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  • カテゴリ:一般
  • 発売日:2010/04/01
  • 出版社: 新潮社
  • サイズ:20cm/602p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-10-353425-9

紙の本

1Q84 a novel BOOK3 10月−12月

著者 村上 春樹 (著)

そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。【「BOOK」データベースの商品解説】【毎日出版文化賞(第63回)】...

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1Q84 a novel BOOK3 10月−12月

税込 2,090 19pt

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1Q84 3巻セット

  • 税込価格:6,05055pt
  • 発送可能日:1~3日

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商品説明

そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。【「BOOK」データベースの商品解説】

【毎日出版文化賞(第63回)】【新風賞(第44回)】そこは、世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった−。待望の書き下ろし長編小説、第3弾。【「TRC MARC」の商品解説】

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書店員レビュー

ジュンク堂書店新潟店

物語は牛河を主要人物...

ジュンク堂書店新潟店さん

物語は牛河を主要人物に加えてさらに深みを増している。
少しずつ天吾と青豆を追い詰めていく感じはハラハラさせられたが、全体的に見るとストーリー展開が少し遅かった印象が拭いきれない。
さらに、読み終わった後、謎はますます謎に包まれた感じも少なからず残っている。
皮肉にもBook3の内容そのものでなく、Book4が発売されるかどうかということが一番気になる。
もう一度Book1冒頭の首都高速の場面から読み返してみたら何か分かるだろうか。
文芸書担当 小松

みんなのレビュー1,163件

みんなの評価3.8

評価内訳

紙の本

『BOOK3』が書かれたことによって……

2010/04/22 17:15

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:K・I - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹は賛否の分かれる作家だ。
好きな人は、「ハルキスト」と呼ばれるほど熱狂的だし、
嫌いな人は、大嫌いだ、という人もいる。
あるいは、その中間くらいで、彼の小説を読んでいる人もいるだろう。
しかし、本来的に作家というのは、賛否が分かれるものだと思う。
ヘミングウェイもカーヴァーもジョイスも。
たとえ、ある時代においては、ほとんどすべての読者あるいは批評家が、
賛辞を送っていたとしても、それから数十年、百年後にはすっかり忘れられているかもしれない。
あるいはその逆もある。
戦前、ジョイスはたんなる「前衛作家」の一人としかみなされていなかったという。
それが、戦後、たんに「前衛」にとどまらず、現代において小説を書く人間にとっての、一つの「参照軸」のようになった。
まあ、そんな遠い時代のことを考えるのはやめるとしても、
僕は基本的に村上春樹という作家が好きだし、その小説を評価している。
僕が生きている間に村上春樹ほど「成功」する日本「語」作家はでてこない、と思う。
だから、僕が死ぬまで、村上春樹は僕の中で一つの「里程標」であり続けるだろう。

『1Q84 BOOK3』を読み終わった。
「ネタばれ」になるといけないから、極力ストーリーには触れないが、
この小説は僕が読んできた村上春樹の小説の中でもっとも好きになった小説だ。
今までは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が一番好きだった。
『ねじまき鳥クロニクル』よりも『海辺のカフカ』よりも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が好きだった。
もし、『1Q84』が『BOOK2』で終わっていたとしたら、僕の一番好きな村上春樹作品は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のままだっただろう。
しかし、『BOOK3』が出たことによって、それは塗り替えられた。
『1Q84 BOOK1』と『BOOK2』では、「天吾」と「青豆」の章がそれぞれ交互に繰り返されていた。しかし、『BOOK3』では、ある第三の人物の章が増えている。つまり、三つの章が交互に繰り返されていくのだ。
それは、小説を書く技量としてはかなりのものを要求される作業だったと想像できる。
まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」が「右脳」と「左脳」を別々に働かせるように、村上春樹は、章ごとに脳を切り替えて執筆したのだろう。
今までの「二つ」から「三つ」へ。
それは、かなりヘヴィーな仕事だったと想像される。
それは、テクニカルな点だが、それを村上春樹は自身に課して、そしてそれを見事に成し遂げたのだ。

はたして、『BOOK4』はあるのか?
あるかもしれないし、ないかもしれない。
僕は『BOOK3』があったことで、『1Q84』という作品が『BOOK2』で終わった場合よりも、「よくなった」と思うが、さらに『BOOK4』が書かれる必要があるかどうかは分からない。
たぶん、今、村上春樹は、作家として一番「脂が乗っている」時期なのだろう、と思う。
60代で「脂が乗っている」というのは「ふつうの」作家よりも時期的に「遅い」気がするが、
それは、彼が肉体を鍛えていることと、あるいは関係があるのかもしれない。

