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紫苑物語
講談社文芸文庫
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コメント・書評 |
解説からの引用「なぜかくまでに艶美、強靭、柔軟でありうるのか」「石川淳は秩序、制度、権力をなによりもきらう」——自らの念願を成就すべく、精神自由に生きる無道人たちを豪快に描いた短篇3作。
中村びわ(JPIC読書アドバイザー)
Jul 7, 2002 7:51:00 PM
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評価 ( ★マーク )
★★★★★
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「カタルシス度が高い」——これ、日本語として正しい表現かどうかは定かではない。が、『六道遊行』につづいて2冊めとして読んだ石川淳のこの短篇集に、私はこういう印象をより一層強めた。
読むことの高揚感のあと襲ってくる精神の浄化、それは読書の効能として多くの読者が期待するところであろう。しかしながら、最近の新しいエンターテインメントを振り返ってみると、確かに楽しませてもらってはいるものの、それが、込み入ったプロットやパラノイアっぽいキャラクターの設定に「へえ」「ほう」と感心させられ、読者である自分は、単にその力や謎解きに引き摺られているだけ、刹那の愉楽にだまされているだけではないかという疑問が湧いてくるのを禁じられない。 では、それ以上に何を求めるのか…というと、それは先ず「文章のうまさ」なんじゃないだろうか。練り上げられたり、なめされたり、磨きをかけられた言葉の有機的結合としての名文。言葉の戯れを小器用になして人の気を引くような雑文であれば、それは大いなる勘違いかもしれないが、私のようなトウシロウがランクアップしただけという気がしないでもない。 文章を書いてギャラをもらう人を「プロの物書き」と呼ぶのであれば、それはそれで構わないが、真にプロを名乗っていいのは、このような名調子の文を書ける作家なのだと言いたくなる。それは、過去の人間の遺産たる東西の古典を血肉とした人に備わって、身の内から湧きいづる「調子」である。器用であれば真似できるというものではない。メッキではなくて純金。石川淳の文章は、そういうものなのだと思う。 『声に出して読みたい日本語』というベストセラーを私はまだ見ていないのだが、石川淳の小説からは、目で追っていくだけで聞こえてくる。たくましい男性が、あだっぽい女が、朗々と謡うように人生を演じる声が…。
文体のほかにいまひとつ高揚感をもたらしてくれるもの。それを「気脈」と言えばいいのだろうか。 人づき合いにおいても経験することであるが、物を分かっていそうな人間から伝わってくる、ある種の確かなものの存在を私は信ずる。さして言葉を交わしたことのない間柄でも、ほんの短い交わりであっても、人と人が対峙したときに流れるもの、通ずるものがあって、そこに人間存在への限りない信頼と喜びを感ずる。小説にも、それが伝わってくるものと来ないものがあって、雷に打たれたように襲ってくる恋愛のように出会ってしまえる小説というのは数少ない。 石川淳作品との邂逅の感激を記すのに、すっかり冗漫になってしまった。
表題作『紫苑物語』は、勅撰集選者であったインテリ父の期待した歌の道にも外れ、淫蕩な妻の色道からも外れて、流謫とも言える遠い国の守に任ぜられた男の話である。彼は、その荒ぶる血を弓矢に注ぎ込み、生き物の命を奪いつづけて世界制覇をもくろむ。山の彼方にいる「ほとけ」のような男に、対極にありながらも自分との相似性を発見し、葛藤のなかにありながら破壊を目す。日本民話のような、この世のものならぬ化粧の女との交わりも味わい深い。 『八幡縁起』は、もの作りの神から源氏の系譜を書き起こしていった異色の歴史伝奇、『修羅』は下剋上の乱世の世を魔性の鬼として生きることにした姫の話。 すかっとカッコいい天衣無縫、無道の男女の疾駆する生に酔い痴れてみたいのならば…。
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