紙の本
友達が夜中に死体を持ってきたらどうしましょう。
2006/04/20 11:23
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「大学に入学して一週間、友達ができない。どうしたらできるか教えて欲しい」と学生が相談に来て、「たった一週間でできる友情などあるのだろうか」と著者が驚くという話から始まる、著者が一年間に渡り雑誌に連載した友情に関する話である。「幼なじみ」、「男女間の友情」、「茶飲み友達」などなど、これまでさまざまに語られてきた話題であるが、心理学者である著者の語り口はこれまでの他の著作と同様、わかりやすく楽しく読ませ、やさしく考えさせてくれる。
冒頭の大学生の話の続きには次のような一つの「友達とは」の回答が引用されている。曰く、「夜中の12時に自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人」。
私自身の「友人」の定義はなんだろうか。この本を読みあらためて考えてみると、若い頃とは随分変わってきたように感じられる。この本も、そういった「大人の友情」を対象にしている。夫婦の愛情も年をとれば友情の要素が増えてくるものかもしれない。共感しあって強く繋がっている、と熱くなるような相手よりも、違っていても存在を認めて少し向こうに立っているような関係が大人になると欲しくなってくるようにも思う。著者の書くとおり、「ぎすぎすした人間関係に潤いを与えてくれる」ものとして「大人の友情」は重要なのだろう。
どんな人を友達と考えるのかは人により随分違う。そこから、友人同士の間にもすれ違いや思い違いのドラマがおこるはずである。自分自身におこったあれやこれやを、読む途中で思い出したりして立ち止まり、立ち止まりしてしまう本であった。
著者は「あとがき」に「書いていても楽しかった」と書いている。書き手が楽しい本は、読むほうも楽しい。手軽に読んでいけるのだが、その中に「おもいあたる」重いこと、苦いこと、辛いことが入っている。若い頃の友情を思い出し、現在の人間関係を思い浮かべ、文章を咀嚼しながらいろいろなものを味わえる本である。
さて、もし「友達が夜中に死体を持ってきた」らどうしましょう?
紙の本
友と友を結ぶ存在としての「たましい」
2005/11/11 21:20
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まざあぐうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ほんとうの友人とは?」という問いに対して、著者は「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」というユング派の分析家アドルフ・グッゲンビュールの言葉を引用している。
冒頭から「友情」を語ることが一筋縄でいかないことを暗示しつつ、「友だちが欲しい」・「友情を支えるもの」・「男女間に友情は成立するか」・「友人の出世を喜べるか」・「友人の死」・「「つきあい」は難しい」・「碁がたき・ポンユー」・「裏切」・「友情と同性愛」・「茶呑み友だち」・「友情と贈りもの」・「境界を超える友情」の12のテーマに基づいて展開される本格的な友情論。軽快な語り口にぐいぐい引き込まれ、友情の何たるかの奥深さを知らされる。
友情を支えているものは何か?
なぜ、人は裏切るのか?
