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吉本隆明1968
平凡社新書
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コメント・書評 |
ビッグブラザー(『1984年』)とリトルピープル(『1Q84』)を通底する認識が身につくかも…
T.コージ
Jun 12, 2009 10:04:09 AM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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●〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たち 糸井重里氏の「吉本隆明リナックス化計画」や渋谷陽一氏の「SIGHT」の連載、小飼弾氏の「私の Love to hate の対象」として吉本隆明を評価する新しい?スタンスなど現在進行形の吉本ingによる新たな吉本読者も少なくないはずで、その広がりと展開にプラスになるものが、もっと出てきていいのではないか…と個人的な期待と願望は大きい。小飼弾リスペクトの吉本リナックスというのは出来過ぎた話でもないし、むしろ吉本らしい展開のハズだ。もちろん思想的理論的にヤワな論者を突き放した『ハイ・イメージ論』『アフリカ的段階について』やレア?な『ひきこもれ』といった旧来の読者のオーダーをある意味で超えた位相の提示は、今こそもっと注目されるべきものだと思うが、本書はあっけなくそういった吉本理論の根幹にさえも言及している。一見世代論的あるいは私的随想にさえみえる本書は、その前提に吉本理論への根源的な理解があってこそ可能な一冊であることがわかる。 本書の帯「永遠の吉本主義者」というコピーで思い出すのは橋爪大三郎氏の『永遠の吉本隆明』だ。2人とも「永遠」とまでいってしまっているが…ファン丸出しで、カッコ悪くないか? まるで信者じゃないか!などというクールなフリのスタンスはここでは通用しない。鹿島茂氏は「吉本主義者」とまで自称してしまっている。でも、そこまで入れこめる?両名は幸せな人たちではないか。きっと〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たちなのだろう。しかし本書の凄さ恐ろしさはそんなレベルではない。前述したように吉本理論への徹底的な理解の上に著者が共感する倫理が提示され、それへの帰依が表明されているからだ。たぶん思想家としてパーフェクトであるということはこういうことなのだ。そして本来的な意味でのエッセイストというものもこうあるべきではないのだろうか。 ●〈ひきこもり〉な人たちまで 著者は「吉本隆明の偉さというのは」「1960年から1970年までの十年間に青春を送った世代でないと実感できない」という。著作であれば『吉本隆明全著作集』以前の論文集と詩集が「吉本世代の心の支え」らしい。 多感な青春の十年間に触れたものが〈実感〉を形成し、その後もリアルな原体験として残るのは誰もが経験する。しかもこの吉本-読者の場合は、書き手の吉本自身が大きな挫折=敗北を体験(確認)をした(ただし2度目)のが、おそらくこの十年間なのだ。著者はその体験の中で〈裏切らない吉本隆明〉の「倫理的な信頼感」こそに皆が惹かれたことを書いている。吉本への「共感」だ。 一方著者より若い世代が吉本に惹かれた理由は〈敗北(の受け止め方)〉の見事さであり、〈撤退の潔さ〉であり、〈運動とは身体を動かすこと〉というシンプルな認識であり、なにより言説のスルドサというスタイルだ。この認識の違いは、やがて月日が経つにつれて拡大し質的にも決定的な差異となっていく。現在もっとも若い吉本読者やファン?が感じているのは〈ひきこもり〉や〈孤独〉を積極的に肯定してくれる吉本への共感であり、それを理論化できる言説への信頼と期待なのだ。 問題は、敗北して、どこへ向かって撤退するのか、そこにはどんな生きていく理由があるのか?ということであり、あるいはどこにも向かわず何にもならずということについてでもある。〈内向の世代〉と呼ばれた文学のトレンドから村上春樹の登場まで、撤退先とその安寧を求めたさ迷いは、おそらくは途切れることはなくオタク的な段階までレイドバックしたのであり、そのトレンドのある典型的な形態として〈ひきこもり〉や〈島宇宙〉といった認識がある。そして吉本には脱社会的存在を承認する全面肯定の思想さえ見出すことができる。 ●〈純粋ごっこ〉な人たちをcomplete! 著者世代=団塊の世代と新人類やアラフォー以下の世代のギャップは大きく耐えがたいほど異質であることは歴然としている。だが、いかに質的な差異、世代をめぐる状況の違いがあっても、吉本を媒介にしたときにその連続性が意外に分かりやすいことに気がつく。二つ(以上)の世代とそのグラデーションの変化を追うとその差異と同定すべき点が明白になってくる。それは世代を超えた理解を根本的に提供してくれる。それは『ドイツ・イデオロギー』で示されるような普遍的な社会の認識方法がそのまま本書の視点になっているからだ。本書には吉本隆明による『カール・マルクス』の併読がお勧めだ。 原生的疎外に対する純粋疎外を大衆に対する知識人というアナロジーで説明した柄谷行人氏の批評は有名だが、それは本質ではない。吉本隆明への再帰と別離を独り楽しむエッセイストによる独白である本書は、そのために文学としての自己表出的な価値と思想的な水準という指示表出的な、つまりは公的(交換的)な価値をもった稀有な一冊となっている。必読なのはいうまでもないだろう。そして超えるべき本なのに違いない。 「吉本の偉さ」は自分たちの世代にしかわからない…というのが著者の主張(タテマエとしての?)だが、それは同時にレトリックに過ぎないだろう。 吉本は青春時代の友情を<純粋ごっこ>だという太宰治の言葉を援用する。その意味がわかったときに本書は読了となるのかもしれない。大衆が大衆から離脱する、その悲しみに耐えなければいけない…吉本隆明は結局別れについて語ってきたといえる。 戦争が生み出した極限の状況を描いた『火垂るの墓』の宣伝コピーで糸井は「4歳と14歳で生きようと思った。」と生きていこうとするけな気を美しく示して究極だが、吉本はさらに「一人で、生きよ」と主張し続けてきたのだ。そこには〈希望は戦争〉のような甘さはない。吉本は常にクールにマテリアルとテクノロジーが社会を決定し進展させて来たことを前提としているからだ。 情念によって作りだされた反動や意味づけは、 倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、 社会像の転換にはなにも寄与しない。 (『ハイ・イメージ論』収録「映像の終わりについて」から) 本書を読了できれば『1984年』の「ビッグブラザー」と『1Q84』の「リトルピープル」を通底するただ一つの認識方法であるだろう吉本理論(幻想論)への端緒にたどりついたことになるかもしれない。 |
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