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著者自身、タイトルに対する結論は出せていないが、それでも非常に参考になった。本書に書かれているエピソードは、医学界において著者が経験したことを中心に書かれているが、本質的には一般の企業内や家庭内でもよく起こっていることと類似しているように感じた。自分自身や自分の周囲の環境に照らし合わせてみると、耳の痛い話が多い。
若い人はもちろん、企業の管理職クラスの方々にぜひお読みいただきたい本である(私が言うのはおこがましいかもしれないが・・・)。
また、主体性という観点で私に足りないのは、「他社の視点による規定を受けやすい」という点であると感じた。今は「他者視点による規定」を避けるため(すなわち自分の意思をブレさせないため)、人から距離をとってしまうことがある。ただ、真に主体性があれば、その必要もなくなるはず。そして、謙虚に人の意見に耳を傾けているならば、臆せず主張していきたい。そうすればもっと主体的に生きれるのだと思う。
ニュアンスとして、”主体性は教えられるというよりは伝染させられる”ものと考えた方がしっくりくる気がする。自然と主体性が伝染する空間をいかにつくることができるか、これからも考えて行きたい。
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『主体的、自律的、思考停止、定型的、前例踏襲、二元論、類化性能・別化性能、手段と目的の取り違え、党派性、各論的議論、上位下達、正邪と好悪、他者の言葉、自己評価・外部評価、同調圧力、、同じ価値観しか持たない集団、上位者の保証・エビデンス、複雑な縦糸と横糸の絡み合い=チーム医療、政治的に正しい言い方、努力の自己目的化、ダブルスタンダード、利他こそが最大の利己、数値の評価は主観的、個として自律し同時にチームとして同調する』等々、ページごとに至言の数々オンパレード、間違いなく名著です.
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医療教育の現場における問題をつらつら書きつつ、テーマを作者が自己完結させてる印象を受ける内容。主体性とは思考停止にならないこと、考えること。
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難しいテーマについての本だったけど、本著者の既刊作品と主義は一貫しており、以前の作品も概ね肯定的に味わわせて頂いた身としては、今回も納得させられる部分が多かった。耳が痛いというか、身につまされる内容だったけど、自身の主体性についても見つめ直す、良い機会になったと思います。
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本人の気づきでしか、教育は進まないってことですかね、むりやりまとめると。
「3月のライオン」でも、育の字の重要性を言っていました。
しかし、話してわかるというレベルをまず設定しているところが、医学部教育ですね。バカの壁じゃないですが、話が通じないということを教え方(接し方)が悪いと思う教える側の謙虚さも必要か。
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主体性は教えられるか―感染症のプロフェッショナルであり現在大学教授で教育の前線に立つ著者の論考である。
私自身、主体性とは何か、どうしたら得られるのか長年考えていたことでもあるので、まさに私にとって読まねばならないと感じた本だった。振り返ると医師になるまでは主体性は意識しなくてもやってこれるものだったが、逆に医師になり現場に出た途端に主体性がなくては医師としてやっていけないと焦りを感じた。医師として数年やってきて、研修医や学生を指導することもあり、このテーマについてより強く考えるようになった。
まず、主体性とは「他者の言葉に耳を傾けつつ、他者に流されない態度である。」(p.90)
そして、「主体性とは、独りよがりな態度ではありません。他者との関係性を明確にし、かつ自律してあることを言います。その上で、他者と同じ方向を向き、チームとして動くことが出来ることを言います。」(p.232あとがきより)。
対極にあるものは「思考停止」だろう。筆者は様々な思考停止の例示をしている(定型、手段と目的の顛倒、二元論、グローバリズムなど)。
主体性は教えられるか?これについては筆者も「微妙」な感じと言っている通りイエス・ノーで答えられるものではないと思う。
