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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2011.6
- 出版社: 国書刊行会
- サイズ:20cm/477p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-336-04741-0
- 国内送料無料
紙の本
ダールグレン 1 (未来の文学)
著者 サミュエル・R.ディレイニー (著),大久保 譲 (訳)
都市ベローナに何が起きたのか—多くの人々が逃げ出し、廃墟となった世界を跋扈する異形の集団。二つの月。永遠に続く夜と霧。毎日ランダムに変化する新聞の日付。そこに現れた青年は...
ダールグレン 1 (未来の文学)
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商品説明
都市ベローナに何が起きたのか—多くの人々が逃げ出し、廃墟となった世界を跋扈する異形の集団。二つの月。永遠に続く夜と霧。毎日ランダムに変化する新聞の日付。そこに現れた青年は、自分の名前も街を訪れた目的も思い出せない。やがて“キッド”とよばれる彼は男女を問わず愛を交わし、詩を書きながら、迷宮都市をさまよいつづける…奔放なイマジネーションが織りなす架空の都市空間を舞台に、性と暴力の魅惑を鮮烈に謳い上げ、人種・ジェンダーのカテゴリーを侵犯していく強靱なフィクションの力。過剰にして凶暴な文体、緻密にして錯乱した構成、ジョイスに比すべき大胆な言語実験を駆使した、天才ディレイニーの代表作にしてアメリカSF最大の問題作。【「BOOK」データベースの商品解説】
多くの人々が逃げ出し、異形の集団が跋扈する迷宮都市ベローナ。そこに現れた青年は、自分の名前も街を訪れた目的も思い出せず…。架空の都市空間を舞台に、性と暴力の魅惑を鮮烈に謳い上げた問題作。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
サミュエル・R.ディレイニー
- 略歴
- 〈サミュエル・R.ディレイニー〉1942年ニューヨーク生まれ。ニューヨーク市立大学中退。62年「アプターの宝石」でデビュー。メタファーに満ちた神話的作品を多数発表、アメリカン・ニューウェーヴの旗手として活躍。
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紙の本
夜闇に光るドラゴンが蠢き、晴れることなき煙に覆われた迷宮都市ベローナを彷徨うキッドは、ノートに何を書くのか?
2015/02/05 14:12
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
暴動が起き、人々が逃げ出した都市ベローナにやってきた男は自分の名前さえ忘れていた。街は荒廃し、昼間でも煙に覆われている。理由は分からないが政府や他都市から隔絶されて救援の手は届かず、医療や日々の食事にも窮する在り様。残った人々はコミューンを作り、公園や空き家を占拠しては共同で生活している。彼はそこで恋人を見つけ、偶々見つけたノートに詩を書くようになる。ベローナ訪問中の詩人の推薦で、その詩集は印刷される。しかし、街を闊歩する無法な集団に接近してゆく彼になじめず、恋人は距離を置きはじめる。二巻にわたる長篇の一巻目をダイジェストするとすればこんなふうになる。
ヒッピー・コミューンや、ヘルズ・エンジェルズを思わせる革のベストや鎖といった懐かしい70年代風ファッションが登場し、レトロな印象だが、当時はリアルだったのだろう。当然、ただの70年代ではない。主人公が身につけるプリズム、鏡、レンズを連ねた「鎖」、「蘭」と呼ばれる剃刀状の刃を並べ手首に装着する「武器」等に加え、SF的ギミックも用意される。スコーピオンズのメンバーはホログラム投光装置の映像を身に纏う。上はドラゴンから下はカタツムリに至る多彩な顔触れはグループ内のヒエラルキーを物語ってユーモラスである。
人物造形の巧みさもこの作者ならでは。ベローナという都市の水先案内人役を務めるタック・ルーファーは主人公に「キッド」という名前を与える名付け親でもある。ノーベル賞候補に三度名が挙がった詩人ニューボーイは、キッドに詩や芸術について教えを垂れるマスター役。弁舌爽やかに語る芸術論はディレイニー自身の考える詩や芸術を語ったものと考えていいだろう。恋人のレイニャとの会話も含め、傍役の人物にいたるまで人物間相互の会話は思弁的といえる代物で、ジェンダーや人種、社会、芸術論とあらゆる問題を俎上に載せていく。
