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原題は"The Beauty Bias"。邦題のセンスが結構イイ。よくこのタイトルにしたなあ。
外見が差別の対象となったとき、法で規制することは出来るのか。フェミニストが外見を外科手術で手を入れることは非難されることなのか。アメリカの事例が数多く紹介され、容姿を理由に解雇された訴訟の是非を問う。化粧も整形も求めだしたらキリがない。外見で人を判断してはいけないと理性では分かっていても、そのひとの内面を想像してしまう。外見は、その本人がどう見られたいかの現れ。たとえ生まれつきそうではなくても。
(貸出中)
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今週のAERAに刺激的な表現があり気になった。それは、「エロティック・キャピタル」 女は見た目で仕事も就職も勝ち抜けという特集だ。エロティックだからと言って、夜の世界やモザイクのかかる映像の世界で働いている女性たちのことではない。
キャサリン・ハキムという元ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの社会学者が発表した論文が元になっているその名もずばり「エロティック・キャピタル」だ。美人の女性は、どうして人をひきつけて得をするのかということについて論じられている。
今回取り上げる本は、法学者で、アメリカ法曹協会(ABA) 女性法律家委員会委員長を務め、またフェミニズム法律学の研究者としても知られている。著書でも指摘しているが、男性の場合、アメリカ大統領選挙の候補者になると見た目も厳しく指摘される。まさか天然の毛皮のコートを身につけてホワイトハウスを闊歩するわけにも行かない。それに年齢も若い人に有利になっている。2008年の大統領選挙で共和党のジョン・マケイン候補が年齢についてマスコミから指摘されていた。ロナルド・レーガン元大統領は高齢にもかかわらず2度当選している。キャラクターが年齢を上回っていたという事実があったから。
女性の場合、年齢のみならず、肌、服装なども男性と違って一段と厳しくチェックされる。著書を読んでびっくりしたが、2008年の共闘副大統領候補として一躍有名になったサラ・ペイリンの選挙陣営が、メイクのプロに高額のギャラを払ったとある。著者が疑問に思ったのは、「現代の女性運動がさまざまな面で男女平等を勝ち取ってきたのに、容姿をめぐるひどいダブルスタンダードについては成果がはかばかしくないのはなぜか」だ。アメリカ政府のダブルスタンダード外交並みかそれ以上だ。
驚いたのが「幼児への接近」という一節だ。何もストーカーの話ではなく、さまざまな業界が幼児をターゲットに商品を発売していることだ。「攻めの姿勢をとり続ける業界は、もはや思春期を待ってはいない」と著者は述べているが、小さい頃から性的魅力を持つように仕込んでいる。業界にとってはいいカモになる一方で、拒食症に悩む女性が増える原因の1つにもなる。
メディアの影響力が計り知れないのが良く分かるのが、太平洋に浮かぶ島国フィジーの事例だ。以前はふくよかな体型を良いとする文化を持っていたのに、テレビの影響で、やせてきれいになりたいという願望を持つ思春期の女の子が増えて、無理なダイエットをして摂食障害が急増している。
「美しさは皮一重のことかもしれないが、美の追求の代償ははるかに深く浸透している。容姿にまつわる経済的、身体的、精神的コストに、わたしたちはもっと注意を払うべきだし、対策は共同で練らなければならない」と述べている。いつまでも「吉永小百合」みたいでいたいという揺れる乙女心(最近では「美魔女」という実年齢はアラフォー以上でも、見た目は20代の女性が出現して、新たな憧れの対象になっている)、社会から向けられる視線。そこから「干物女」になるわけにはいかないわと、決意するわけだ。そり���、いつまでも若くいたいと思う。若くありたいと思う煩悩は男女問わずある。モクモク羊だってそれぐらいの欲望はあるからなあ。
AERAのサイト
http://www.aera-net.jp/latest/
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内容のあらましについては他のレビューに譲ることにします。本稿では、
・何故この本を読むことにしたか
・評価する点はなにか
・日本にどう適用するか
の3つを述べてまいりましょう。
1.何故この本を読むことにしたか
結論から言えば、タイトルと文章力の勝利です。
タイトルで「おや」と思ったら、手に取り、パラッと読んでみる。読みたくなりました。
「どうせ、ラディカルフェミニストの繰り言だろう。
『アタシはこんなに苦労してるのよ!』を、さも普遍的な女性差別のように粉飾して述べてるのであろう」
という思いもありました。
ところが。ぱらっと読んだ部分だけでも、論理に整合性がある。根拠としてあげてる事例も、(USAの事例や資料中心とはいえ)説得力がある。
