紙の本
生まれる前の人間を好き勝手に操るのは「正しい事」なのか?
2016/01/30 03:23
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ホンの無視 - この投稿者のレビュー一覧を見る
サンデルは本書で「贈られものとしての生」という考え方が失われる事はすなわち「命の軽視」へと繋がりかねないと警鐘を鳴らしており、
「これからの「正義」の話をしよう」とは違い、サンデル自身の明確な主張が述べられている様で興味深い。
ちなみに、邦題が「完全な人間を目指さなくてもよい理由」とあるが、
本書が問題としているのは自発的に「完全な人間」を目指している人間ではなく、
「完全な人間を作り出そうとする人間」であり、エンハンスメントを行う事で「不正な存在となりうる人間」である点に注意が必要である。
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NHKのハーバード白熱教室ですっかり有名になった『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が生命倫理について論じたものである。
本書のメインテーマは遺伝子操作によって自分自身もしくは産まれくる子供の能力改善を行うことについての倫理的判断である。この倫理判断は、バイオテクノロジーの進歩によって、現実的になりつつある問題として捉えられている。
この倫理的問題を議論するために、第2章ではスポーツ選手のエンハンスメント一般の道徳的判断について検討を加えている。治療やトレーニングとドーピングの境界は実のところ曖昧である。彼らの責任において行うエンハンスメントの道徳的にはどう評価されるべきなのか。この辺りの議論は興味深い。
本書に出てきていない具体的な例もいくつか挙げることができる。例えば、元巨人の桑田も受けたジョーブ博士のトミー・ジョン手術はどうなのか。トミー・ジョンの後球速が上がったピッチャーも多い。また、バルサのメッシの成長ホルモン異常治療はどうなのだろう。
こういった頭の準備をした上で、結論として遺伝子操作により子供の能力設計に介入ことに対して著者が強固に反対する根拠として提示するものは意外なものである。遺伝子操作の可能性が「生の被贈与性」を壊してしまうことが本質的に問題であるとしている。これまで成立していた「生の被贈与性」の概念が損なわれてしまうことにより、これまでの社会連帯の喪失や、無制限な責任の増殖が懸念されるという。
「人々が自らの才能や幸運の偶然性に思いを致すところから生まれる現実の連帯も蝕まれていくだろう」
「遺伝子操作を許容することは、親に対して適切な性質を選択することにについて責任を負うことになる。」(p.92)
この結論に対して想定される批判についても言及している。著者の主張は相応に妥当性を持つものと思われるが、その軽重については実際に読んでみて考えることを楽しんで欲しいところである。
また一方、著者は幹細胞研究は治療を目的として進められるべきだとしている。胚が生命であり、その研究が生命を殺めることになるという倫理上の批判は、採用されるべきではないとしている。そこで得られた技術の利用を社会的に律する倫理と道徳が必要となるということなのだろう。
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個人的な意見としては、突然変異と自然淘汰という生物進化の基本ルールへの介入に対してより慎重になるべきだという観点で遺伝子操作の濫用には反対したい。この基本ルールは微妙なバランスの上に成立しているのではないかと思われ、ヒト遺伝子操作の意味するところは何であるのかを見極める必要があるのではと考えている。
いずれにせよバイオテクノロジーの進化は、生命倫理にせよ、技術にせよ、法制度にせよ、オープンな議論が必要な分野である。そのことを考えるのに一つの道標にはなる本だと思う。
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もちろん、例の白熱教室を読んで、次にこの本を買いました。テーマに関心があったのと、正義の本が思ったより面白かったので。
まだ、途中なんだけど、最後はどうするつもりなんだろうか。
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3ヶ月ほど前に読んだ本は、何人かリクエスト待ちの人がいて、その最後にまた予約を入れておいたのが、届いたので、また読んでみる。フシギな訳語は、やはり同じところで、ちょっと引っかかる(giftが「贈られもの」って…)。そして、こないだ読んだときよりも、ツッコミを入れてる自分を感じる。
著者は、いろんな例をあげながら、われわれはこうすべきか?あるいは別のようにすべきか?と問いかける。例えばこのように。
▼われわれはバイオテクノロジーの叡智を疾病の治療や怪我人の健康回復に注ぎ込むべきなのか、それとも、われわれは、自らの心身を設計し直すことで、自らの運命の改善をも追い求めるべきなのだろうか。(p.19)
病気を「治療」することと、記憶力強化やパフォーマンス向上、身長アップといった「増強(エンハンスメント)」の間には区別がある、と著者は主張する。「確かに医療は自然に対する介入であるものの、それは人間の通常の機能の回復という目標によって制約されているので」(p.106)とか、「治療の必要性は、世界は完全でもなければ完成されてもおらず、人間による絶え間ない介入や修復が欠かせないという事実に端を発している」(p.106)というのだ。
でも、私は「人間の通常の機能」って何やろう?と、ちょっとここで引っかかる。その物言いに、どこか、これを目指すというような、これが見本だというような、「通常の機能をもった人間」イメージを感じる。それって、どんなのか?
