コメント・書評 |
「詩」は「死」を表そうとするものであるのかもしれず、「死」は「詩」のようなものかもしれない
みなとかずあき
Feb 21, 2010 6:53:20 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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時々谷川俊太郎の詩に無性に触れたくなることがある。「読む」というのとも違う。ただ単に「感じる」というのとも違う。谷川の言葉にいろいろと感じさせるものがあるのだろう。そしてさらに谷川の散文などにも感じさせるものがあるので、エッセイなどもよく読んでいた。 その中の1冊のつもりで買い求めたのだけれど、この本はただ触れるだけではとても重いものが載せられているように思う。 それは共著者(?)である徳永進の言葉と、その言葉を生みだしている彼の普段の臨床のせいのように思える。 この本は、谷川俊太郎と徳永進の2年にわたる往復書簡が1冊の本となったものだ。徳永進がホスピス診療所の院長であることなどから、人が死に至る過程や死の間際の状況が語られ、それに対するように谷川の思索が綴られている。 人の死に関わることだから「重い」とも言えるのだが、2人の往復書簡が進んでいくにつれて、単に「死」のことを考えるだけでなく、人がいかに「生きる」かについて書かれているように思えてくる。すごくありふれた言い方をすれば、「死」は「生」に通じると言えるのだろう。そのあたりを、少し違う言葉ではあるけれど、谷川は次のような言葉で伝えてくれる。 「今は死後と地続きなんです」「人間はみな死に向かって生きているわけですから、生と死の境界を断絶というふうにとらえなければ、この今に死後が含まれていると考えてもいいのではないでしょうか」(p.150 気になる言葉) そしてさらに死を迎えることを考え直させてくれる次のような言葉も見つけられる。 「死が来るのを待つという発想より、日々死に向かって歩むという発想のほうがすこやかな感じがするんです」 往復書簡だからというわけではないだろうが、比較的平易な言葉で綴られているので、2人の考えていること、言わんとすることがすっと私の中に入ってくるような気がする。そこに落ちてくるものは、やはり「重い」ものなのだろうが。
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