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15歳の息子、ノアに「文学はもう死んでるね」と言われ、著者はその言葉が間違っていると思えなかったことに(そんな自分の変化に)気づく。
それは何故なのか?
この本に書かれているのは著者の非常に個人的な経験であり、その経験から得られた読書観だ。
生まれた時代も国も違う著者の経験には共感出来ることがほとんどないにも関わらず、読書に関する考えにはすんなり納得出来てしまうから不思議。
電子書籍によって変わりつつある読書の現状について著者は、「道具は違っても、本を読むという行為は同じなのだ。」「わたしたちは、すべては自分たち次第なのだということを再び発見しつつあるのだろう」と述べ、「つまり、わたしにはこういうほかはない。わたしにとっても、皆にとっても、本を読むということはどこへもいきはしないのだ、と。」と結論づける。
私はこの結論を歓迎したい。そうであってほしいと心から思う。
私にとって読書は最も身近で、最も好ましい娯楽だと考えていた。
でもそんな単純な存在ではないかもしれないと思い始めている。
そんな風に簡単にすることで、つまらなくしていたのかもしれない。
学生だった頃は文学について(この表現も曖昧でどうかと思うけれど)もっといろいろ考えていたし、わからないと悩みながらもわかろうとしていたと思う(思いたい)。
いつの間にか自分の中の問いを放り出していたのかもしれない。この本からの一番の発見だ。
その問いにもう一度取り組もうと決意するわけではないけれど、忘れたくはないなと思う。
常に私の中にある、それでいい気がする。
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著者が、息子さんの言葉にドキッとされるように、
ネットばかり覗いては、時間を無駄にしたような・・というのが、最近の自分と重なって、ドキッとしてしまいました。
どんなに、テクノロジーが発達しても、それでも読書は、やめられるものでは、ありません!!・・ね・・
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本を読んでいる。読み終わった時の脱力感、本を読むことで没頭していた世界から現実へと引き戻されたときに感じる昂揚感、そのような感じを思い出させてくれた一冊。
訳者はあとがきで、「この本を読み終えたあなたは、数か月前からなぜか読み終えることができなかった本を1冊手に取り、椅子にひとり腰かけて、しおりを挟んだページを開いてみたくなる」と述べているが、まさにそのような感情が湧きおこっている。
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人間と読書の関係がインターネット、電子書籍の普及でどう変わって行くのか考察されている。
読書の根源的な欲求である物語を求め、時間から解き放たれ自分と対峙することはどんな媒体らであろうと変化しない。
翻訳本独特の読みにくさがあった(泣)
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12年4月29日 東京新聞:「書店にいると便意を催す」のタイトルの記事に、著者が「青木まりこ現象」を訴えていると記載されていたこと、同日の書評を見て読んでみたいと思いました。
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この本を読みながら同時に『当事者の時代』(佐々木俊尚著)を思い出した。この本の内容が『当事者~』の問いかけの一部に対する答えとなっているかもしれないと感じたからだ。
確かにインターネットの世界は直感的に欲しい情報が手に入る。
電書リーダーは重たい本を持ち歩かなくて済む。
だがそれば、紙の本でやっていたことが楽に多くできるようになるだけではなく別の意味があった。
紙の本と電子書籍では脳の動く部位が違うという。
しかも電子機器に頼ったばかりだと判断力や記憶力が低下するそうだ。
ただでさえ、他の人と動く脳の部位が違う、成人アスペルガー症候群、内在性乖離障害の私には、聞き捨て(読みずて?)ならない。
ネットに繋がる時間を減らし、速読やフォトリーディングなどではなく、(それらの価値を否定してはいない。念のため。)本に書かれている一言ひとことに深く自分を照らし、自分の感性を認識し、物語や、登場人物、著者に自分を重ねあわせ、他者に共感する能力を磨く。認識力を高める。
一度ならず二度読めば、見落としていた部分にも光があたる。知らなかった世界を知り、過去の体験や思い出と結びつき新たな融合が起きる。類推する力を訓練する。
なんとこれは、現実世界で似たようなことを行ったり、想像したり見たりするときと同じ脳の部位が動くそうである。
つまり、このように読書によって考える力をつけることは、『当事者の時代』に出てくる当事者意識を持つことに役立つのではないかと思ったのだ。
どんなに電子書籍が進化しようとも、紙の本には紙の本の利点があるのだ。電子書籍の価値を認めつつ、ぜひとも紙の本とじっくり向き合う時間を作ろうではないか。
そういう意味では『当事者の時代』が紙の本と電子書籍の両方で出版されているのは興味深い。
もしや「馬鹿になってもいいから、楽な電書がいいです」などと言い出す輩もいるかもしれない。
だが、あらゆる人が自己責任を逃れ、他人に責任を押し付け、罪のない良い人ぶることが絶え間なく行われている今日。自分自身を認識し、それによって他の人の立場や言い分に心を広げ、行動や発言に主体性を持つことは、生き方や社会との関わり、収入、生死さえ分かつ。
つまり『当事者の時代』で言うところのマイノリティ憑依で終わるか、当事者として生き残るかということだ。さらにはサバルタンのまま終わるか、当事者として語るかという意味もあるだろう。
そうであれば、やはり、紙の本に時間をかけて取り組み、考える力を身に付けるのも重要ではないか。
『当事者の時代』にはこう書かれている。
『ではどうすればいいのか?