『1Q84 BOOK3』を読んで、僕は『1Q84』という「深い森」に足を踏み入れた。
ただ、アマチュアとはいえ、一応、小説を書いている人間としては、
その影響の大きさを、ある意味では恐れている。
つまり、自分も『1Q84』のような小説を書いてしまうのではないか?ということ。
もしかしたら、今年締め切りの小説の新人賞には、
『1Q84』の影響が色濃く反映された小説が多数、投稿されるかもしれない。
それは避けたい、と僕は思う。
もちろん、『1Q84』はすばらしい「成果」だと思うし、すばらしい日本語小説だ、と思う。
でもそれの「まね」をしては、自分の小説とはいえない。
『1Q84 BOOK3』を読み終わって、三日ほど経っているのだが、
そろそろ、僕は『1Q84』という「深い森」の中から出てこなくてはならないのだ。
個人的に。

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紙の本

リトル・ピープルが作る 「空気さなぎ」 は神に似せた何ものであろうか

2010/04/25 16:34

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:サムシングブルー - この投稿者のレビュー一覧を見る

1Q84 BOOK3の表紙をひらいて、まず目次を読む。
 第1章 意識の遠い縁を蹴るもの
村上春樹さんの言葉はスリリングであり、旋律的な響きを感じます。
第31章まで続く目次を読んだだけで、村上ワールドへ誘われていきました。

すべての登場人物は孤独です。
 「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」(第25章)
その孤独は閉塞的であり、戦慄的です。

 「ひとりぼっちではあるけれど孤独ではない」(第2章)
それゆえ孤独は愛に到達します。

その孤独を執拗に書いていく村上春樹さんの小説を読み終わり、この世界を創った神、天地創造を思いました。
『旧約聖書』の冒頭に
 1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜ができた。
 2日目 神は空(天)を作った。
 3日目 神は大地を作り、海が生まれ、植物ができた。
 4日目 神は太陽と月と星を作った。
 5日目 神は魚と鳥を作った。
 6日目 神は獣と家畜と、神に似せた人を作った。
 7日目 神は休んだ。
 
月が二つ浮かぶ世界からやって来た6人のリトル・ピープルが作る「空気さなぎ」は神に似せた何ものでしょうか。

青豆がタクシーのなかで聴いたヤナーチェクの交響曲『シンフォニエッタ』から始まるBOOK1は第一楽章であり、BOOK2は第二楽章、BOOK3は第三楽章のように奏でます。
1Q84 BOOK4は、はたして終楽章になるのでしょうか。

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紙の本

今私がここにいるということ

2010/04/24 20:06

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る

思えば不思議な縁だなと思う。

BOOK1とBOOK2を手にしたきっかけは
登場人物のひとりがディスレクシア的な傾向を持つという情報を得たからだった。

そして、その気持ちだけでは読書を始める動機としては弱く、
入手もゆっくりだったが、買ってから1ヶ月くらい置いて、
いよいよ読み始めないと一生読み始めないような気がして
読んだのは夏休みの宿題のように2009年8月だった。

そして、登場人物のディスレクシア的傾向が大きな意味を持ったのは、
BOOK1のみだったといってもよく、
ディスレクシアがどう描かれているのかを確認するために本書を読むのだとしたら、
そこで中断してもよいくらいだった。

だが、その「役割」を終えてもなお、この物語の続きを見届けたいという気持ちがそこにあった。

BOOK1では確かに高揚し、BOOK2では少しその気持ちが収束していくようで、
これで終わるんだと微妙な感じだなと思っていたところに、BOOK3の情報が来て、
発売日に届くように手配している自分にちょっと不思議な気持ちを覚えたくらいだ。

私はハルキストでもなければアンチでもない。

そもそも、正真正銘1Q84が最初に手にする村上春樹の書き下ろしだった。

翻訳書は手にしたことがあったし1Q84後も読んでいるが、
書き下ろしは、今でも1Q84しか読んでいない。

新たに過去の村上作品に手を出すかといわれれば、
たぶん読まないような気がしている。

そんな読者なので、他の方の書評のように、
ほかの村上作品と比較したことは何ひとつ書けない。

そして、これがどういう作品かというよりも
自分にとってどういう作品だったのかをやっぱり書いてしまうような気がする。

読了した今、清々しい気持ちと逆にすっきりしすぎなのが
物足りないようなもったいないような気持ちが入り混じっている。

自分の存在意義を求めて真摯に生きる主人公たちがいて、
印象的、象徴的な言葉たちが飛び交うというだけで、
自分としては好きな展開であるのだが、
予定調和的なSF的恋愛小説に収束しているようでもあり、
評価や好みは分かれるのではないかという印象を受けた。