男女間に友情は成り立つのか?など、取り立てて考えたことが無かっただけに興味深く読み進んだ。各テーマごとに著者が読者へ与えるより良い友情を築くためのサジェスチョンが心にやさしく響く。
同著の魅力として、カウンセラーとしての豊富な臨床例もさることながら、友情という観点から上記の12のテーマに添って文学作品が読み直されている点があげられるのではないだろうか。引用されている作品は、漱石や太宰、武者小路実篤、シェイクスピアに至るまで幅広い。「友情を支えるもの」で引用されている白州正子著『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮社)、「境界を超える友情」で引用されている(谷川俊太郎・文)『おばあちゃん』(ぱるん舎)など非常に興味深く、読んでみたいと思った。
文化庁長官にして臨床心理学の第一人者である河合隼雄氏が、豊富な臨床例と文学作品と自らの人生経験を交えてときほぐす本格的な友情論。
「あの人がいる」と想うだけで、ほっとできるような関係(103ページ)、常に裏切りの可能性を持つ関係も認めた上で、「やっぱりええやつやな」と感じるのが深い友情ではないだろうか。(133ページ)という著者のざっくばらんな友情の定義に共感を覚えた。
人生80年と寿命が延びた昨今、著者の説く「茶呑み友だち」(159ページ)の存在が魅力的に思える。そして、最後に著者が述べている「友と友を結ぶ存在としての「たましい」などということに、少しでも想いを致すことによって、現代人の生活はもっと豊かで、幸福なものとなるのではなかろうか。」というアドヴァイスが心に響いた。
紙の本
友情の定義とは
2007/05/31 19:15
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:イム十一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者自身が考える「友情」について、自身の経験や様々な本を引用しながら12のテーマに分けて語っている本です。
文章も平易で、大変読解しやすくなっています。特に前半部分は友人関係等で悩む十代後半〜二十代前半の方々には是非一読してもらえば、と感じました。
私自身に照らし合わせてみても、今までの人間関係や他人との接し方において、反省・変更すべき点を多く見つけることができました。
人間が抱く友情・愛情・心情には様々なかたちがあり、そしてそれは日々変化していきます。私達はその中でいかにして接していくべきか、自分自身はどうあるべきか、を深く考えさせてくれる一冊です。
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「大人」だからこそ友情について考えたい。人間は必ず死ぬということをどれほどしっかり自覚できているかが大切だということから始まって、『互いに死すべき者と感じるとき、この世のいろいろな評価を超えて、束の間のこの世の生を共有している者に対するやさしさが生まれてくる』という感覚は決して「子ども」にはわかるまい。
勿論、大人の友情は純粋な面ばかりではない。むしろ、純粋なものはないと言った方が正しいかも知れない。しかし、著者が主張するように、様々な関係の人と距離を上手に取りながら、お互いにほっとできるような関係を作っていくことこそ大人の友情の醍醐味なのだろう。
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印象的な文章がいくつもあった。・友人とは、夜中の12時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ。(ちょっと大袈裟だけど。)・あまり親しくなると、その人が死ぬ可能性など考えられなくなるものだよ。・自立している人は、適切な依存ができて、そのことをよく認識している人である。・「致命傷を負わせる言葉」を避けるための学習・・・・すごく読みやすくて、あっという間に読んじゃいました。
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読んでいる感じが、仲のいい友達とちょっと深い話になって話し込んでいるというイメージだ。
ああ、続きが読みたいなと夜寝るのも、なごりおしかった。(^^)
「あとがき」で作者自身が、「軽いなかに急に重いことや苦いことが突出してくるのを感じられることだろう。これは「友情」というものがもつ性質のためであって仕方がないことである。」と書いているが、その通りの印象を受けた。
私が特にああ、忘れないでいたいなと思う箇所が3か所あった。書き留めておきたい。
