろん今手元にない。どこに行ったのかも思い出せないし、いつどこで無くなったのか、それすら分からない。だが、まさにとつぜんそれを探すことにして、今まで自分が移り住んできた土地を訪ねていくことを決める。
ここから、語り手は探索の旅に出る。注意しなければならないのは、実は小説の始めと終わりでは数分しか時間が経っていない点だ。語り手は最初から最後まである橋の上に立っており、作品全部は回想なのだ。語りに仕掛けられた罠こそが本作での主要な部分である。どんな素材でもそれを喜劇に変換するのが文体であるという後藤明生の考えは、ここで遺憾なく発揮されている。 過去から現在を縦横無尽に繋ぎわたり、あらゆるテクスト(ゴーゴリ「外套」、永井荷風「墨東奇譚」、獅子文六、島崎藤村など)を引用し、テクストと今とのズレを露わにし、畳みかけるように疑問符を連ねたものの解答を放り出し、本題から逸脱し続け、標題の「挟み撃ち」という言葉が作品の主題でもあるというようにさまざまな「挟み撃ち」的状況を構成していくのだ。
果たしてこれは喜劇たり得ているのか、現代を描くことができているのか、そのような問いを「挟み撃ち」に投げかけることはできるだろう。 |
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