本シリーズは、BOOK1が554ページ、BOOK2が501ページ、
そして、BOOK3が601ページとかなりの分量である。

が、他の本でこの分量だったらありえないだろうというくらいに
読み始めると不思議と速く読み終わってしまう本である。

私は読書のスピードがそれほど早いほうではないのだが、
これははじめたら一気に駆け抜けたくなるし、そして、駆け抜けることができる。

かつて私は、この本はディスレクシアの人にはすぐには読めない本ではないのか、
ディスレクシアを登場させるなら読みやすい媒体で同時に出してくれたらよいのに
有名な人がそうしてくれたらそれが主流になるのにと書いたことがある。

今でも本は誰もが読める形に著者や出版社の責任でできたらよいと思うし、
それができないならそれを「無償のボランティア」にやってもらうのではなく、
その変換できる存在である彼らを「専門職」として扱うべきだろうと思っている。

いきなりこんな話をなぜ書いているのかというと、
本書は、媒体変換がまだされていない状態で、
特に「読みやすい図書」を意識されて作られているわけではないと思うのだが、
それでも、一種の読みやすい本だろうなと思ったのだ。

まず、込み入った展開になっても、
前に戻って展開を確認しなおさなければ前に進めないということがない。

BOOK1やBOOK2を読んだのが半年から1年前で、
あんまり記憶に残っていなくても大丈夫だ。

BOOK3を読みながら、必要なことは思い出せるようになっている。

青豆と天吾をつなぐ第三の存在視点の章が登場したおかげで
なおさら前後関係がわかりやすくなる。

BOOK1もBOOK2も青豆と天吾の章で交互に編まれ、きっちり24章だった。

BOOK3ではそれを崩しており、それはある種の安定を崩す
大きな一歩だったのではないかと思う。

そして、それは成功しているように感じた。

本書は、セリフと地の文が多く、例えばBOOK1のディスレクシアのように、
一般の人になじみのない言葉が出てくればていねいにセリフや地の文の中で説明までされてしまう。

それが取ってつけたようではなく自然である。

前の章でどうなったんだろうとか思ったことでも、だいたい次の章では解決されている。

特にBOOK3では、その傾向が強いようだ。

謎も確かに残っており、それで別な話を展開しようと思えばできるとは思うが、
それが再び展開されるのか、これで終わるのかはわからない。

ただ、BOOK2が終わったときよりも、安定感がある終わり方、ではある。

きっと主人公はこう思ったんだろうなと想像すると次の瞬間にそれがテキストに書かれていることもあった。

主人公達の置かれている状況は、特殊な状況であるし、自分とかけ離れているのだが、
自己内省がみっちりされているので、共感はしやすい。

なぜかBOOK1よりもBOOK2よりも共感して読んでいたように思う。

そして、それぞれの人物がなぜつながっているのかがよりわかった。

あるいは、BOOK1とBOOK2を読んでいた2009年8月頃にはなくて、
今の私にはある要素が、非可逆的な変化が、
本書に共感しやすくなる私を創り上げているのかもしれない。

これは読者である私の心がそうさせているのかもしれないが、
この少し前にゆっくりゆっくり時間をかけて再読『時の旅人』を思い出した。

ゆっくり時間をかけて読んだ児童書と高速に駆け抜けるように読んだ本書の読後感が
一緒というのは不思議で、今の私の精神状態がそうさせているのかもしれないとも思う。

それから、他の本の中にいた、他の時を旅する者たちの存在、
自らが本の中に存在する者と知り、存在したいと願った登場人物たちのことを思った。

そうすると、やはり、今この時代にこの肉体を持って生きていることを味わって
自分の物語を懸命に生きるしかないんだということに思い至る。

  私は誰かの意思に巻き込まれ、
  心ならずもここに運び込まれたただの受動的な存在ではない。

  たしかにそういう部分もあるだろう。

  でも同時に、私はここにいることを自ら選び取ってもいる。

  ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ。

落ち着いたらBOOK1から読み直してみようかな思う。

それぞれ別々な時間に生きていると思いながら互いを求めていた者たちが
お互いが知らないところで語ったり聞いたりしている「同じ言葉」、「同じ象徴」で
どうつながっているのかを今度はゆっくり確認してみたいと思うのだ。

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紙の本

対をなして物語は進む。

2010/04/20 00:02

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:dimple - この投稿者のレビュー一覧を見る

BOOK3<10月‐12月>を読了した。正直言って、BOOK2で完結したのかと思い込んでいたが、さにあらず。BOOK1が<4月‐6月>,BOOK2が<7月-9月>であることからすると、この先BOOK4<1月‐3月>があると考えるのが自然かもしれない。