ひとつは、69ページ。「ずるっと以前は、アメリカの心理学で、依存と自律を対立的に把え、依存が少ないほど自立していると考えるような単純なことをしていたが、1960年頃より、自立している人は、適切な依存ができてそのことをよく認識している人である、と考えるようになった。」という部分だ。「適切な」の部分に横に点がふってある。なるほどと思う。適切なというのは、本当に難しく、絶対にコンピューターなどでは真似のできない機微の気がする。
119ページから始まる「裏切り」の項目はとても示唆深かった。特に「裏切るより他はない」の項目。ここでは、フロイトとユングの友情について言及して「ここで極端な表現をすると、彼らは友情を裏切ることによって、それぞれの自立性を保ちえたのである。2人の人間がまったく一体になることは不可能である。」とある。「強烈な同一視を破るためには、どうしても「裏切り」しかないような状態になる人間というものの在り方の悲しみ」というような言葉もあった。作者は、友情を考えるとき、裏切りは重要なテーマとして存在すると言っている。それだは、それを回避するには、どうしたらいいか?文中、2か所、みつけた。133ページ「常に裏切りの可能性を持つ関係も認めた上で、「やっぱり、ええやつやな」と感じるのが深い友情ではなかろうか。友情の強さよりも深さのほうに注目することで、裏切りの悲劇は回避されるだろう。」もう一か所は、どこか忘れたが、あなたも私もいつか死ぬ存在だと思うことが、友達を許す気持ちにつながるということが書いてあったと思う。裏切りというのは、何よりもつらいものである。なぜなら、一番裏切りたくない深い関係になったとき、裏切りしかないというのは、ものすごいパラドクスである。小林秀雄が中原中也の恋人をとった話について、小林が中原を好きだから、そうなったのだというのがあった。
私が心に残したい3つめは、167ぺージから始まる「友情と贈りもの」は何回もときどき読み返したい気さえした。。贈り物というのは、まだ掘り下げて考えておきたい問題だ。特に172ページから始まる「贈り物の多義性」ということろだ。
作者が「自分では意識していなくとも、贈り物によって、贈る者と贈られる者という対極が生じ、贈られる側がそこに「押しつけ」や、主従関係が入りこんでくるのを感じることもある。」(173ページ)「・・打算や自分の欲望の充足や、将来に対する投資などど言えば言えそうな心のはたらきが関与しているのを認めざるを得ないし、・・」(173ページ)とある。これは実感としてあった。でも、文字で確認するのは初めてな気がした。贈り物の側面として覚えておくとよいと作者は言う。
贈り物については、文化による違いも存在している。「「対等の人間関係」などという概念は、近代ヨーロッパの生み出してきたものであろう。」と書いてあったのは、そっかと思わされた。私も、トルコの人で、一方的に頼みごとをしてくるように感じられる場面があった。この本の「友情と贈り物」の項を読むだけでも、3つの点から分析できそうだ。
ひとつめは、友情の一心同体の論理からしては物の貸し借りは意味がないということ、ふたつめは、贈り物についてのお礼をすぐに返すのはよくないとする文化(ブータン(たぶん)の例が載っていた)の違い。・・たしかに、こっちの方が難しいだけに、ありがたい気もする。「・・・この地ではすぐにものを返すのは失礼で、友情がほんとうに確かになって、ものによって関係がみだされないようになるまで、心n関係を保つことが大切だと聞かされて
感心したとのこと。」と書いてあった。このなんでも頼んでくるように感じた友人も同じようなことを言った。が、私は待てなかった。やっぱり何らかの形にのったお礼をほしかった。小さくても。贈り物というのは、本当に微妙で難しいものだ。みっつめは、174ページの1文「おそらく、これらの国々では友人関係と言っても、ベースは家族関係にあるので、親しくなると、家族のなかの年長者と年少者ということになり、後者は前者に対して礼をつくすが、その分だけ甘えることができるという図式になるのだろう。」
そして、「対等の友人関係」などどいう概念は、近代ヨーロッパの生み出してきたものだということになる。
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「やさしさ」は死すべき者の自覚/自立している人は適当な依存ができてそのことを認識している人である、友人関係の場合も互いに依存したり依存されたりしつつ、そのことの認識の深さによってその自立性も高まる/ 2009/6
