紙の本
お気に入りの商品だけで構成されたセレクトショップのような小説集
2011/08/15 11:37
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
洒落たタイトルである。時間と空間とがねじれた格好でくっついている。いつもながら片岡義男のスタイリストぶりは変わらない。タネを明かせば集中の一篇の題名で、「木曜日」とは、その中に看板だけ登場するバーの名前。表題は初めて訪れた店を再び訪ねるための道順をあらわしている。
もう何冊目になるのだろうか。片岡がこのスタイルで短篇を書きはじめてから。主人公は女性。それもとびきりの容姿の持ち主で、無論独身。職業はフリーランスの写真家であったり、小説家であったりすることが多いが、独りで生きていくための能力を充分すぎるほど身につけている。美貌の持ち主で、その上実力があるから仕事は放っておいても向こうからやってくる。
季節は圧倒的に夏が多い。白い袖なしのブラウスや膝が見える丈のスカートにサンダルやパンプスといった出で立ちが定番。脚の美しい女性が好みのようで、女性美の規準は、この作家の場合脚にあるといっていい。相手役の男が写真家の場合、まずこの脚を撮ろうとする。しかし、そこまでだ。互いに好感を持っていることは知っているのに、再会を約束して話は終わってしまう。余韻たっぷりである。
両親はすでに亡く、実家には兄が一人いる。自分は東京のアパートや借家で独り住まい。男嫌いではないが、目下のところ独りといった立ち位置を好む。つまりは孤独で自由な生活がしたい。調理師免許を持つ腕前で食事は自分で作る。深炒り珈琲とサンドイッチ、鯛焼きが好き。
片岡はあとがきで、フィクションとして自分の対極にあるものとしての女性を主人公にしていると述べている。しかし、虚構なら女性にしても、もっといろいろなタイプの女性が考えられるだろう。虚構というより理想の女性像ではないのか。こんな女がいて、こんな町に住み、こんな生活をしてたら。作家の思いのままに描けるのだから何でもありだ。それが、このシンプルさ。
片岡義男の書く小説には不快なものが登場しない。人通りの絶えた盛り場や忘れ去られたような商店街、どこにでもある歩道橋や私鉄のホームといったありふれた背景に容姿端麗な美女を一人置くだけでストーリーが動き出すのだ。不必要な脇役や話が横道にそれるような夾雑物は徹底的にあらかじめ排除されている。
作家の目に映るのは、作家が見ようとしたものだけ。つまりはお気に入りの商品だけで構成されたセレクトショップのような小説集。あまり現役の日本人作家の小説を読まないので比べようもないが、こんな短編集ってほかでは見たことがないような気がする。
舞台背景と人物名を変えたら、『ニューヨーカー』あたりに連載できそうな匂いがしている。日本の夏から湿気を取り去り、男から汗くささ、女から世間体を気にする不自由さを取っ払ったような、全然日本的でない味わいの短篇小説集である。好きな人にはたまらないが、理解できない人には何の意味もない、嗜好品のような小説集、といったら言い過ぎだろうか。
久しぶりにお気に入りの喫茶店に入ったらいつもの味と香りの珈琲が出てきた。そんな味わいの短編集。
投稿元:
レビューを見る
注文しました。
このタイトルには、逆らえない。
(2012年04月11日)
届きました。
(2012年04月13日)
投稿元:
レビューを見る
三省堂書店で、片岡義男の新作が目に留まったので、早速買って読んでみた。久しぶりの片岡義男作品。写真集や洋画を見ているような描写が独特なのと、登場する女性のキャラクターが変わっていなくて、懐かしさと安定感を感じることが出来ました。高校生の頃、狂ったように読んでました。片岡義男の本の世界に登場してくるような女性が世の中にいて大人な恋愛をするんだ、と本気で考えてた。ハズかしいねぇ。
投稿元:
レビューを見る