BOOK2では、あの嵐の夜に青豆とリーダー、天吾とふかえり(深田絵里子)との間にそれぞれ生じた出来事のうち、ストーリーとして重要なのは明らかに青豆とリーダーの方であった。

しかし、BOOK3では、あの嵐の夜のもう一方の対となる出来事、すなわち天吾とふかえりの間に起こったことが重要な要素となってくる。嵐の夜の出来事という点においては、BOOK2とBOOK3は対をなしている。

この小説は、2つの対となるものが数多く描かれる。まず小説全体の章立ては、青豆を述べた章と天吾を述べた章で交互に構成され、まるで西洋音楽の対位法の如く、それぞれが独立を保ちながらも、全体としての調和を保っている。

マザ(mother)とドウタ(daughter)、パシヴァとレシヴァ、青豆と証人会の布教に従事する母、天吾とNHK集金人の父・・・そして何より、1984年と1Q84年。これらはすべて対をなしている。

これらの対をなす構造は一体何を意味するのか?BOOK3では天吾の父が描かれた。とすると、BOOK4では天吾の母が描かれるのか?(そのために、BOOK3では安達クミが登場したのか?)では、BOOK3での牛河と対をなすのは何なのか?

青豆はプルースト『失われた時を求めて』をなかなか読み進めることができない。『失われた時を求めて』で描かれているとされる、過去と現在の円環的な時間のつながりと本書の1Q84年は関係あるのか、ないのか?謎は深まるばかりである。これらの謎を解くためにBOOK4を待つことにしたい。

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紙の本

小谷野敦のように、村上春樹をクソミソとはいわないまでも、エンタメと決めつける気は、私にはありません。だって、エンタメ系の作家でここまで面白くて文章がきちんとしている人って、そんなにいないし、面白さの質が違うもの・・・。で、読んだ証拠としての評でした。きちんと完結してよかった・・・

2010/12/11 18:19

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

取り立てて書くことはないんですが、読んだという証拠という意味で、簡単に触れておきます。まず、誰でも思ったのでしょうが、意外と早く続きが出たな、と。それと、こんなに早く出版予告がでるのも珍しいな、と。で、私はその間に、『村上春樹全作品1990~2000』で、『ねじまき鳥クロニクル』を読み直しをしていて「そうか、『ねじまき鳥クロニクル』も第1部と第2部で一旦完結して、その直後に第3部が書き始められた、それと同じじゃん」と思いました。

村上だけじゃなく、上橋菜穂子も『精霊の守り人』を一巻で、『獣の奏者』を二巻で、ル=グウインも『ゲド戦記』を三巻で完結したといいます。ここに作者と読者の意識の乖離があります。読者にすれば少しも終わっていません。無論、完結することはエンタメでは求められても、文学においては必要ではない、むしろ閉じないことが芸術だとする向きもあります。

ただ、物語中に示された謎に明確な答えを与えないまま終了することを主題としたリドル・ストーリーは、それが90%近くまで書き終えられたときにこそ余韻として私たちに感銘を与えますが、明らかに続く物語が暗示されている場合は、それをもって完結した、というのは作者の書き上げた、今は続きも考えられないという解放感がもたらした言葉に過ぎず、うっすらと姿がみえている、というのが本当のところでしょう。

無論、完結したとされる話の評判が良くなければ、その続きが書かれることはないのでしょうが、幸いなことにこれらはどれも評価が高く、作者としても続編が書きやすかったと思われます。ただし、上橋やル=グウインと村上の小説で違うのは、前者がともかく、シリーズ全体の中で見れば、その第一話として完結しているのに対し、村上の『ねじまき鳥』も『1Q84』も、最初の二冊では話自体がまったく終わっていない、ということです。

そういう意味で、出版直後に続きが書き始められるというのは、自然ですし、それが早めの出版予告になったともいえます。ただし、我が家の娘たちに言わせると、「村上春樹の小説って、ここで終わり、って村上が宣言すれば、それで読者が納得してしまうような、どうでもいいような部分があるんじゃない?」なんていうことにもなっていくわけです。ただし、『ねじまき鳥』にしても『1Q84』にしても、第3部が書かれたことで、話の95%までは終わった、とはいえるのではないでしょうか。