著者は、エエことを言うてるような気もする。例えばこんなところ。
▼競争社会で成功を収めるために子どもや自分自身を生物工学によって操作することもまた一種の自由の行使ではないか、と考えたくなるのも無理はない。だが、われわれ人間の本性に合わせて世界を変更するのではなく、逆に世界に合わせるために人間の本性を変更することは、実際にはもっとも深刻な形態の人間の無力化[ディスエンパワーメント]をもたらす。…(略)…われわれがなすべきことは、…(略)…不完全な存在者としての人間の限界に対してよりいっそう包容力のある社会体制・政治体制を創り出せるよう、最大限努力することなのである。(p.102)
ここでも、「人間の本性」って何やろう?と思う。「不完全な存在者である」ということか? そうだとして、その"不完全"ていうのは、何が"完全"で、それに「不」がついてるんやろう?
著者の議論は、するすると説得されそうで、でも、ハテ?と思う。
また3ヶ月くらいしたら読んでみるかな~。
(3/21一読、6/19再読)
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横浜の事務所は計画停電の範囲で、先週は6時間の停電になった日もあり、合間を縫って連絡をとりあい、お互い「休み」返上で次号『We』の入稿準備をずっとやっていて、かなりへなへなの週明け。気づいたら返却期限が明日になっていた本を、(もう一度借りるか~)とぴらぴら見てたら、これが面白く、眠気におそわれつつ読んでしまう。(『We』171号は今日ぶじ入稿)
同居人が買ってる『日経サイエンス』の書評で紹介されていて知った本で、著者は正義がなんとかっていうテレビ番組(?)でユウメイな人らしい(私は見たことがないけど、鴻巣友季子さんが講義をきいたという人だ)。そっちの本は図書館で200人くらい予約がついている。でも、こっちの本の予約は数人だった。
聾のビアンカップルが、子どもがほしい、できれば自分たちと同じような「聾の子ども」がほしいと、5世代にわたって聾ファミリーだという精子提供者をさがしだして妊娠、うまれた子はカップルの望みどおり聾だった。
本は、このエピソードを冒頭におき、その次にこんなエピソードを出してくる。
ある不妊カップルが卵子提供者を求めるにあたり、背が高くて、運動ができて、家族に大きな病歴がなく、SAT(日本の共通一次みたいなもの)のスコアが1400点以上という条件をみたすなら、5万ドルを支払うと提示した。
「こんな子どもがほしい」という点では、この両エピソードのカップルに大きな違いはないと思う。だが、世間様の非難は聾のビアンカップルに数多く寄せられ、その一方で不妊カップルは大きな反感を買うことはなかったという。その非難のよってきたるところは何か? 非難は妥当なのか? いったい何が「問題」なのか? 「問題」だというならば「思いどおりの子どもを手にしよう」というところが、問題なのかもなと思う。
このあと著者は、さまざまな例をあげながら、「エンハンスメントの倫理」について問いかける。遺伝子改変を含むバイオテクノロジーを手にした人間にとって、その利用は、人間の生をよりよくするものなのか? あるいは人間性をそこなうものなのか? 人間のもつある性質を強化すること(エンハンスメント)は、どこまでなら認められて、どこからはまずいのか? 病気の修復に利用するのはOKか? それならより速く走れるために利用することは? スバラシイ子どもを迎えるために利用することは?
