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〈ポストモダン〉とは何だったのか  PHP新書
1983−2007

〈ポストモダン〉とは何だったのか(PHP研究所) 本上 まもる著
税込価格: ¥756 (本体 : ¥720)
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出版 : PHP研究所
サイズ : 18cm / 213p
ISBN : 978-4-569-69242-5
発行年月 : 2007.5
利用対象 : 一般

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内容説明

ニューアカデミズムと呼ばれたポストモダン思想は、成熟した日本社会の見取図を描ける唯一の思想として、古びていないのではないか? 日本におけるポストモダン思想の潮流を再検討する。

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コメント・書評

〝わかりやすさ〟を叱る、〝わかっていない〟かもしれない人
T.コージ
Jun 15, 2007 4:26:30 PM
評価 ( マーク )
★★★★★

 はじめからいきなり顔面にストレートをぶち込んでくれるのが本書。ニューアカ以後の軽薄短小ブームが幸か不幸かデフォルトになり、外国語が身近かになる一方で邦語本の売れ行きはタバコの自販機以下という状況下、「わかりやすさ」を唯一の基準にしたようなトレンドに思想書から専門書までが流される中、その「わかりやすさ」こそ「罠」であり「大衆操作」だと断じるところから本書ははじまる。
 本書は90年代に書かれた数々の〝わかりやすい〟処方を批判する一方で、「ニーチェ、フロイト、マルクス」を読むと決定的に世界が違って見えてくるという思想哲学の王道をいくキザな台詞を用意している。この3大思想家への期待はニューアカの聖典である『構造と力』(現在50刷のロングテールもの?!)でも結論として示されたセリフだ。しかしニューアカが誤解?されてしまったらしいコトは、誰もこの浅田彰の言葉を真っ当に受け取ってないことからもわかる。理性よりも時代の感性を信じるといった浅田は、まさしくそういう憂き目にあっている、ということだろう。3大思想家への期待という同じ結論を冒頭で示している本書も誤読と誤解に終わるのだろうか?

 本書を東浩紀の言説と比べ照応させる人は少なくないだろう。理由は二つ。通史的なアプローチでニューアカを正面から取り上げたものは意外なほど無いし、それに真正面からニューアカと闘争?した東浩紀そのものを取り上げて俯瞰しようとしたものも無いに等しいからだ。それに80年代から90年代までの、あるいは2〜3年前の情況データさえ把握されていないケースが少なくなく、データベース論がいきわたるのに比例してデータの喪失(年金問題だけじゃない!)あるいは情報検索能力のテッテー的な劣化が一般化しているのかと思うほどの情況下で、本書のタイトルにもなっている「1983−2007」を概観するのには便利でもある。

 柄谷シト、セカンドインパクト、セントラルドグマ…など編集者に恵まれたのかキャッチ!なタイトルや構成は認めるが、哲学を重んじるワリには取り上げたニューアカの系統樹は短く(ニューアカを準備した前段階が全く触れられていない)、その対象領域は小さなデーターベース(二次情報?)でしかない感がある。せっかく浅田の「スキゾ」「パラノ」の援用の仕方が『アンチ・オイディプス』と違うことを指摘し、原典では<精神病>と<神経症>が真の対立軸であることを示すなど説得力があるのに、世代間コンフリクトが巧みに隠蔽された件も(吉本に対する浅田の対応の仕方など)見逃しており、その分だけ本書を凡庸にしている。
 ひと言でいえば、ニューアカを超えようと孤独に奮闘したであろう東浩紀のように中村雄二郎や時枝言語学までも射程に入れている(ニューアカの前段階として把握している)深さはココには無い。本書は軽くはないが、浅いのだ。

 論理オンリーのヘーゲル的オメデタさ(つまりイデオロギーの呪縛)からの解放は中村雄二郎の『共通感覚論』や市川浩の「身体論」が突破口を用意し、それを引き受けた展開が日本のポスモダ=ニューアカだったハズだ。そして、教条的なロゴスの呪縛から時代の感性による判断にシフトしたのではなかったか? もともと京都学派のように欧米において評価された邦人哲学は〝非ロゴス的な認識〟という点で興味を引いていたワケだが。そもそもニーチェ、マルクス、ウィトゲンシュタインらは論理的な孝察の末に非インドヨーロッパ語系に全く別の哲学の可能性を見出していた。それは〝欧米思想の限界〟でもある。
 だが日本には最初から非イデオロギー的な認識論があったワケで、それはハイデガーやヘーゲルも言及している。その点での孝察が本書には皆無。それが本書の限界なのだろう。本書が始まりに過ぎないことを早く示してほしいと思うのは過剰な期待だろうか。
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