洒落たタイトルである。時間と空間とがねじれた格好でくっついている。いつもながら片岡義男のスタイリストぶりは変わらない。タネを明かせば集中の一篇の題名で、「木曜日」とは、その中に看板だけ登場するバーの名前。表題は初めて訪れた店を再び訪ねるための道順をあらわしている。
もう何冊目になるのだろうか。片岡がこのスタイルで短篇を書きはじめてから。主人公は女性。それもとびきりの容姿の持ち主で、無論独身。職業はフリーランスの写真家であったり、小説家であったりすることが多いが、独りで生きていくための能力を充分すぎるほど身につけている。美貌の持ち主で、その上実力があるから仕事は放っておいても向こうからやってくる。
季節は圧倒的に夏が多い。白い袖なしのブラウスや膝が見える丈のスカートにサンダルやパンプスといった出で立ちが定番。脚の美しい女性が好みのようで、女性美の規準は、この作家の場合脚にあるといっていい。相手役の男が写真家の場合、まずこの脚を撮ろうとする。しかし、そこまでだ。互いに好感を持っていることは知っているのに、再会を約束して話は終わってしまう。余韻たっぷりである。
両親はすでに亡く、実家には兄が一人いる。自分は東京のアパートや借家で独り住まい。男嫌いではないが、目下のところ独りといった立ち位置を好む。つまりは孤独で自由な生活がしたい。調理師免許を持つ腕前で食事は自分で作る。深炒り珈琲とサンドイッチ、鯛焼きが好き。
片岡はあとがきで、フィクションとして自分の対極にあるものとしての女性を主人公にしていると述べている。しかし、虚構なら女性にしても、もっといろいろなタイプの女性が考えられるだろう。虚構というより理想の女性像ではないのか。こんな女がいて、こんな町に住み、こんな生活をしてたら。作家の思いのままに描けるのだから何でもありだ。それが、このシンプルさ。
片岡義男の書く小説には不快なものが登場しない。人通りの絶えた盛り場や忘れ去られたような商店街、どこにでもある歩道橋や私鉄のホームといったありふれた背景に容姿端麗な美女を一人置くだけでストーリーが動き出すのだ。不必要な脇役や話が横道にそれるような夾雑物は徹底的にあらかじめ排除されている。
作家の目に映るのは、作家が見ようとしたものだけ。つまりはお気に入りの商品だけで構成されたセレクトショップのような小説集。あまり現役の日本人作家の小説を読まないので比べようもないが、こんな短編集ってほかでは見たことがないような気がする。
舞台背景と人物名を変えたら、『ニューヨーカー』あたりに連載できそうな匂いがしている。日本の夏から湿気を取り去り、男から汗くささ、女から世間体を気にする不自由さを取っ払ったような、全然日本的でない味わいの短篇小説集である。好きな人にはたまらないが、理解できない人には何の意味もない、嗜好品のような小説集、といったら言い過ぎだろうか。
久しぶりにお気に入りの喫茶店に入ったらいつもの味と香りの珈琲が出てきた。そんな味わいの短編集。
投稿元:
レビューを見る
夏期休暇中に読んだ4冊のうちの1冊。2011年の夏の時点で著者の最新作となる短編集。7編すべてが書き下ろしで、過不足のない構成、端正な描写と独特の言葉遣いによって朝の窓のように開かれる世界観は相変わらずで、見事な職人技としか言いようがない。高橋源一郎は『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)のなかで、『片岡義男は、日本文学における、もっとも革新的な文章の書き手ですが、批評家からはほとんど無視されています。関川夏央は「より広く日本語表現としての文学を考えるとき、彼はそのもっとも重要なにない手のひとりとなる」と書いていますが、まったく同感です。湿っぽい日本文学の伝統と、完全に切れた、彼の文章が見せる世界の光景ほど魅力的なものは他に例を見ません。この文章こそ、まねすべきものの筆頭です』と書いていて、僕もそう思っている。『フィクションとは間接性そして他者性のことだ。自分の考えによればもっとも重要なこのふたつのものを、女性を主人公にすることによって、僕はいっきに確保することが出来る。少なくとも自分ではそう確信している』(あとがき)。