人間性について考えていくうえで、著者は「生の被贈与性(giftedness of life)」を語る。
▼生の被贈与性(giftedness of life)を承認するということは、われわれが自らの才能や能力の発達・行使のためにどれだけ労力を払ったとしても、それらは完全にはわれわれ自身のおこないに由来してもいなければ、完全にわれわれ自身のものですらないということを承認することである。(p.30)
この訳本では、giftに「贈られもの」という、こなれない言葉があてられている。前後を読むかぎりでは、これは「授かりもの」と言ってもいいと思うが、ともかく、子どもはgiftなのだと著者はいう。子どもは授かりものだという意味は、「子どもをそのあるがままに受けとめるということであり、われわれによる設計の対象、意志の産物、野心のための道具として受け入れることではない」(p.49)ということだ。
giftである子どもを育てる機会は、謙虚さを学ぶ格好の機会である。親は、どれほど子どものことを気遣おうとも、「望みどおりの性質」を備えた子どもを選ぶことはできない。親は「招かれざるものへの寛大さ」を教えられる。そうしたgiftの感覚をうしなったところに、優生学の不穏な足音が忍び寄ってくると著者はいう。「われわれの才能や努力は完全に自分自身のおこないに由来しているという信念」(p.90)���、謙虚さや人との連帯をそこなうという。
「連帯と被贈与性の結びつき」について、著者はこう述べる。
▼われわれが自らの境遇の偶然的な性質に自覚的であればあるほど、われわれには他人と運命を共有すべき理由が認められるのである。…(中略)…相互扶助の責務を負っているという実感を伴わずとも、人々はリスクや資源を負担し合い、お互いに運命を共有し合っているのである。(p.94)
▼われわれの天賦の才は偶然なのだという強固な念──誰一人として自分自身の成功に対する完全な責任を有している者はいないのだという意識──こそが、成功は有徳さの証であり、裕福な人々は貧困な人々よりもいっそう富の享受に値するがゆえに裕福であるのだという独善に似た思い上がりが、能力主義社会の中に醸し出されてくるのを防いでいるのである。(p.96)
訳語について、ちょっとよくわからんなあと思うところがあったので、図書館で原著が見られそうなら見てみたいけど、手に入るかどうか。訳者の言葉遣いは、不思議なところがある。たとえば「目配せが行き届いている」(p.170)は、目配せではなくて「目配り」でしょう。そういうヘンなところも多少あるけど、予約待ちの人にまわったあと、またしばらくしたら借りて再読したいと思う。
(3/21一読)
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8月に買ったのに、やたら時間がかかってしまった…。
確かに便乗出版だと思われたらかわいそうな本ですね。
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単行本ではあるが、新書くらいの文量で読みやすい。
生命倫理の基本的事項から、遺伝子操作の倫理的問題について触れている。読み易くはあったが、いかんせん悪しき人文学系に偏った人間であるため、生物学的トピックに関して頭に入らなかった部分もあるが、その辺りの知識不足と理解の必要性を実感できたことは良しとする。
「Justice」程ではないが、ここでもあまりはっきりとした立場をサンデルは示していないように感じた。議論の概括と整理に終始している、と。その分、この問題の根深さは身に染みた。是非再読をしたい。
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新刊情報で、題名(わかりやすい)に興味をもって読んだら、ハーバード白熱教室(見たことない)で話題のサンデル教授の本でした。
遺伝子操作、特に治療を超えたenhancement(強化)目的での遺伝子操作には抵抗を感じるが(それで共感できそうだと見込んで読もうと思ったわけだが)、なぜそう思うかについても、著者の意見に共感した。
しかし、アメリカでは、ヒトに対する遺伝子工学だけでなく、他の様々なやり方(例えば、臓器移植とか整形手術とか薬物摂取とか出産方法の選択肢とか)や対象(農産物の遺伝子組み換えとか)について、日本に比べて既に社会的に認知されている(当然反対意見の人も大勢いるが)のに対し、日本では、(著者がほぼ無条件で認める)治療目的でのそれらのテクノロジーの利用や、人間以外への適
