コメント・書評 |
「機械」はこの本で読むのが正しい
松井高志
Apr 1, 2004 4:34:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★
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横光利一(一八九八〜一九四七)の「機械」を読む場合、「機械」というタイトルの本を探さない方がいい。この岩波文庫版短編集を勧める。それは、併せて収められている他の作品との比較対照から、横光利一という人の初期の作風を多角的に知ることができるし、なにより巻末の川端康成の解説文が優れているからだ。この岩波文庫版は、一九八一年に初版が出されたが、ちょうどそのとき、私は横光利一で大学の国文科の卒業論文を書こうと考えていたところで、この川端康成の解説文は論文のテーマを絞るときにとても役立ったような記憶がある。 横光というと、新感覚派という文学運動を実践した人である、ということになっている。 ところが、この運動(というより流行=モードというべきかも知れない)は、なによりも書き手のセンス頼みのムーブメントだったので、この派に属した作家たちが先鋭的・実験的な手法で書くとき、皮肉にもというか当然にもというか、素朴な愛情や嫉妬心、妻が若くして病気で亡くなるといった、ごく素朴な素材にしかフィットしなかった。それは「文法的にも内容的にもタブーぎりぎりの実験小説」のたぐいを見慣れた現代の我々に、古いSFの中に出てくるつぎはぎの人造人間のように、一種異様な感銘を与える。 横光利一は最初の奥さん(友人の妹)を肺病ですぐに失ったが、その経緯を素材にした短編三部作「春は馬車に乗って」「蛾はどこにでもゐる」(ともに大正十五・一九二六年)「花園の思想」(昭和二・一九二七年)は、彼がこの厳しい個人的体験を、書くこと=作家としての技術と精力でどうやって乗り越えようとしたかを窺わせるという意味でも重要だし、そもそも文学に不可欠な切なさが横溢しているという意味でも名作である。そのうち「春は……」と「花園」の二編が収録されているのだから、横光利一を読むのであれば、まずこの岩波文庫版を手に取るべきである。 横光利一は自分が思うほど(そして文学史に位置づけられるほど)スタイリッシュでもなければ器用な人でもなく、むしろ案外頑固で融通のきかない、古くさいおやじそのものであったと思う。気質として時代の尖端を描くタイプではなかった。しかし、きわめて負けず嫌いで、集中力のある書き手であったのは事実だった。それは、以上の三部作に続いて書かれた「機械」(一九三○年)を見れば分かる。「機械」を書くことで横光利一の青年の一時期は決着した。誰にでもそういう時は来る。「機械」が人に感銘を与えるとすれば、そこに青春の秋(満三二歳)を迎えた横光の諦観が表れているからだろうと思う。 待てど暮らせどなかなか改行が来ない(「鳥」や「馬車」といったこの時期の諸短編にもこうした手法が取られていて、狭い人間関係や限定された空間での葛藤を、実験室の中で起こってでもいるかのように述べようという意図だろう)という「機械」という小説は、明らかに「こなれの良い普通の小説」が読者との間に結んでいる暗黙の契約(なれ合いというべきか)を無視しており、取りつく島のなさ、「ついて来られない読者は相手にしない」という作者の傲岸さをそこに直感して、あるいは一行も読まないという人もいるかも知れない。 早いもので私は次第に横光が亡くなった年に近づいてきた。「人様に読ませる原稿は正座して書け」というのは彼の有名な教え(彼が本気でこう言ったかどうかは分からない)だが、私は早死にしたくないので、だめなライターのままでもいいから寝ころんで気楽に原稿を書きたいと思っている。 |
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