そこに答えはない。
いずれにせよ、一人ひとりが自分自身でやれることをやっていくしかないのだ。
では、どのような方法で?
それはひとりひとりが、別々の方法で。ここで私が「こうすれば当事者意識を持てる」と書いても、それに人が追随すればもう当事者性が失われてしまう。』(書籍版463p)
私は『それでも、読書をやめない理由』から、時間をかけて紙の本を深く読み込むことが当事者意識を持つ方法の一つであると教えてもらった。そしてその方法で戦っていくつもりだ。
もちろん、これは私の方法であって、「これが正しいからこうしなさい」と他の人に勧めることはできない。それぞれにあった方法は別かもしれないし、そのことに私が責任を持つことはできないからだ。
私の答えは私が探す。他の人が答えてくれるまで待とうとは思わない。
『当事者の時代』、『それでも、読書をやめない理由』、これから出逢う、そして今まで出逢った本を石杖に。
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電子書籍時代の読書論。で、読書って何なのよ、を考える一冊。
著者は大学で文学を教える、いわば本を読む人代表。でも本を読む、という行為がもたらす没入感というか、その世界に入り込んでいく感じがどうも最近薄れてる気がする。その理由を探りながら、これからどんな風に読書という行為と向き合っていこうか考える。
電子デバイスを否定するものではなく、自分にとっての読書とは何か、を突き詰めて考える姿勢に好感を持った。アメリカの話やけど、日本のいかにもな紙の本礼讃、電子書籍否定論よりももっと根源的な思索。
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/04/post-e80b.html
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なんというか、読書論なのか文化論なのか、エッセイなのか判然としない本です。
インターネットの普及によって本を読まなくなってしまった筆者が、「それでも、読書をやめない理由」をひたすら考察しています。
ただどうも、色々な人の発言や文章などを引用して、論文らしい体裁にもなっていますが、筆者の頭の中の独り言が文章になっているだけのように感じられます。
けっきょく最後は「それでも人は本を読む」という結論になるのですが、考えてみればタイトルを見ればその結論は最初から明らかなわけで。
この筆者の、まだるっこしい考察をわざわざ通過しなくとも、日本人の書いた軽い読書ハウツー本をちょっと読めば、「インターネットが普及しても紙の書籍が価値をもつ理由」などすぐに思い至ります。
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最近雑音めいたものを感じ、読むことに集中できずにいた私は共感するところが多々あった。この本を読んだあとツイッターを眺める時間が格段に減った。
今は紙の読書だけれど、そのうち電子書籍も読んでみたい。
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息子の、本なんかもう誰も読まないよ、というメッセージを通じながら、読書から離れる理由と、それでも本を読むための動機を考える本、だと思ったら、後半は携帯情報機器による細切れ時間の奪取や、電子書籍と紙の書籍では脳の反応が変わるといった、フツーの電子書籍経験みたいな風になっていってしまった。
紙の本か電子書籍か、という違いよりも、文学かそうでないのか、あるいは編集意図がちゃんとある情報か、そうでないのか、という違いのほうが圧倒的に大きいのだと思います。そういう意味では、前半のほうは面白く、後半をざっくり取ってしまうほうが、僕にとってはよい本になりそうでした。
そういえば、炎上中の某電子書籍リーダーのWEBサイトに、「人が一生の間に読む本は、平均100冊といわれています。」というビックリするようなコピーが踊っています。誰に何を訴えたいメッセージなんだろう。なんか変な気分になってきた。本書のレビューじゃないですね、これは。
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IT技術の拡がりのなか、読書という個別的で内省的な行為はなくなってしまうのだろうか。そんな危惧を抱いている人々に読んでもらいたい本です。アメリカのコラムニストの書いた読書論として、若い世代の子供たちとやりとりしながら、読書という行為について考察する点が面白かったです。