用についてもまだまだ抵抗が強いので、議論している場所が違う、という気もした。私自身も、そうなのだ。だから、バイテクによる強化に対する意見の部分だけ見ると同意見でも、どこからが行きすぎかの境界は相当違うので、じつは全然違う立場であるともいえるんだな。所与の条件を受け入れることで成り立つ社会や人生の豊かがあったほうがいいんでは、という理由は同じだが、どのへんまで
受け入れるべきで、どのへんから改変すべきかの意識が違うというか。
それは、どのへんまで遺伝子操作を許容してよいか、さらには、どこまでが治療でどこからが強化か、の線引きの難しさにもつながり、著者の立論への反論になりうるだろう。
一番衝撃的なのは、メジャーリーグ選手がパフォーマンスあげるために試合前に興奮剤を一発キメて、クスリやらない野手がいると、ベストを尽くしてないと怒る投手がいるという話で、遺伝子操作とは関係ないところだったりしてw 日本のプロ野球はまさかそんなことありませんよね?
そういう彼我の違いが、本質的なもので今後も続くのか、よくあるようにアメリカが先行ってて、10年後は日本も同じようになってるのか、わからないが。
訳はまあ読みやすいが、「贈られもの」のような不自然な語の選択(能動/受動を強く意識しない日本語なら「贈りもの」で同じ意味になるのに)など、訳者がこの分野の研究者(1人は医療倫理、1人はまさにenhancementの)で思い入れが強くて凝りすぎな感じが若干漂っている。訳題とかにもそれはいえるような。
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「ハーバード白熱教室」と「これからの「正義」の話をしよう」で一躍有名になったサンデル教授が執筆した生命倫理の本です。
医学やバイオテクノロジーの発展は目覚ましく、病気の治療や障害の克服に大きな成果を上げています。日本ではあまり話題になることがありませんが、同じ技術を利用することでヒトがヒトをデザインできるようになりつつあります。具体的には、より好ましい性質(外見、学力、身体能力など)をもつように、生れてくる子供の遺伝子を選別することも可能です。いわば技術による人類強化です。
市場原理や自由を重視する米国ではこういうニーズに答える仕組みもできつつあり、その先進性にまず驚かされました。一方で、キリスト教の教義に基づく保守的な思想から反対する声もあり、大きな議論となっています。日本ではここまで両極端な立場で議論が行われることはないかもしれませんが、医療現場で起きる生命倫理の問題がニュースになることは珍しくありません。
生命倫理の問題に「神の領域」を持ち込むと宗教的な背景を共有しない人達との議論はかみ合わないかもしれませんが、「与えられたものとしての生の尊厳」という表現であれば多くの人と共有できるのではないでしょうか。サンデル教授はそれを「生の被贈与性」と呼び、対立する価値感の間に合意点を見出そうとしています。政治や経済に絡んだ議論ではサンデル教授を批判する人達であっても、「生の被贈与性」という概念には比較的合意できるのではないでしょうか。
この本の訳者は巻末の解説の中で次のように述べてます。
「確かに本書の議論は、バイオテクノロジーのどのような利用であればよくて、どのような利用であれば悪いのかという問いに答えを与えてくれるわけではない。しかし、むしろそれは、われわれがエンハンスメントの問題や生命倫理の問題一般に立ち向かうさいの姿勢や眼差しのあり方を問い質しているのであり、そこにこそ、今日われわれがこの本を読む理由があるのだ」
人間とは何かを改めて考えさせられます。
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翻訳の文体が苦手なのと内容が難しけなのとでなかなか頭に入ってこなかった……
読んでてよぎった言葉は「中庸」だったような気がする。それじゃ議論の決着はつかないのかもしれないけど。
最終章の「胚は人格か」みたいなところがまとめなので一番わかりやすかったかも。
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遺伝子操作による人類のエンハンスメントをどう考えるか。
治療は良くて、強化は駄目なのか、トレーニングは良くて、強化は駄目なのか?