作中人物によってSF的と呼ばれるベローナという都市そのものが最大の謎であり、主題である。夜闇と灰色の煙で昼夜を分かたず視界を奪われた都市は、文字通りの迷路なのだが、それだけではない。日によって太陽が昇る方角や建物の位置関係が変化したり、めずらしく煙の切れ目に見えた夜空には満月と三日月の二つの月が上っているという、非ユークリッド的な空間として設定されている。時間はといえば、コーキンズが発行する新聞の日付はランダムで、曜日もでたらめ、キッドにいたっては、自分は一日と感じていた不在が他の人間には五日間にあたるなど、理解を超える展開になっている。
重要なモチーフとして主人公が持ち歩くノートがある。見開きの片側だけに手記のような文章が書かれたものだ。空いている側のページに主人公の詩が書き綴られるのだが、それを読んだニューボーイがどちらもキッドの手になるものと解するほど両ページには相関関係がある。キッドによって書き続けられるテクストと、この小説テクストとがメタ・テクストの関係にあることは予想がつく。
アメリカではベスト・セラーとなりながら、性に関する露骨な描写も災いしてか問題作ともされるなど、賛否両論を捲き起こした大作だが、ディレイニーの文章には品位があり、性描写も偏見さえなければ質量共に何の問題もない。ましてや、その文学的才能は定評のあるところ。SFという枠に収まらないリアリズム小説として読んでも何ら遜色ない面白さ。八百ページをこえる長さだが、実際に読み出したらとまらない。早く二巻目が読みたいところを我慢してレビューを書いている。この闇に閉ざされた謎めいた都市小説に晴れ間が訪れることを期待しつつ、二巻目のページを捲りたい。
紙の本
20世紀に溢れ出したもう一つの世界
2011/10/04 01:00
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
その舞台(アメリカ中部の架空の都市ベローナ)も時代(1970年代)も、人物も、生き生きと描かれているのに、一体全体何が書いてあるのか分からない。それは作者にとってあまりにも真実が書かれ過ぎているからだと僕は断言しよう。様々なメタフィクション的手法、言語実験的手法が散りばめられているが、その語り手の姿は迷宮の奥にどこまでも遠ざかる。それは作者自身が物語と切り離されようとしているからだと。
自伝的作品と評されているし、多少の作者の経歴を知っていれば、いくらかなりともそれに重ねて見ることが出来る。でもそれだけじゃなく、これだけの質感のある描写をしながら、根こそぎ宙に放り投げるような拒否感は、慚愧と悲しみに満ちているせいだと僕には分かる。そうでなければこのような構成を生むメンタリティーは生じないとチェスタトン的逆説が説明し、そこに詩人の心の空虚さがあるとボルヘス的美意識が叫ぶ。
発表された1975年から見た近未来小説なので、今、2011年からすると十分に過去である。しかしそれは、今なお正体の見極められない混沌が世界を覆った神話的過去だ。主人公が彷徨するその街は、ヒッピー的ユートピア社会が生まれて崩壊し、月へ行った宇宙飛行士の語る背景の空に二つの月が昇るという、存在したアメリカの可能性であり、決して存在しなかった空想のアメリカでもある。ディレイニー自身の放浪の経験がたぶんそこに押し込められ、そして同時に隠されている。
黒人で、同性愛者で、放浪者で、ヒッピー・コミュニティに属し、ミュージシャンで、文学を志していたディレイニー。そのすべてを書くために。自分の名前を思い出せない主人公と、秩序を失った都市。現実と、非現実的な事象が混交し、時間の流れさえ一定でないように見える。それは主人公の主観の揺らぎ、精神の歪みに過ぎないのか、何者かが造り出したのかも不明だ。樹木になった女。ホログラムの映像で身を包んだアウトロー達。家庭という幻想を固持し続ける人々。様々な形態の性行為、その描写。主人公が何者だったのかを示唆するいくつかの傍証や人物。
時間のずれも、暴力もセックスも名声も、一人の人間の真実の経験である、あるいは少なくとも伝えたい、表現したいことであったのに違いない。崩壊した社会を描くためのSF的ガジェットをふんだんに盛り込みながら、それを同時代の一つ場所に押し込められるとちぐはぐだし、それらは混乱した構成と相まって、何かを訴えようとしている。たぶん解釈は様々ある。そして登場人物達は自分なりに筋道を通した行動をしようとしているのだが、しかし読者はほとんど彼らに共感は出来ないだろう。そういうエッジな部分にいる人々だけが、このベローナに住むからだ。それでも彼らから目を反らすことが出来ないのは、例えば20世紀アメリカ文明にとってそれまで辺境であった領域が、その存在を主張されるようになったことが否応無しに想起されるからだ。その世界はまだ見知らぬもう一つの地球だったわけだが、ディレイニーは自身の内側にそれを発見し、痛みとともに一躍地表に溢れ出した時代を謳わずにいられなかったのではないだろうか。