筆者の言うとおり「主体性はあくまでも、自らの意志で獲得されねばならない。」(p.33)ものだと私も思う。自分自身で気づき、涵養していくしかないのではないか。そのためのトリガーになるのはおそらく「責任」「渇望」(p.120)がキーになるのではないか。教育者ができるのはそういった状況を与えること、また背中で示すことだろう(先輩方がそうしてきたように)。当たり前だが主体性を教えるために一番重要なのは、私自身が主体性を持ち、それを示していくことだと思う。
私は筆者の意見の大部分に納得した。筆者は批判的に読まれることを希望しており、そのつもりで読んだがやはり頷かずにはいられない部分が多かった。これから何度も読み返して、自分自身を律する拠り所としていきたい本だった。
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著者の作品が好きで読んだ、ただのミーハーです。
著者が良く口にされておりますが、世の中は色々で二元論では語りつくせない。その事象の程度をどう捉え、それに対する「主体的」な考えから、自身が『主体性』を持ってどう行動するのか、なのだと思います。生きるも生かされるも自分次第。
ただ、著者が文末で『今でも主体性をどのように教えたらよいのか分からない』と述べられていましたが、他人の主体性をどおすれば芽生えさせられるのか、はやはり私にもまだわかりません。
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岩田健太郎さんの著書。テーマがとても興味深い。
「主体性は教えられるか?」というテーマについて、日本の教育現場(医療教育も含めて)を通してその問題を考える。
著者が内田樹さんの論を頻繁に引用していることからもわかるように、かなり内田さんのことを信奉しているような気がしました。考え方もかなり似ているように感じましたし。
あえて難癖をつけるとすれば、何度も同じような話をしていて、まわりくどい気がしました。この内容であれば、もう少しコンパクトに収まるように感じます。
あともうひとつ、大切なのは「主体性のない人」に「主体性を教える」ことよりも、「主体性のない人」と共に「どうすればうまくやっていけるか」を考えた方がいいんちゃうかな、と。まぁ、岩田さんのことやし、そこまでも考えが及んでいそうですが。
そもそも、私自身、「主体性のなさ」という部分にあまり問題を感じていないということが本書を読んでわかった。
テーマに対する結論としては、筆者も言うように「微妙」。サッカーのなでしこジャパンの選手が「主体性がある」という意見も、よく知らない自分にとっては煙に巻かれた感じ。
ですが、全体の論としては考えさせられますし、かなりおもしろい。終始楽しめた本でした!
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非常に面白いテーマに取り組んだ本だと思う。教えられるのかどうか、は結局明確な答えはないのだけれど、読者それぞれに模索していくべきことなのかもしれない。
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岩田氏が臨床医であることを理解できない方は、「結論を書け~」と思うことでしょう。自分自身としては、自分に部下が出来て、その部下が主体性を発揮し始めたときに、受け止めることができる度量を養っておこう、ということですかね。今自分が受け止めてもらっているように。
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もくじ
第1章 主体性が不可欠な医療現場
第2章 主体性を涵養しない教育制度
第3章 医学教育の迷走
第4章 医学生たちとの対話
第5章 主体性とは何だろう
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本を読み進めて、やっと第5章や最終章で、筆者のいいたいことが伝わってくるようになる。読み始め 前半はやや冗長で、退屈な面もあった。現状批判がこれでもかと並ぶので、その物事両断的な筆致は賛成しかねる点もある。ただP.34の「主体性とやる気は違う。ぼくはそう考えている。 やる気はだれもが持っている。」との記述にドキッとさせられた。これは男子サッカーのラモス批判などに繋がっていくことになる。
後半になって主体性とはなにかとの意見が形となってくる。それは自律性と周囲との調和性ということらしい。自律性は主体性のいいかえに近いので我を通したり逆に怠けたりしない周辺調和が大切ということか。さてこれを社会人指導者として教えるべきか否か。調和性のなさは多くは個性とも思われるが叱ったりできるかもしれない。でも自律性の乏しい成人を回復させることができるか。