そして目次に目を通しますと。
健康食品、美人コンテスト、メディアと美容業界のスクラム組んだ経済体制、就職差別や教育現場の問題といったものが列挙される。
ここで終わっていたら、
「問いを投げかけて、社会に啓発しました!系かー。つまらぬ!」
と判断するところ。
ですが、最後の章がありました。
『改革に向けての戦略』
ここをパラッと読んで、この本全部を読みたくなりました。最高評価をつけた点でもあります。
2.評価する点はなにか
啓発系、問題提起系の本全般に対して、うんざりすることがあります。
疑問や問題点を指摘するだけで、
「問題点は指摘しました!このあとどうしましょうかねー?どうやるのが適切なんでしょうねー?それは、あなたが考えてください!」
という本。
あるいは、何らかの方策を示しているつもりで、
「著者の思い込みレベルの、具体性を欠いた指針しか書いてない」
という本も、欠陥があると思います。
が、この本は違いました。
何を問題点として、世の風潮を疑問視すべきか。個人レベルでは、どのように動いていけばよいのか。それらを整理して提案しています。
法曹「そんな些細な問題に割ける暇はないよ!」→適切な法を作ること。訴訟合戦は起きない。
社会資本「容姿?そんなの気にして当然のこと。わざわざ差別差別と言い張るなよ、このズボラ女どもw」→根源的で無意識な差別をきちんと感知しよう。
政治「より喫緊の課題がある。容姿が業界である程度気にされるのは仕方の無いこと」→市民として活動しよう。健康政策の適切運用、就職差別の撤廃、男女差別の問題解決として語ろう。
つまり、ラディカルフェミニスト、と一般に目される人たちの支離滅裂な言動とは、一線を画する。
そうした整合性、実現性のある言説は、高く評価します。
3.日本にどう適用するか
USAの事例や論理は、日本にそのまま適用してはなりません。
当初、私は
「どうせ、ラディカルフェミニストの繰り言だろう。
『アタシはこんなに苦労してるのよ!』を、さも普遍的な女性差別のよ���に粉飾して述べてるのであろう」
とうんざりした印象を持ちました。
まさに、日本の『輸入モノ運動』が支持を得なかった証拠です。当の女性から支持されない言説が、まして社会を動かせるものでしょうか?
たとえば、2011年のこと。
国際基督大学の文化祭で、ミスコンテストに対しOBが異議申し立てをし、大学はコンテストを中止しました。(詳細な経緯、学生のblogより:国際基督教大学(ICU)でミスコンをやることについて) http://kohiayu.blog5.fc2.com/blog-category-57.html
読めば読むほど、ミスコン反対を支持できねぇなぁー、と思います。
ファット・プライドや異性装コンテスト(男の娘コンテスト等)を提案しないで、自大学のミスコンの時だけ噛み付くのはいかがなものか。
『大義は我にあり』の時だけ、攻撃性を発揮する。
法の運用を無視して、感情論で政治家を叩くのと同じ。
あるいは、青少年に悪影響、という言葉だけを妄信するのと同じ。
一時の熱狂でストレスを発散したいだけで、正義の実現には関係ない行為です。
誰がいつどのような属性を持っても、差別されない社会の実現には、程遠い。
本書は男女不問で何をしたらいいか?を書いています。市民レベルでできるロビイングや政治的影響力の行使について。
今、ネット上のTwitterやblog、SNSで私達がやっていることは、同じことではないか。
現実世界でのデモや陳情、手紙や傍聴は、同じことではないか。
表現物規制反対を自分でまじめに考え、実行するようになって、
「まんま持ち込んでいる」
わけじゃない、日本ならではの動きはちゃんとあるように思います。
草の根社会運動のテキストとしても、良書と言えましょう。
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一番面白かったのはまえがき。自分の服装に無頓着な女性研究者が、もうちょっとその見た目をなんとかしろとオシャレな知人に手持ちの服の数点だったか大半だったかの持ち出し禁止をくらう。それまではグレー、黒、ベージュなどの一定の組み合わせを着回ししていたとか非常にリアルで可笑しい。
自分の好みでなくても自分の社会的利益のために、他者に好感をもたれる服装をするべきか……そういえば大統領夫人の服装センスってうるさく取りざたされたりしますね。
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女性にとっては、「キレイ」かそうでないかは、死活問題で、常に意識されている問題であり、しかも男性は当然と思うことが、スルーされては困る問題であるようだ。たしかに男性にとってキレイな女性は魅力的で、それによって容姿以外の評価を上積みしてもいいように思うような重要項目ではあることは認めるが…。
キレイかキレイじゃないかは、男女においてかなり差があるというのが前提になっている本書である。キレイかどうか。女性は死ぬまで(?)キレイであろうとする、あるいは社会的にそう仕向けられる。その男女においての大きな差があって不平等だ、というのが本書の主題だ。