もしそう思うのであればその要因はどこから来るのか?
平等性?安全性?倫理性?・・・・・・優生学との違いは?
答えの出ない問いに対して、その問いを放り投げずしつこく食いついていく。
その結論のキーワードは「支配への衝動」人間がどこまでコントロール、支配するのか?
その意思自体に対しての問題はないのか。
本書中で引用されている、神学者ウィリアム・F・メイの「子供の親であることは招かざるものへの寛大さを身につけること」というくだりがひとことで著者の考えを言い表している。
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エンハンスメントの倫理についての本。エンハンスメントとは,健常者が,治療目的でなしに医療行為や機械による支援を受けることによって身体的・精神的な能力を高めること。遺伝子操作や人体に器械を埋め込むような技術は,治療や介助が目的で開発されてきたが,これが健常者にも適用でき,効果をもたらすために倫理的な問題が出てくる。受精卵に対して遺伝子操作を行ない,エンハンスされた子供を得るデザイナーチャイルドについても考える。
能力を向上するための教育や訓練は推奨されるのに,なぜ人は遺伝子操作やサイボーグ技術によるエンハンスメントには抵抗を感じるのだろうか?使われる技術が新しいからだろうか?人は新しいものにおびえ,反発する。歴史的に,何か新しいものが急速に普及してくると,それは必ずバッシングを受けてきた。メディアでいえば,小説,ラジオ,テレビ,インターネットはどれもこのような抵抗をくぐりぬけている。しかし新しいものも次第に受け入れられる。時間が解決してくれる。そうすると遺伝子増強やサイボーグも,将来的には当然とされる世の中が来るのだろうか?そういう問題を考えていく。
遺伝子操作によるエンハンスメントは,悪名高い優生思想にもつながる。これにも一章が割かれている。優生思想は能力の高い人間は子孫を残すべきで,低い人間は残すべきでないとし,その積み重ねによって人類の能力を高めていこうという考え方だ。ダーウィンのいとこゴードンが創始した。ナチスによるホロコーストをもたらしたため,悪いイメージがつきまとうが,優生思想は20世紀初頭の欧米エリートの間では支配的な考え方だった。アメリカでも実際に強制断種などが行なわれたという。
素朴な感覚からは,遺伝子操作やサイボーグ技術によるエンハンスメントにはかなり抵抗がある。本のタイトルから推測できるように,サンデル自身もエンハンスメントに否定的だ。彼は「贈られものとしての生」を尊重すべし,という指針を提供している。多少宗教臭いが,予想される批判にもきちんと回答している。エンハンスメントは,確かに能力向上のための選択肢を増やす。しかしそれはいいことばかりでもない。選択には責任が伴い,選択しなかったことにも責任が伴う。エンハンスメントが可能だったのにしなかった,そのために凡庸な能力にとどまった。それは自己責任だということになると,社会を支える連帯が失われていく。連帯は人間という存在の本来的な脆弱性,予測不可能性に由来しているからだ。
とはいえエンハンスメントもデザイナーチャイルドも,倫理的に問題のない行為との間に明確な線を引きにくいのは事実だ。ミュージカル歌手はマイクを使うのにオペラでは御法度とされるのはなぜだろう。ランナーの靴やスイマーの水着はどこまで手を加えると不当なエンハンスメントになるのか。好ましい相手を見つけて結婚し,子供をつくるという通常の行為も,ある程度子供を設計していることにならないか。などなど。
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「ハーバード白熱教室」で有名になったマイケル・サンデルの生命倫理に関する著作。
遺伝子操作については、極めて深遠な議論がつきまとう。
・親は子供の一生にどこまで責任を負うべきなのか。
・遺伝的な優位性を遺伝子操作によって行うことは許されないのならば、公平性の基準をどこに求めれば良いのか。生まれつき身体能力の優れている子供とそうでない子供は、不公平なのか?