登場人物にていて言えば、前二巻と年齢に若干の異動があるのは、この半年の間に誕生日があった解釈するのが自然でしょう。主人公が、青豆雅美と川奈天吾であることは変わりませんが、マダムとタマルの出番はぐっと減ります。それは『空気さなぎ』の出版に関わった〈ふかえり〉、戎野先生、小松についても影が薄くなります。逆に天吾の父親の重みが増して、彼が入院している病院の看護婦たちがなかなか面白い動きを見せます。

でも、もっとも大きい存在が牛河です。彼は財団法人 新日本学術芸術振興会 専任理事の名刺を持つ醜い容貌の探偵で、背が低く、頭はいびつで髪はもしゃもしゃと縮れ、足は短く曲がり、眼球は飛び出し、首の周りにはむっくりと肉が付き、眉毛は濃く太くつながりそうとあります。彼の実家は裕福で、父親は医者ですし、二人の兄も医者の道を進み、妹はアメリカ留学ののち、今は同時通訳の仕事に就いていて、他の家族は普通の容貌だそうです。

天吾、青豆の前に立ちはだかる牛河、三人がどういう運命をたどることになるか、じっくり楽しんでください。ちなみに、私が楽しんだのは、天吾、青豆の関係で習志野市の市立小学校のある津田沼と、牛河の住まいとして文京区小日向が出てくる部分です。前者は、我が家がある町ですし、津田沼は夫と娘二人が毎日使っているJRの駅です。また、後者は夫が生まれて育ったところで、今も小中学校の同級生がたくさん住んでいるそうです。そういえば、市川も私が通った女子校があります。

最後にレイアウトが面白いので、うまく再現できるか自信はありませんが、目次をそのまま写しておきます。ちなみに、装幀は、新潮社装幀室、装画は NASA/Roger Ressemeyer/CORBIS です。


第1章 牛河 意識の遠い縁を蹴るもの
   第2章 青豆 ひとりぼっちではあるけれど
        孤独ではない
      第3章 天吾 みんな獣が洋服を着て
第4章 牛河 オッカムの剃刀
   第5章 青豆 どれだけ息をひそめていても
      第6章 天吾 親指の疼きでそれとわかる
第7章 牛河 そちらに向かって歩いていく途中だ
   第8章 青豆 このドアはなかなか悪くない
      第9章 天吾 出口が塞がれないうちに
第10章 牛河 ソリッドな証拠を集める
   第11章 青豆 理屈が通っていないし
        親切心も不足している
      第12章 天吾 世界のルールが緩み始めている
第13章 牛河 これが振り出しに
       戻るということなのか?
   第14章 青豆 私のこの小さなもの
      第15章 天吾 それを語ることは許されていない
第16章 牛河 有能で我慢強く無感覚な機械
   第17章 青豆 一対の目しか持ち合わせていない
      第18章 天吾 針で刺したら赤い血が出てくるところ
第19章 牛河 彼にできて普通の人間にできないこと
   第20章 青豆 私の変貌の一環として
      第21章 天吾 頭の中にあるどこかの場所で
第22章 牛河 その目はむしろ
       憐れんでいるように見える
   第23章 青豆 光は間違いなくそこにある
      第24章 天吾 猫の町を離れる
第25章 牛河 冷たくても、冷たくなくても、
       神はここにいる
   第26章 青豆 とてもロマンチックだ
      第27章 天吾 この世界だけでは足りないかもしれない
第28章 牛河 そして彼の魂の一部は
   第29章 青豆 二度とこの手を放すことはない
      第30章 天吾 もし私が間違っていなければ
第31章 天吾と青豆 サヤの中に収まる豆のように

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紙の本

1984年と『失われた時を求めて』の1914年

2010/07/19 15:05

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 ある事情でBOOK1、2未読のまま、さほどの期待なしに読んだせいか、相当に面白かった。この小説の構造の妙に興味をおぼえた。三つの視点の物語が同時並行にではなくて、時間が少しずれて語られるために運命の暗転に、なにかリアリティが増す。
 つまりヒロインが、彼女の部屋から見える公園の滑り台の上に愛する男がのぼったとき、そのことに気づくことのなかった偶然(それに気づけば、その後この物語の相貌はかなり変化していたろう)の描出が面白く、私はふと自分が知らない、自分にまつわる多くのことを、あるリアリティをもって想像した。
 また現実の1984年に対する1Q84年が独立した世界として描かれているわけではない小説のかたちも面白い。
 ミステリー的であり、エンターテインメント性が十分にありながら、それにとどまっていない。恐怖や死の描写が見事だと思う。