私自身、メールだSNSだとついいじってしまい、本に向き合い、集中するということが、そういえば最近なくなっていました。「スピードこそがわたしたちを事実の解明へ導き、深く考えることより瞬時に反応することのほうが重要で、わずかな時間も無為に過ごしてはいけない、と。そこに、わたしたちの抱える読書の問題が端的に表れている。なぜなら、本を読むには、それとはまったく逆の姿勢が必要だから。余裕を持って深くのめりこむ姿勢こそ大切なのだ。」(46頁)と述べられています。読書とは一見すると無意味だったり、時間がかかったりするからと敬遠されがちですが、そうした点こそが読書の本質でもあるということでしょう。
読書がスピード第一の現代では困難であるのだが、それでもじっくり時間をかけて深く考えるという体験はなくしたくないという著者の主張に賛同いたします。とはいえ、ではどうしたらいいかという方策を示しているわけではありません。それは読者ひとりひとりがそれこそゆっくりと考えていくことなのでしょう。というのも、私はそれこそが「文学」のあり方だと思うからです。
読書って、かけがえのない体験だったのかもしれないと、読み終えたとき、思わせてくれます。ある意味ではスピード感なしにはやっていけない現代において、読書の意味を改めて考え直してみるにはいい本だと思います。
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2012年101冊目。
インターネットの普及やSNSの台頭によって、情報を手にする「速さ」ばかりに注意が行き、じっくりと時間をかけて熟考することが妨げられていると著者は言う。
読書は、そのスピーディーな現実世界から一時的に離れ、集中して内面生活へと戻る道しるべなのだと。
著者自身がかなりの読書家なため、あちこちに見られる引用は秀逸。
読書論に限らず、普遍的に心に留めておきたい言葉が多かった。
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インターネット、SNS、電子書籍…読書をめぐる環境が変化する中、"本を読む"ことの本質を考察。デバイスの進歩で変わるものと変わらないこと。本の世界と触れることで我々が得るもの。
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『それでも、読書をやめない理由』
デヴィット・L・ユーリン
訳 井上里
文学は死んだ、とノアはいった。だから、本なんてもう読まないんだ。と。隠していたものが露にされる衝撃を感じながら、わたしは気づいた。つまり、わたしも、ノアが間違っているとは思えなかったのだ。(p16)
★現在の文学とはどういった存在なのだろうか。19世紀、本当は娯楽の一番であった。だが、そこから映画、テレビ、ネットと娯楽は移ろい、本は誰も読まなくなった。しかし、それでも本には、物語には何かが潜んでいる。
読書は一種の瞑想だ。おそらく、わたしたちが、別の人間の意識と同化できるただひとつの方法だ。(p25)
★別の人間とはなんだろうか。作中の人々、作者ともとれるし、同時に時間を超えてその文章を読んでいる読者ともとれるのではないだろうか。
物語を読み、別の人生を体験することだってできるのだから。
店内の様子、におい、壁を覆っていたり、新刊案内のテーブルにつまれたりしている書物の量。それらが、たちまちわたしの下腹を打つ。とたん、腹がごろごろいい出し、括約筋がきゅっと締まる。トイレへ駆けこみたくなるし、気持ちは高ぶる。心身が一緒に反応するのだ。わたしはこの感覚が大好きだった。(p29)
★本屋、図書館へ入る時の高揚感
本を読むにはある種の静けさと雑音を遮断する能力が必要だ。過剰にネットワークが張りつめられたこの社会では、それを得ることは次第に難しくなっているようだ。(p46)
★読書とは能力の一つである。だから衰えもする。
知識は幻想にとって替わられる(p46)
★過去の検索スピードと比べれば瞬時に知りたいことを知るようになった。すると記憶の定着が悪くなった様に思える。もちろんこれは主観的な個人的な問題なのかもしれないが。
調べる時間というのは、頭の中でその調べたい物+目で調べている文字、映像を同時に照らし合わせている。それらを瞬時に判断することにより求めているものを探し出す。この途中の意味のない過程が実は非常に意味のあるものに思えてしかたがない。
ネットの世界はこう断言する。スピードこそがわたしたちを事実の解明へ導き、深く考えることより瞬時に反応することのほうが重要で、わずかな時間も無為に過ごしてはいけない、と。(p46)
★効率よく、時間を短くする。これは産業革命以後人類の宿命の様に求められてきた。情報や物でさえ、ネットを使い家にいながらにして得ることができる。そうして、どんどん速くなった世界で人間はどうなるのだろうか?
だが、実際のところ、ネット上に散らばっているのは使い古しのテーマや浅い考え、意見の断片などがほとんどだ。それらは、総じて時代への不安を表している。(p48)
★ネット上の情報に対しての描写。間違っているだろうか?