こういった議論を積み重ねていくと、遺伝子操作の問題には「公平」「自由」「責任」といった社会の基本的価値観が複雑に絡み合っていることに否応なしに気づかされる。
遺伝子操作について否定的な論者は、こう言うだろう。
「遺伝子操作は人間の行為主体性を損なう」
つまり、人は努力するからこそ尊いのであり、遺伝子操作で高い能力を身に付けたからとて、それに何の価値があるのだ・・と。
確かに、それはもっともな話だ。いくら遺伝子操作をして人間の足を速くしたところで、馬に勝てるはずもない。純粋な「速さ」を追求するために遺伝子操作を行うのは馬鹿げた行為だ。つまるところ、「速く走りたい」「頭を良くしたい」という意図は、社会的な地位・名声・金銭等を獲得するための手段としてされるのであり、それらの我欲的な側面が否定されるのだ。
(ただし、肉体的欠損もしくは病気治療のための遺伝子治療と、上記の例とは明白に一線を画する)
しかし、サンデルはこういった論調に素直に同調しない。
サンデルは遺伝子治療に否定的であるが、その理由は、「遺伝子治療が、努力が無駄にされるといった、人間の行為主体性を損なう」からではない。
むしろ、サンデルは逆の立場から遺伝子治療に反対する。
なぜなら、遺伝子治療は、人間を含めた自然を創りなおし、われわれの用途に役に立つよう改造するといった欲望を駆り立てるからだ。
それをサンデルは「支配への衝動」と呼んでいる。つまりは、箱庭を創ってしまう感覚なのだろう。
そして、サンデルは言う。そこには、「生の被贈与性が失われている」と。人は人ならぬものによりこの世に偶然に生を受けている、先天的な能力もまた同じだ。これが「被贈与性」である。
この被贈与性が損なわれるとはいかなることか。本文をそのまま引用すると、
「(遺伝子治療などに代表されるエンハンスメントによって引き起こされる)
より大きな危機にさらされているのは、以下の二種類の事柄である。
ひとつは、重要な社会実践の中に体現されている、人間らしい善の命運にかんする事柄である―そこで危機に曝されているのは、子育ての場面であれば、無条件の愛や真似兼ねざるものへの寛大さといった規範であり、スポーツや芸術の場面では、生来の才能や天賦の才に対する祝福であり、さらには特権にさいしての謙虚さ、幸運から収穫された果実を諸々の社会連帯の制度を通じて分け合おうとする意志などである。
もうひとつは、われわれが住まう世界へと向けられたわれわれの態度や、われわ��が渇望する自由の種類にかんする事柄である。
競争社会で成功を収めるために子どもや自分自身を生物工学によって操作することも自由の行使ではないか、と考えたくなるのも無理はない。 (中略) われわれがなすべきことは、新たに獲得された遺伝学の力を用いて『曲がった人間性の材木』をまっすぐにすることではなく、贈られたものや不完全な存在者としての人間の限界に対してよりいっそう包容力のある社会体制・政治体制を創りだせるよう、最大限に努力することなのである」
(p101-102)
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帯文:"サンデル教授の生命倫理学"
目次:第1章 エンハンスメントの倫理、第2章 サイボーグ選手、第3章 設計される子ども,設計する親、第4章 新旧の優生学、第5章 支配と贈与、エピローグ 胚の倫理―幹細胞論争―
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精子バンクで好みの容姿の人、優秀な人の精子をgetするコト。(高額な報酬あり
聾の同性夫婦が、正常な聴覚の子供ではなく、聾の子供が欲しいと聾の男性からの精子を受けるコト。
物心つく前から、ピンポイントなプログラムで習い事、教育するコト。
薬物で記憶力や集中力を上げ、受験に向かうコト、いい成績を取るコト。
アスリートが薬物で身体能力を著しく向上させるコト。
整形するコト。
何が良くて何が悪いのか?
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胚に人格があるか、という点が論点になりうるのは、天地創造を信じている人がそこそこいるアメリカならではかという気がする。
一見説得力がある(著者とは反対の立場の)意見を、アナロジーと、その理屈を突き詰めていったときに起こる不合理さ、とで論破する技にはいつも感服する。