 けれど私が一番興味をおぼえたのは、作者がそれほど強い関心をもって書かなかったと思われる部分かもしれない。それはある部屋にかくまわれたヒロインのために用意された五冊の『失われた時を求めて』である。
 おそらく時間がたっぷりあるヒロインの読む本はマルセル・プルーストの長編小説でなくてもよかったのであろう。この小説ほど長くはないがトルストイやドストエフスキーの長編でもよかったし、あるいは『大菩薩峠』や『源氏物語』でもよかったのかもしれない。けれど作者が非常に影響をうけたという『カラマーゾフの兄弟』ではそこに意味がこめられすぎるきらいがあるし、中里介山の時代小説や平安朝の古典では少し調子が狂うという気持ちがあったかもしれない。
 ともあれ私は作者が五冊の『失われた時を求めて』と書いたことに、ある詮索的な関心をいだいた。
 〈五冊の『失われた時を求めて』〉は現実に存在するのだが、この筑摩世界文学大系本は最初の巻の刊行が1973年、そして最後に刊行されたのは1988年で、1984年には完結していない。
 この時期に完結したかたちで存在する『失われた時を求めて』邦訳は新潮社から1950年代に出た13冊(文庫も同じ)と、それを70年代に7冊にまとめたものしかなかった。
 また筑摩世界文学大系本以後では、同じ出版社によるプルースト全集のなかの10冊、その文庫化(10冊)、そして集英社の13冊(文庫も)の新訳へと続く。
 作者は〈五冊の『失われた時を求めて』〉と書いたとき、こうした邦訳の刊行史を全く知らなかったわけではないだろう。ただ1984年時点で一応は揃えられる「7冊」にしなかったのには理由があるかもしれない。
 その7冊本は共同訳でもあり、また当時としては古すぎる(1950年代の訳をそのまま本にしただけだ)。これはアメリカ文学の翻訳者でもある作者にとって好きになれない本だったのではないか。
 《食卓の上にプルーストの『失われた時を求めて』が積み上げられている。新品ではないが、読まれた形跡もない。全部で五冊、彼女は一冊を手にとってぱらぱらとページをめくる。》
 すでにふれた五冊の『失われた時を求めて』は、函入り菊判で3段組であり、「ぱらぱらとページをめくる」感じの本ではない。函から出されたかたちであろうと、ページを開けば、行替えの少ない細かな文字の密集が読む気力を萎えさせる、そのような本である。だがこの五冊は、『失われた時を求めて』の日本最初の個人訳であり、元にした原文も当時として新しかった(たまたま私は所持しているが、好きな蔵書である)。
 
 さて村上春樹とマルセル・プルースト、『1Q84』と『失われた時を求めて』には共通点があるだろうか。
 無理に探さなくても幾つかの類似点があるように思う。まずは本や音楽、絵画と演劇(プルースト)や映画(春樹)についての多くの言及が挙げられる。
 また『1Q84』と『失われた時を求めて』は、ともに独特な「時」の小説という共通性があるように思う。
 『失われた時を求めて』は恐ろしく奇妙な小説であって、そこでは「時」が普通の小説のように進行しない。たとえば終わりがないかのように延々と続く晩餐会や夜会がいくつかあるが、一つの夜会の文字数が優に『1Q84』1冊の半分近いといえば、その途方もない長さが分かるだろう。
 またこの小説では、描かれているのが一体何年ごろなのか、最終巻に登場する第一次世界大戦の始まった1914年(とその前後)の記述を例外として明示されない。そのため語り手が今いくつぐらいなのか、なんとなく推測するしかない。
 ドストエフスキーをはるかに超える、しかじかの場面の異常な長さは『1Q84』のリズミカルな読みやすさと対照的である。だが年がほとんど明示されないのは、1984年という年のみが(そのかたわらの1Q84年とともに)主題化される小説と不思議なつりあいを見せる。1984年という年が『1Q84』において何かは曖昧なままだが。