読書は瞬間を心情とする生き方からわたしたちを引きもどし、私たちに本来的な時間を返してくれる。(p103)
★上の文章と下の文章は続けて書かれている。「本来的な時間」とはなんだろうか。
今という時間���中だけで本を読むことはできない。本はいくつもの時間の中に存在するのだ。 (p103)
★続けて下記
わたしたちが本と向き合う直接的な時間経験がある。そして、物語が進行する時間がある。登場人物や作者にもそれぞれの人生の時間が進行している。 (p103)
★つまり本来的な時間とは、
1、読んでいる時間
2、作中の時間(場面)
3、登場人物の時間(台詞)
4、執筆の時間
ということだろうか。
黙読は学習によって身につく行為であり、習得するには意思力や継続的な集中力が必要とされる。それは実のところ、本能の誘いかけに抗うものだ。(p127)
★ニコラス・カーという人の著者「ネット・バカ」より。これはまだ販売しているので読んでみたい。
昔ひとは黙読できなかった。これは他の文献からも分かっている。新聞でさえ声にだされていたのだ。(p127)
読書は本と一体化する。これは重要な——おそらく、もっとも重要な——指摘だ。(p129)
★先のカーの著作より。そして読書とは人生のひな形である。と書いている。
読書とは、自己認識の一形態であり、それが達成されるのは、逆説的だが、自己を他社と重ね合わせたときである。それは、わたしたちをきわめて具体的に変化させる抽象的なプロセスだ。(p130)
★つまり読書。
コンピュータ上での行為を”読書”と定義していいのだろうか。それともそれは、実際のところ、何か別のものなのだろうか。(p133)
★非常に気になるところ。
ブトートがそうするはずはないことをわかり切っていたにもかかわらず。なぜカフカは自分の父親に頼まなかったのだろう? 息子より長生きした父親は、即座に原稿を焼き捨てていたはずだ。(p144)
★カフカとブロートの話。なるほど。ブロートのおせっかいな親切ではなく。そいういう風に考えられる。
彼はある意味、すでに一匹の虫だった。(p144)
★カフカの『変身』について。私はどうだろうか?
「紙の本は私が集中できるように助けてくれる。読書以外には何も提供せず、目の前でページを開いて横たわり、私が目をおとすのを静かにまっている。……」(p167)
★クリンケンボルグという人の言葉より引用。本はそれだけしかしないからこそ。
しかしながら、この。”できる”という感覚——ポケットに収まる小さな携帯機器で、あらゆる時代に書かれた言葉を数百語持ち運ぶことができるという感覚——は、まるで何かの入り口に立っているような感覚を呼び起こす。ただ、その何かが何なのかは、まだ完全にはわからないのだが。(p173)
★ネットの可能性について。その行き先、はまだ見えていない。
文学という道具は確かに不完全であるものの、最も基本的なレベルで実際にはないものを信じさせる力がある。(p177)
★原始的であるからこそ。
結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書は一つの抵抗の行為なのだ。そして、わたしたちが物事に向き合わないことをなにより望んでいるこの社会において、読書とは没頭することなのだ。(p192)
★総論。読書とは抵抗行為。面白い考え方。
それは早く終わらせるものでなく時間をかけるものだ。それこそが、読書の美しさであり、難しさでもある。(p192)
★美しく、難しい。長編小説こそ時間をかけて読むものだ。
もっとも根本的には、それによって私たちは再び時間と向き合う、ということだ。読書の最中には、わたしたちは辛抱強くならざるを得ない。(p192)
★p103のことだろう
この瞬間を、この場面を、この行を、ていねいに味わうことが重要なのだ。と、世界からほんの少し離れ、その騒音や混乱から、一歩退いてみることによって、わたしたちは世界そのものを取りもどし、他者の精神に映る自分の姿を発見する。そのときわたしたちは、より広い対話に加わっている。(p192)
★対話により、さらに広い自分を得るとある。ていねいに読むこと。これは大切なこと。先を急ぐとろくなことはない。
『それでも、読書をやめない理由』は、思いもよらない状況から生まれた。本の虫以外のなにものでもなかったわたしが、突然本に集中することが難しくなったのだ。原因のひとつはテクノロジーにあった。より正確にいうなら、テクノロジーがもたらすノイズだ。(p194)
★日本語版のあとがきより。それは今の自分と同じ状況なのではないか。ノイズ。一つのキーワードである。さらに、これは本書の冒頭にあってもおかしくない。
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個人的なエッセイみたいなもの。
アメリカ文学の話が多いので共感できない。
原題(THE LOST ART OF READING)のほうが、内容を正しく示している。