なんで、そんな些末なことを問題にするのか、という声があがるかもしれない。その通りで、本書でも著者が繰り返し、「些末に思われるかもしれないが」とか「個人なことは政治的なこと」とかいって苦労している様である。男性にとっては、女性は容姿に「キレイに」しておくというのは当然のことなのだが、女性自身が「キレイに」しておくのはプレッシャーないしは、なんで「女性ばかりが容姿で評価されるのか」と思って不当だと思うことになるようだ。
ということで、著者は「容姿差別禁止法」を提案する。容姿による就業差別や雇用差別の撤廃が実現できるのかがテーマとして浮上する。欧米で、肥満の人の雇用差別などが大きな話題になっていることを本書で初めて知った。ビューティ・バイアスという偏見から自由になるのは難しいなあ、と思う。しかし、ビューティ・バイアスが社会的にはあると分かっただけでも私にとっては大きな意味かあった。
フェミニスト、ジェンダー論の立場から見ても、女性が男性の目を意識するかしないか、男性の目を意識せずとも、自己表現としてキレイになりたいという欲求を無条件で受け入れるかどうかで論争があるという点は面白かった。なんなんでしょうね、このキレイになりたい願望。
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女に生れなければ、外反母趾に苦しむことはなかったのだと分かり、通勤(特に帰路)時に足の痛みを感じつつ読んでいると、「個人的なことは社会的なこと」という言葉が身に迫ります。
容姿差別について、女性にだけ求められる規範「化粧をしてマニキュアを塗ること」が性差別なのは分かるけれど、肥満の人が出世しづらいことの不当性を理解するのは時間がかかりました。
肥満は「不健康であるまたは遠からず病気になる」特性だと思っていたので、太っているけどずっと健康な人の存在を忘れていました。太っていても病気知らずの人にとって、肥満を理由に昇進や採用を見送られたら、それは差別以外のなにものでもないと言えます。
採用も昇進も決める方の立場になったことがないので、今まで気づかぬうちに差別をして来なくてよかった・・・・。
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容姿がもたらす不利益について、特に女性に顕著なバイアスについて。最終的には法律も含め、メディアも含め、そして世の中全体でこの問題を認知し、やってくしかないよね、という話。
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美しくなる権利と美しくある義務。
現代は権利の方がクローズアップされているような気がするし、
男性も「美しく」の方向へ進んでいるように思う。
自分の在りたいよう居られれば、それが一番でしょうが。
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デボラ・L・ロード『キレイならいいのか』亜紀書房、読了。美の追求が健康を害することは稀ではない。本書は、女性の「美」の問題を取りあげる。過度な美容・ダイエットブームの背景には「躍らせる」構造の他に、生涯賃金等も連動する差別とも密接に連動。美の強制・矯正の前に手に取りたい一冊。
著者はフェミニズムの法律学者でスタンフォード大・女性とジェンダー研究所所長。本人は服装に無頓着だが、所長に就任するや否やファッション・チェックを受けるようになったという。女性の人生を左右する「容貌管理」の現在を報告する好著。
蛇足。「美」の問題は私的領域に密接にリンクしているから「批判」が難しい。私的をすると「野暮」や「モテない人間の僻み」といった脊髄反射。女性の政治参加や社会的地位の不平等だけでなく、私的な領域における不平等批判の困難を感じた。
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タイトルから「※ただしイケメンに限る」的な容姿の善し悪しが持つ影響の話かと思ったら、予想以上に深い話だった。
肌の色や性別による差別が良くないことはわかっても、容姿によってその人の中身まで決めつけてしまうことは否定できないし法規制までするべきか、と考えてしまう。一方で大多数がそう考えているからマイノリティが社会的圧力に同調するというのもまた肌の色や性別による差別と同じようで良くない気もする。
著者の意見に全面賛成というわけではないが、色々問題提起をさせられる内容。
・男女間で見た目にかけるコストの期待値に大きな差がないか。
・女性による美の追求は社会的圧力によるものか、自己実現の一環か。
・身体的特徴を採用または昇進の条件に含むことは罪か。
例1:健康上問題のない中程度の肥満のフィットネスインストラクターを雇用しない。
例2:身長の低い消防士を採用しない。
例3:男性顧客が多いサービス業で美人を採用する。