投稿元:
レビューを見る
片岡義男の小説に出てくる女性はいつも精神的に独立している。今回の7篇の短編小説もそうだ。そのほとんどが小説家や詩人など、孤独を肯定的にとらえて暮らす都会の女性が主人公だ。かたわらに男性が現れ、よどみのない会話から絵画的なまぶしさのある場面へと続く。
表題作には、平日の夜、偶然同じ電車に乗り合わせたイラストレーターの女性と翻訳家の男性が登場する。そのひと月ほどまえ、夏の陽ざしの只中で、彼女は220円の誕生日プレゼントを彼に渡した。色違いの水鉄砲を2丁。まずは彼が2丁を手にして彼女を、次に彼女が彼を射ち、そして並んで残りの水の全てを頭上に向けて射った……。この場面を機に、男性は小説の創作を決断する。小説が生まれる過程が惜しげもなく登場人物たちによって明かされる。記憶だけを材料にして創作するという著者の女性への関心が、物語に不思議な明るさをもたらしている。
(「週刊朝日」 2011/9/16 西條博子)
投稿元:
レビューを見る
題名に惹かれ図書館で予約してかりました。
でも読み進めてがっかり。
バブル世代が若い頃を回顧してるというか
全体的にキザ過ぎて途中でリタイア・・・。
投稿元:
レビューを見る
タイトルがすてきだったので読んでみたけど、
トレンディドラマ?バブルっぽくて、わたしにはちょっと。
短編でしたが全部を読みきれませんでした。
アラウンド40向けだとおもう。
投稿元:
レビューを見る
久々の片岡義男の短編。
近著ということで、最近はどんな風かなと思ったが、
いい意味でも悪い意味でも変わらずの作風。
でも、そこがいいなと個人的には思う。
バイク・コーヒー・写真・・・
安心して読める安定感。
投稿元:
レビューを見る
片岡義男らしい短編です。特にカメラが出てくるものは、雰囲気がよくて楽しめました。
何かつい手にとってしまいます。
投稿元:
レビューを見る
相変わらずの文体に、読んでいて安心感はある。時折、鮮やかな情景が織り込まれているので、はっとさせられるのが楽しく、読後感は悪くない。しかし、著者の本を読み慣れているなら、退屈な感じも否めない。ただ、驚いた点がひとつ。本作のある短編内の、西瓜を食べる少女の記述を、25年程前に著者の別の作品で読んだことがある。衣服等の詳細は異なる部分もあるが、本作で彼女は25年後の姿で主人公となっていたのだ。以前の話とは全く別の話なのだが、現実と同じだけの時の流れを本の中のヒロインに見ることができたのだ。驚くと同時に、案外うれしいものだった。
投稿元:
レビューを見る
退屈だ。
相変わらず退屈な物語だ。
だから読む。上質な退屈をしてみたいから片岡義男の描く退屈な日常を読む。
日常といっても非日常なんだけれど。話し言葉ひとつとってもそう。あんなしゃべり方する人はいない。
あっ、でも戦場カメラマンの渡部○○さんがいるか。
投稿元:
レビューを見る
久々の片岡義男ワールド。美しくかっこいい女性が紡ぎ出す物語。
キーワードは、時間、写真、ひとり。
からりとした文体はいつも通り。
投稿元:
レビューを見る
作家:片岡義男の好きな女性像が想像できる短編集。
各短編にひとりずつの女性がモチーフとなっている。
どの女性も自立していて、長身で、美しい清楚な人を想像させる。
その女性を引き立てるのが、必ずそばにいる男性である。物語は主に、主人公らしい女性と引き立て役の男性で構成されているのだが、ふたりの会話が気障だけどすっきりしていて心地いいのだ。
こういうのを雰囲気小説というのだろうか。とりたてて事件が起こる訳ではないけれど、ふたりの間に流れる雰囲気や余韻、女性の魅力をふわっと感じ取れて、都会的なカタルシスがある。
投稿元:
レビューを見る
短編集。主人公はどれも女性。そしていくつかの短編は一歩か二歩ほど下がったところに男性が同行者として存在している。いろいろな要素がつながり、特定の視点が決まると物語が始まっていく。ありふれた日常に物語を見つけることができそうと思う。それを文字にできるのはプロの作家だけだろうとも思う。