コメント・書評 |
豊富なソースと鋭い解析で近代日本のコンフリクトを俯瞰できる一冊かも、必読!
T.コージ
Mar 19, 2010 1:39:25 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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●マジメな文芸からの問いかけ? 本書の問題提起は根源的で絶対的な次の2点だ。
日本の思想は、近代文明の弊害をどのように克服しようとしてきたのか。 戦後民主主義は、第二次世界大戦の一翼を担ったことの反省をなしえたのか。
一言でいえば文学や思想、哲学の分野で大きな未決の問題である「近代の超克」が問われている。日本の近代化、西欧化の評価をめぐる講座派と労農派の日本資本主義論争をはじめ江戸の文化から分子生物学、そして最近リアルに語られるようになった「東アジア共同体」まで概観しつつ同時に微にわたり分析し批評している。
戦後から現在に至るまでケリがついていないこれらの問題に関して、戦後最大の思想家と宣伝コピーされた吉本隆明の鋭利な批評とその死角にフォーカスするところから論は進められている。知識人という言葉が相応しい博学強覧な観点と背理をとれる視点から鋭い指摘が繰り出されている。吉本に対する批判で明示的にはもっとも鋭い指摘かもしれない。
ところで、確かに「戦後思想は日本を読みそこねてきた」が、現代の日本を読むのはますます困難ではないだろうか?という疑問がある。その困難にドンキホーテのように立ち向かう本書から(文芸ジャンルという限定つきではあるが)文学の有効性と批評性が確認できるかもしれないが…。
●近代とか現代とかは何か? ニューアカは知だの思想だのが商品であることを示し、エヴァンゲリオンほかアニメで文学は終わったとまで言われ、コギャルのジャーゴンは小さな共同体を無数に作った…そのチョベリバでさえ古語に属するような現在の姿そのものが何を現わしているか?
著者の目的は「東アジアでも確実に育っている」「トランス・ナショナル」な動きをアシストすることだ。「「近代の超克」は「マルクス主義の経験」を経て、はじめて生れた」と認識し、「国民国家を基盤とする近代ナショナリズムを相対化し、のりこえる動き」である「トランス・ナショナル」に期待する、というのが著者のスタンスだ。
吉本ばななの作品がマクドナルド(世界標準?)に例えられたように既に近代の問題は普遍的(世界的)な問題でもある。そもそも日本的という理由以外ではじめて海外で高い評価を得た安部公房の文体もストーリーも無国籍であり、安部が元来からモダニストであったという事実はフォーカスされるべき問題だろう。ばななや村上春樹がアジアも含む海外で評価される理由も内容が<トランス・ナショナル>だからではないか?
「近代の超克」という問題そのものが把握しにくいのは、近代の二面性(現実)が単一言語の共同体(民族、国家)と多言語の共同体(連邦、合衆国)という相反するものでありながら経済合理性を共通項として成立(併立)してしまったところにある。さらには経済の対外的な拡張は(帝国主義・侵略主義ほか輸出なども)国内へ向かえばケインズ主義的な政策として発現する。国(境)の内外という差異でさえ絶対的な基準ではありえない。
「戦後思想は日本を読みそこねてきた」とすれば、その根本的な原因は方法の問題ではないか?と考えることができる。対象が読解困難なのではなく、読解方法あるいは認識方法そのものが問題なのだ、という問題だ。端的にいって米ソ対立の冷戦時代に数万発の核兵器がひしめき合うヨーロッパでいずれのイデオロギーにも影響されずにモノゴトを見極めるためには、その認識方法そのものが問題になった。サルトルの問題意識だ。サルトルが科学を自称するマルキシズムを批判(相対化)した<あらゆる科学は蓋然性だ>という指摘は重要だろう。蓋然性を認めること以外はすべて蓋然的だからだ。すべては相対化されてしまうのだ。
●イデオロギーが無効だとしたら? 「日本の近現代の反省にバイアスをかけてきたのは、戦後イデオロギーにほかならない」が、イデオロギーという大きな物語が無効な現在、バイアスの正体もイデオロギーではないのではないか? 松岡正剛の『日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか』のように大きな物語(からの抑圧)に対して無数のフラジャイルな物語りが析出する。欧米では同一の文学(あるいは新聞)を読む同一の言語を使用するのが民族であり近代国家の基礎でもあったがアメリカやソ連という多民族多言語国家の登場そのものが近代国家を揺るがす事件でもあった。現在では個別国家を解消しつつEUが生成しつつある。そもそもローマ帝国は元来そういう国家であったのであり、ローマ帝国の痕でもあるユーゴスラヴィアの内戦では根源的な矛盾が露見したといえる。ユーゴ連邦当時から「ユーゴ人」の戸籍を申請するものは2、3%しかいなかったという事実が示すものは重い。大部分がセルビア人やクロアチア人、ボスニア人を申請していた。平和時から理想を体現する「ユーゴ人」になろうとする者は少なかったのだ。多くの人が望んだのは具体的な<何か>を属性とするアイデンティティだった。それは場所であり血筋であり言語や名前でありそれらをベースにした文化だ。現実的にはこれらが時間的に蓄積された<伝統>に根差したものだろう。
●キメラな日本を解剖? 丸山真男の「共同体的心情あるいはそれへの郷愁」が「『近代の超克』の通奏低音をなす」という認識をレヴィ=ストロースをヒントにした構造主義の典型としながら、神話が系譜や時系列で展開しそこへ生成神話が重ねられていく日本の特徴と構造を「神話の編集方法とその思想がかかわる」と分析する。吉本隆明や松岡正剛のように方法論を確立した数少ない者だけが持つように著者の分析も際立っている。
「日本では「復古」ないし「伝統の発明」が何度も繰り返されてきた」という著者の指摘は鋭い。たとえば終身雇用やそれによって会社を家族的に思慮することは戦前の統制法が目論見定着させたことだからだ。統制法以前は平均就労年数は5年であり、日本では転職や数年間の無職(浪人)の状態は普通のことに過ぎなかった。フリーターやニートは珍しくなくそれが伝統だった可能性さえあるもしれない…。
すでに社会基盤と化したITやネットなどテクノロジーとアーキテクチャから生成する環境の中で、本書の理系ではないアプローチが、逆に新鮮だ。数多いプロットと説得力のあるオリジンなパラメーターが一見キメラに見える日本の思想を明らかにしてくれる。近代の超克をめぐるコンフリクトは、そう見えるだけだ…ということを明らかにしてくれる。本書にはとても新書一冊では済まない内容が収められている。エポックメイキングな事象はもちろん豊富なソースは日本の近現代を俯瞰させてくれる通史ともなっていて立場にかかわらず必読の書といえるだろう。 |
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