この本に出てくる話を総括すると まずい指導者/指導法はその学習者の主体性を阻害する、ともとれるから、下手な教育手法を押し付けないほうがいい、ということになろうか。詰込み型学習も鵜飼いの鵜に例えて主体性が育たないと批判、教育手法のPBLもそう、指導医講習会もそう、と 同じ手法で批判が展開されている。主体性のない悪い例としてアメリカ礼賛者やエビデンス至上主義者などが挙げられておりこれらは型にはまる思考者や、思考停止状態である。 最終章の男子サッカーのところも モデルや戦術など”手段と目的が倒立する”のも同じ構図である。
主体性の育たない教育として大学教育、大学医局制度も非難している。 たしかに昔から優秀な研修医は、全国的に有名でべらぼうに忙しい研修病院に2-3年働き、その後はどこに行こうとも自律的に自力で問題解決し、研鑽をつむくせがついている人が多い印象がある。 初期臨牀教育の大切さだが、そういった病院は決して、暗記物を押し付けたり、一対一の教育をしていたわけではない、むしろ放置状態といったほうが近い。 ただべらぼうに忙しい思いはさせる。 また場の雰囲気は 活気あり良かっただろう。 よき子弟関係の職場として老舗のすし屋などを思い出すが、そこの弟子もべらぼうに働き、かつ師匠には教えてもらうより怒鳴りつけられることが多いが、その師匠の所作は職人として濁ったところなく仕事に真摯な姿勢に弟子は尊敬している、現場の雰囲気は怒声が飛び交っても活気があるものである。
この本の最終章で礼賛している女子サッカー例でも練習は地獄のトレーニングだったとの記述がある。
主体性のあるいい後進が育つためには、場の雰囲気のいい、活気のある、尊敬できる先達がいないといけないのであろう。
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大切なことに気づかせてくれる、すばらしい著作である。
ご自分の職責等の立場から、かなり言いにくいこともあったろうと思われるが、それよりも「もっと大切なことがある」という信念が、著者をしてこのような記述をなさしめたものと思う。
それほどに、筆者の思いはどの頁からもひしひしと伝わってくる。
教育に携わっている人はもちろん、多くの日本人に読んでほしい著作であると信じる。
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医学教育学会に行って、この本の内容がとても「そこ」に関連していることを実感しました。でも、業界の人はたぶん読まないと思いますねえ。
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第1章 主体性が不可欠な医療現場
前例踏襲(帰納法)がうまくいくかどうかは、当たるも八卦の運次第である。
医療の世界はたいていジレンマに満ち満ちている。黒か、白かの二元論ではうまくいかない。たいていの事象はグレーゾーンにある。そして大切なのは、黒か、白か、グレーか、という単純な問いではなく、どの(、、)くらい(、、、)グレーかを見極めることである。世界観の固定、思考停止は複雑で曖昧な医療・医学の世界にはそぐわない。
手段と目的の顚倒は思考停止のなせる業である。すなわち、そこには主体性が欠けている。
●医療の世界に正解はないのか!という視点。
第2章 主体性を涵養しない教育制度
日本の学校教育は小学校から高校卒業まで、「いかに正確に、大量に咀嚼し、それを正確に迅速に吐き出すか」という点に主眼を置いて行ってきた。主体的に学ぶ→思考を重ねる→試行錯誤を重ねる→誤謬を重ねる、ということ。大量咀嚼、大量嘔吐の能力に「誤謬」は必要ない。むしろ邪魔なだけである。効率良く、手っ取り早く、正解に直行することこそ大量咀嚼、大量嘔吐能力涵養の一番の早道である。文科省に学習指導要領を強制される教育者が、主体性を涵養する教育などできるわけがない。コンプライアンス(法令遵守)の連呼が思考停止の遠因となる。評価のダークサイド。評価は手段であり、目的ではない。測定可能なものしか評価できないが、測定不可能なものを無視してはいけない。主体的であるとは、他者の言葉に規制されないという意味である。他者のまなざしから自由であるということである。ということは、こと「評価」に関して言うと、「主体性」はこれを一切顧慮しない。
●評価されたいがために、進んで大量咀嚼大量嘔吐の、「鵜飼いの鵜」となった私。管理しやすい「鵜」を育てたい親と教師。「鵜」のまま大過なく一生を終えることは可能?社会に役立つかどうかは別として。
第3章 医学教育の迷走