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紙の本

明瞭なドミナント進行

2010/06/04 22:49

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る

 BOOK3 である。BOOK1-2 と明らかに違うのは、僕らがすでに BOOK1-2 を読んでしまっていること。即ち、それは最初から「続き」として始まったということ。そして BOOK1-2 を読んでいる時と決定的に違うのは、僕らはこの後に BOOK4 が続くことを明確に知っているということだ。
 つまり、言うならばブリッジなのである。橋渡しという意味のブリッジ。あるいは音楽用語の「サビ」だと思ってもらっても良い。あるいは小説全体をひとつの文章になぞらえるなら、起承転結の「転」なのである。
 ただそれは起から承へとまっすぐに繋がってきたものが、急に方向を転換するというような感じのものではない。無理やり変化をつけようとする匂いもない。ただ、BOOK1-2 では天吾の章と青豆の章が交互に続く構成になっていたのに対して、BOOK3 ではそこに唐突に牛河が加わり、リズムは2拍子から3拍子に変わる(ただし、テンポはそのままで)。
 なぜ、ここに来て急に牛河などという醜い脇役が全体の3分の1の章を奪う必要があるのか、それは全く理解出来ない。ただ、BOOK1-2 では大人しくしていた牛河が急に活発に動き出して、ストーリー自体もエネルギーを増してうねり始める感がある。
 でも、その一方で BOOK1-2 でははっきりしなかったいろんなことが繋がり始め、説明がつくようになってくる。僕は、ちょっと辻褄が合いすぎるのは勘弁してほしいな、と祈るような気持ちで読み進んで行く。
 僕はあまりいろんなことを解釈しながら読んだりはしない。そんなことをするともったいない気がするからである。作家のイメージの横溢を、できることなら何も解釈せず、ただ身体いっぱいに浴びていたい気がする。
 で、やっぱり、この小説を今語ってしまうのは適当ではないような気がしてくる。BOOK2 を読み終わって書評を投稿した時とは条件が全く違うような気がする。
 再び音楽の比喩に戻るなら、この BOOK3 はコードで言えば IIm7 で始まって V7 で終わっている。BOOK4 でのケーデンスに向けて、明瞭なドミナント進行になっているのである。今ここで語ってしまうのはもったいない。今ここでは息継ぎさえするべきタイミングではない──そんな気がする。
 そして、それは裏返せば、途中で目が離せないくらい面白いということだ。
 BOOK1-2 の書評の中で、僕は「久々に村上春樹らしい、面白い小説だ」ということを書いた。この BOOK3 でもそのことは変わらない。ただ、少しずつ辻褄が合い始めている。頼むからもう少し辛抱してくれ、と思いながら、そして、村上春樹のことだから、これらを下手にきれいに説明しきってしまうことはないはずだと信じて、僕らは読み進む。
 いつの間にか僕らはもう BOOK4 が待ちきれない崖っぷちに立たされているのである。

by yama-a 賢い言葉のWeb

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「ミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままに」その3

2010/05/26 08:43

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 机の上の携帯電話が小さな光を発して着信を知らせる。
 間髪おかず、ルルルルと着信音が響く。ほんのわずかな時間。向こうの世界とこちらの世界がすこしばかりずれている。
 携帯電話をとる。昔のように配線が存在することはない。だとしたら、小さな箱は何によって、向こうの世界とつながっているのだろうか。
 たしかに声はする。しかし、それは彼もしくは彼女の声と微妙にちがっている。向こうの世界からこちらの世界に届くとき、声はゆがんでしまうのかもしれない。空中のダストに過敏に反応してしまうアレルギー患者のように。

 いまやほとんどの人が何気なく使っている携帯電話であっても、こういうふうに描いてしまえば、そのことに人々はなんらかの意味を探ろうとする。
 それが作者の仕掛けであればそれも甘んじてうけなければならないだろうが、村上春樹の話題作『1Q84 BOOK3』にはそういう描写があまりにも多い。
 この世界は、あるいは1Q84年の世界はというべきだろうか、謎にみちすぎている。
 読者はそれらの謎の意味を解こうと懸命だが、もしかしたら、それはただの携帯電話しかないかもしれない。そこには何の意味もないかもしれない。

 物語の二人の主人公、天吾と青豆。彼らがどのようになっていくのかという好奇心と『BOOK1』と『BOOK2』で描かれた多くの謎が解決されるのだろうかという興味で本作を読みすすんだものの、結局は何も解決しないまま、物語はおわる。
 どこかで答えを見落としてしまったのだろうか。小さな風景。なにげない言葉。引用される物語。あやまりはないか。意味は理解したか。すべてがそんな気分になってしまう。
 もしかしたら、月が二つ空にあっても構わないかもしれない。

 この長い物語はまだ終わらない。
 天吾と青豆はまだ何も行動していないし、何も生み出してもいない。だったら、「僕らはボートから降りて、地上の生活に戻る」ことは、まだできはしない。
 物語は、はじまったばかりだ。

 ◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。

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紙の本

真っ赤な嘘を恐るべき真実に変えてしまう本当の小説

2010/05/11 20:09

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る


はじめに言葉がありました。そして言葉を信じる者は言霊を信じ、言霊の幸ふ精神の王国を言葉の力によって創造することを夢見るのです。

著者はこのようにして1984年に住んでいた青豆と天吾を拉致して「1Q84年」に連れ去り、本巻の最後に元の1984年ならぬもう「ひとつの1984年」、つまり新たな「1Q84年」へといったんは帰還させたのでした。