・性的特徴を強調する服装や、宗教的な身なりを止めさせる職務規定は禁止すべきか。
・外部と接触しない職業における服飾規定は禁止すべきか。
・上記をふまえた上で、容姿による差別を法律で規制すべきか。
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2015/12/18
容姿差別
比較的読み易く、面白かった
著者の書き方が押し付け系フェミニストではないので理解しやすかった
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この世界(社会)には明らかに、容姿による差別がある。
このテの問題を考える上で重要なのは、「弱いものイジメはよくない」的思考に囚われてしまうと、強者から弱者に至るピラミッド的な構造があって、その構造自体が問題なのだということに気が付きにくい、という点なんではないかと思った。
要するに、「美形な人は優遇され、不細工な人(失礼)は不遇な扱いを受けている」という現状があるからこそ、人は少しでも見た目をよくしたがるのだ、という話。であれば、議論は「不細工(度々失礼)の待遇をよくしろ!」という方向ではなくて、「この構造そのものをなんとかしろ!」になるべきなのではないかと。
興味深かったのは、「フェミニストの二重の敗北感」。自らが社会的に要請される理想の容姿に満たないことを恥じ、その恥の感情自体がフェミニストとしての規範的あり方に反することを恥じる、というメタ的構造になっている(余談だけれど、遙洋子に化粧の仕方を聞く女子大生は何を感じていたのだろう?)。これは多分、あらゆるところで目にする問題だ。
だけれども、この本は「なぜ、容姿が問題になるのか」には答えてはくれなかった。うーむ。
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容姿に関して男性と女性はダブルスタンダードが適応される。ハイヒールは腰痛や足の生涯の原因になる。などの性差をめぐる議論。
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容姿、身だしなみ、体重に関する差別の禁止に関する本です。くわえて、容姿の審査はとくに女性に厳しくなされるというダブルスタンダードも重要な論点となっています。
容姿のよい人は結婚する機会にめぐまれ、収入も高く、良い人だと見なされやすいそうです。
こうした容姿に基づく偏見をなくしていこうと立法、社会運動の指針が提示されます。
ところで「容姿がよい」とはどのようなことを指しているのでしょうか。進化心理学のリサーチは各部位の左右対称性、若さ、高い身長などが魅力につながることを明らかにしています。これらはユニバーサルに観察されることです。
著者はこの点に触れつつも、ある文化圏ではふっくらした人が魅力的だとされ、別の文化圏ではほっそりした人が魅力的だとされることを例にあげ、美醜の判断もまた相対的だといって軽く流してしまいます。
たしかに体重ではそういう例もあるでしょうが、左右非対称で、老いていて、低い身長の容姿を高く評価する文化圏というのは存在するのでしょうか?
わたしにはそうは思えません。この点を見て見ぬふりしているためその後の主張もあまり説得力を感じませんでした。
それに、あるものを「よい」と感じる機能が組み込まれているのには理由があるものです。若さをよく感じるのは妊娠できるからですし、高い身長はリソースの獲得とメイトガードの力に結び付いていますし、左右対称性は寄生虫耐性に相関しています。
これはわたしも昔読んで驚いたのですが、『消費資本主義』という本の著者(ジェフリー・ミラー先生)は顔の左右対称性がIQや寿命と相関しているという自身の研究を紹介していました。
つまり左右対称性からは寄生虫耐性以外のもろもろの好ましい点を推測できるかもしれないわけです。容姿に基づいた能力の評価–IQの高さが能力と結びついているのはだれもが認めるでしょう–にはそれなりの妥当性があるともいえるのです。
それに、なにも俳優やセクシー産業に従事するひと以外でも、容姿が成績に直結することはあるでしょう。よい容姿の力で営業が上手くいくというのはだれでも考え付くことですから。
こういったことはこの本では無視されていて、容姿と能力は無関係と切って捨ててしまっています。このことは残念に思いました。
とはいってもフェミニズム的な観点は新鮮でしたし、詐欺まがいの広告の規制や、性の二重基準的な労働規則に関する議論は説得的です。前者に関してはわたしには批評する能力はないのでここでは触れません。ぜひ読んでみてください。
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オールドスタイルすぎて半分読んであきらめた。
がまんして最後まで読みすすめたが、やっぱり著者自身の自己評価の低さと逡巡がしんどい。
嫉妬と他者非難。広告やマーケットの影響力はたしかに大きいが、自分たち自身のことも見直してはどうか。