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この間読んだ小川洋子さんとの対談がとてもよかったので、こちらの本も読んでみました。
きっと先生のお人柄なのでしょうが、とても温かい気持ちが伝わってくるような本です。友情、という一見ほのぼのとしたテーマですが、内容は深く、ときに無意識の暗闇といったような重い話があったり、互いを傷つけずにはいられない関係性というような難しい話もありました。
でも全体としてはとても分かりやすい言葉で書かれていて読みやすかったです。
心と心の深いつながり、「たましい」という言葉も出てきます。激しさや強さではなく、より深く相手と繋がる関係。。。先生は夫婦の間にも「友情」が大切だと書かれています。確かにそうだなぁと思います。私も夫との間に、これからまだまだ長い年月をかけて、深い友情をつくっていけたら素敵だなぁと思いました。
それから、心に残ったことば、「死すべき者の自覚」。
「何のかのと言っても、彼も死ぬし自分も死ぬ。互いに死すべき者と感じるとき、善悪とか貧富とか長短とか、この世のいろいろな評価を超えて、束の間のこの世の生を共にしている者に対する、やさしさが生まれてくる。」
こういうことを私も心にとどめて、周りの人たちと接していきたいなと思いました。
夫と子供を大切にしよう、とか、地元の友達にゆっくり会いたいな、とか思いました。
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臨床心理学者としての河合先生の言葉、見解というよりは、1人の大人(分別、善悪をよくわきまえた)として、思い、考えを述べているような文章が、とても読み易く、共感出来る部分が多いですね。
結局、友情には決まったカタチがない、というニュアンスがところどころに散りばめられていて、河合隼雄先生という人間味がとても良く現されてる作品だと思います。
また、何度も読み返したいですね。
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2015.3月
いつも難しいことをとてもわかりやすく話してくれる河合隼雄さん。厳しいけどちゃんと優しい。直接会って話を聞いてみたかった。友情は複雑。でも一心同体になれないことはちゃんと理解しておきたい。友だちなんてそんな簡単にできるもんじゃない。長年かけて関係を少しづつ作っていけばいい。離れてしまったらもうそれはそれでしょうがないと思う。許せるかどうかが大事なのかもしれないなあ。 「夫婦関係も友情のようになってくる」。そうか。それでいいんだな。
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幼い子ども間でも日常的に無意識に在る、友情の尊さと脆さと複雑さ。
小学1年生くらいまでは、感情むき出し、思ったことをそのまま口にしていたため、人の気持ちや友情も目に見えなくもなかったのだが、これが大人の友情となると、ごくありふれたことなのに、言葉にしてわかりよく説明することができない。
河合さんは、”友情とは何ぞやと訊かれると、今でもはっきりとは答えられない感じがする”と最後に書いている。きっとこの本を書き始めたときから、友情を噛み砕いていっても、はっきりとは答えられない感じ、(感じというところがまた大切な気がする。)というところにたどり着くことはわかっていて、書いてくれたのだろう。
河合さんはあらゆるエピソードに、肯定も否定もせず、どちらの立場や考えにも理解を示してくれる。友情にはふたり以上の人間が必要で、ふたつ以上の在り方があるからかな。それか他人の友情を第三者の視点や、自分の体験を’振り返って’書き綴っているから、どちらでもなく、どちらでもあるからかな。(作者だから公平でないとだめ、は抜きとして。)友情はリアルタイムの本人では、冷静に見つめることが難しいものなのかもしれない。
だって普段の生活の中で、もし裏切られたとしたら、相手の裏切る心理を分析する以前に激高する気がする!(そこで激高しないことが友情!?冒頭、トランクに死体があっても黙って話に乗ってくれる人=友人からすると。)
贈りものの話はすべて興味深かったし、心温まった。
贈りものの多義性は、私にも経験があり、海外の友人と話していると、贈りもの以外の風習でも、お国柄の違いが出てくる。
友人は日本語が達者で、その辺りも詳しく教えてくれるし、私も、日本だと不満や疑問に思うようなことでも、お国柄かも知れないと思えるようになった。友情などと改めて語ることもしてこなかったが、これは深い友情と呼べるだろうと思えて嬉しくなった。
シンプルに大人の友情についてのみ、書かれた本だった!