グローバル化と称されているものは、単なる「親方日の丸」から「親方星条旗」への転換にすぎない。PBLにおいては、提示された異常値の出た検査を、グループ内で分担して調べ学習するだけになりがち。当該疾患の全体像はつかめず、定型的に事典をひいているだけ。教育方法に優劣はない。講義VS問題解決型という対立構造ではない。シラバスのもたらす陥穽。学習目標が明示されていることと自律的な学習は矛盾した概念ではないのか。シラバスで学習目標を明示してしまうと、それは目標に到達するまでの経路のみを探し出す問題となる。ボーダーラインを示さない、シラバスによる自己規定を行わない所に、「ブレークスルー」は生じる。『「引きこもり」というのは、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して、「評価されない立場」に逃げ込むというソリューションです。転職や離職の繰り返しや、いっとき流行した「自分探しの旅」も、自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる「外部」がこの世界のどこかにあるはずだという(あまり根拠のない)信憑に導かれてのものです。教育の場では、「君には無限の可能性がある」という言明と「君には有限の資源しか与えら���ていない」という言明は同時(、、)に(、)告げられなければ(、、、、、、、、)ならない(、、、、)。』←学ぶことの要諦(内田樹『呪いの時代』より)。チューターはプロの方がよい。医者が主体性を失う、旧来の医局の構造。『日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについて集中的な訓練を受けてきた。それゆえ、誤答を恐れる。だから、「正解」がわからないときは、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。論拠と言い訳が用意されなければ動かないというのが日本のエリートの本質的性格である。「エリートというのは、そういうものだ」。だから危機的状況にエリートは対応できない。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間、「胆力のある人間」は組織的に育成することができる。例えば武道や宗教は本来そのためのものである。』(内田樹『呪いの時代』より)。無批判にEBMを盲信するのは、無批判に医局の教授を盲信するのと同じくらい間違っている。
●「無限の可能性」と「有限の資源」が同時に提示されてこそ、「ブレークスルー」が発生する?ちょっとそこがつながりそうで、よくわからない。「ブレークスルー」はイメージできる。一生で何度も起こるものなのかな。それって、学びってすごくない?エリートは危機対応できない。なるほど。医者はエリートではいけない?
第4章 医学生たちとの対話
独自のTBLの紹介。
●実際にこの授業を受けたら、「全然わかんなくて先生怖かった」みたいな感想で終わってしまいそうなダメ学生の私。
第5章 主体性とはなんだろうか
努力の自己目的化、走ることそのものの目的化、疲れることそのものの目的化、は「手段と目的の取り違え」。強制的な指導医講習会は悪評。クロスライセンス推奨。専門や国籍の檻に閉じこもらない。スタンダード化を主張しているのではない。その数字がどのように扱われているか、どのへんが主観であるかを自覚的に自覚しつつ、自らの主体性をもって判断する。そしてそれが主体性による主観的な判断であることを自覚する。他者は異なる認識を持つかもしれない可能性にも配慮する。このような内省的な態度と配慮こそが、主体性への近道である。
●自らを客観視できる視点が、真の主体性には必要。その通りだと思うけれど、そんなことって可能なのか。それがブレークスルーか。
第6章 サッカー日本代表チームの成熟と主体性の変遷
アマチュア時代―主体性の暗黒時代。夜明け前―主体性の萌芽。(カズ、ラモス『主張する人』)。攻撃か守備か。(中田英寿VS西野監督という構図)。ある戦術が紹介されると、無批判にそれを繰り返すのが日本の特徴であると言われる。アーリークロスを上げろと言うと、なんとかの一つ覚えのようにアーリークロスを繰り返す。日本代表の欠点を指摘する時、常に言われるのがこの硬直性、思考停止状態だった。「日本の選手には主体性がない」と考えた3人の監督。トルシエ(自分のやり方を選手に押し付ける)。ジーコ(放任することによって主体性を要求)。オシム(監督が細かく指示することと選手が主体的であることは必ずしも矛盾しない)。「なでしこジャパン」は「主体性」の具現化。澤のポジション。「ボールを奪わなければ攻撃できない」。「攻撃か、守備か」という二元論(つまりは思考停止を)凌駕している。
●二元論を凌駕したところに、真の主体性がある。視点を個人→社会へと上げるブレークスルー。「なでしこジャパン」ってやっぱすごいんだ。とサッカーをまるで知らない私でも、感動できる文章。
思考は行きつ戻りつしつつ、読みやすい文章で「主体性」について考察していく本。「医学教育」と「主体性」という、いま一番関心のあるテーマだったので、面白く読めたし刺激を受けた。「大量咀嚼、大量嘔吐の鵜飼いの鵜」という表現がヒット。肝に命じます。「嘔吐」という言葉選びのセンス。復学してからも時々読んで、ふっと視点を上げるのに役立てたい本。