美しい友情、荒んだ友情、誰と誰の友情とか、(その誰と誰の性格にもよるのではないか!?)そういったことではなく、人間の話だった。(そうだ、河合さんは心理学者なのだから、そのアプローチは当たり前だった。)多種多様、ひとつも同じ友情はない。
人々が友情を描いた物語を読むのは、誰しも身近にあるものであり、その物語からどう感じ取るか、影響を受けるか、人それぞれであり、友情という答えのないテーマに無限のドラマがあるからかもしれない。
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心理学やばかりでなく文学の勉強にもなって良い。せわしない生活を送る中、こういう本をのんびり読むのは心の療養。
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「いろんな人間関係の背後で、「友情」ということがはたらいている」p,11
とあるように、夫婦も恋人も同僚も師弟もどこかで友情に近い気持がその関係を支えていると思う。
その友情についてのトピックが多岐に渡る。
人以外への友愛の話、同一視、贈り物、裏切り……
「欲しいと思っても、なかなかできないのが「友人」だ、とも言えるのではなかろうか」p,12
一生懸命努力して友だちができると思っている人もいる。できたら有難いもの。
「私はかつて、ユング派の分析家、アドルフ・グッゲンビュールの「友情」についての講義を聞いたときのことを思い出す。そのとき、彼は若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねてみたら、祖父は、友人とは、「夜中の12時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた」p,13
頭ごなしに叱るでも、庇うわけでもなく、無条件に話を聞こうとする/してくれる関係。話に乗って何とかしようという姿勢も感じられる。深い信頼関係。
実際には難しくても理想を追うことはできる。という話がp,39にある。
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図書館本。人間関係は適度な距離間がすべて。それに尽きるのだろうなと思いました。とにかく息子たちには、子どものころからあらゆる人間関係を経験して、免疫をつけておくことが大切だよ!と教えていこうと思います。
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臨床心理学者で宗教や哲学の思考を重ねる作者の本なので漠然とした期待と親しみを持って読み始めた。
読み易く衒わない論調のエッセイで共感することが多く爽快な読後感に包まれた。
普段の人間関係で気になることの多い、よくあることを専門的見地から易しい言葉で誠実に解き明かす。
友人とは「夜中の12時に、自動車のトランクに死体を入れて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」とユング派の分析家アドルフ・ブッケンビュールの祖父が言う、から始まる。
友人関係は「虫が好かぬ」「馬が合う」の如く無意識的なものであり、直接的な利害関係や意識的打算とは重ならず、地位・財産・名声でもなくお互いに存在を認め合っているというそのもの。友情を支えるものは目的でも理想でもなく「お互い、生きててよかったな」というもの。青山二郎が対談で親友の小林秀雄を泣かせてしまう話は印象的で、どんな人であれ心の深層は闇の世界であり、関係が深くなることは、その人の影の世界も知ることでそこに触れられるとあの小林でも涙を流すということだ。
丸谷才一の出淵博に対する弔辞も凄い、「故人に対する深い感情が示されつつ、文学者らしい抑制がきいていて、生の感情によって他人の心を騒がせない節度が守られている。」と抑制・節度が心を打つ、と言う。
「ついにゆく道とはかねて聞きしかど きのうけふとは思はざりしを 伊勢物語」を「‥‥聞きしにまさるこの花道ぞ 隼雄」と読み替えて、死について白洲正子と語り合う。
お互いの距離について、調節や操作にそれほど気をつかうことなく、相手と共にいる、あるいは「あの人がいる」と思うだけで、ほっとできるような関係がひとつでもあれば、その他の付き合いは楽になるであろう‥‥「自立している人は、適切な依存ができてそのことをよく認識している人である」等々身につまされて納得できる言葉が続く。
田辺元と野上弥生子の友情を通した晩年の恋愛の話も秀逸だ。彼らの和歌の遣り取りは一流の繊細さで展開され、感情の逸脱を防ぐ「断念の構図」がある、と言う。
付き合いや裏切り、贈り物とお返し、ホモの話、関係の踏み込み等々いろいろなことを俎上にあげて思考し無駄のない的確な言葉での表現は流石である。
人生経験を経てこそ、しみじみと共感できる内容であり受け止める人の考えの深さによっても印象は異るであろう。
道徳の教科書のようであった。