主人公の青豆と天吾だけでなく、ここで著者がつくりだしたのは、現実と非現実が複雑に入り混じるねじれた時間と空間そのものです。3次元だけではなく4次元、5次元、6次元という数多くの時間と空間が複雑に共存し、相互に微妙な影響を及ぼし合う異数の世界を、そこに生き、死に、また甦る人々(それはもはや普通の意味での人間ではありませんが)の喜びと悲しみを、2人の主人公の運命的な恋を主軸として描くことこそが、著者の狙いなのです。

世紀の大恋愛の周囲には、生い立ちの謎や幼年時代のいじめ、不幸な家族の思い出や秘密結社の暗闘、スパイの張り込みや恐喝、殺人、情事や性交や妊娠、古典音楽や文学者・思想家の名セリフの引用などが過不足なくちりばめられていますが、だからといってそのプロットの斬新さと仕掛けの大きさに比べて物語の本質がさほど新しいわけではなく、むしろいささか古色蒼然たるものであるといえばいえるでしょう。

「彼はその手を記憶していた。20年間一度としてその感触を忘れたことはなかった。」

それはともかく、著者が深夜の書斎で徒手空拳で創造した小説の世界のなんという素晴らしい出来栄えでしょう。
よしんばそれらがことごとく荒唐無稽な「見世物の世界」であったとしても、私たちは著者が手品師のように繰り出す、何から何までまったく真実らしいつくりものあれやこれやを、ついつい「本物」と信じ込まされてしまうのですから。
私たちの目には月はひとつしか見えませんが、きっとある人には2つの月が見えているに違いありません。真っ赤な嘘を恐るべき真実に変えてしまう本当の小説とは、まさにこのような作品をいうのでしょう。

しかしながら、この本の終わりでは、もはや夜空に2つの月は輝いてはいません。
愛すべき愚直な探偵牛河は無惨な死を遂げましたが、怪しい新宗教団体「さきがけ」では相変わらず青豆と天吾の間に誕生するであろう子供を彼らの後継者として追い求めていますし、どこか不気味な6人のリトル・ピープルは、新たな「空気さなぎ」の製造にせっせといそしんでいるに違いありません。

この世の悪に対して正義の鉄槌を振り下ろす深窓の婦人とその忠実なしもべ剛腕タマルも、さきがけの元教組の娘で、小説『空気さなぎ』の原作者である「ふかえり」こと深田絵里子の行方も杳として知れません。

その文章が読む者の心をやわらかくときほごし、無条件に楽しませ、退屈で手あかにまみれたこの世界になにがしかの新しい意味を付け加えることによって、閉塞困憊し切った私たちに「読むことによってもういちど生き直すような類の喜び」を与えてくれる点で、まことに貴重な価値を有するこの作家の「果てしなき物語」は、まだ始まったばかりであり、次なるBOOK4の刊行が、せつにせつに待たれるのです。


♪わが胸の奥の奥にも巣食いたる「空気さなぎ」よ何を孕むや 茫洋

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声を読む

2011/06/25 12:02

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

良質な文学は読む前と読んだ後で読者の現実世界を変えてしまう。
文学が現実世界の現実の人間に仕掛けるささやかな革命。
長い長い物語は、その長さの中で滋味が出てきて、じわじわと現実を変える。長い長い時間の果てに、時間を越えて書かれたことが歴史となって、その静かな熱で持って、遠い場所の誰かを動かす。

BOOK1とBOOK2から1年を経て世に出たBOOK3は、1,000ページ以上の導入部の先の、ある普遍的な物語。この世界がどんな世界であっても、人生において、自分にとって大事なものを追い求め、守ることには価値がある。そんなストレートな言葉を現代において語るには、世界さえも再設定して、長い導入部の果てに、語る必要があったのかもしれない。

主人公たちはみな孤独だ。天吾も青豆も、ふかえりも牛河もタマルも、みなそれぞれの毎日を孤独に淡々と生きている。自らの役割にほとんど忠実に。そんな淡々とした毎日を打ち破って人生を前に進めるのは、「思い」だ。心の中に取り憑いてしまったある「思い」。留めようもなく込み上げてくるもの。死にさえ近づいて、もしかしたらそのままあちら側に行ってしまいかねなくても、追い求めたい何か。

非現実的な夢想家である村上春樹氏は、非現実的な世の中にあっても夢想することを止めない。止められない。世界は声を求めるかもしれないが、その声は誰か個人の声で、それはその人の声だ。この滋味の出るような文学が仕掛けてくるささやかな革命の出口、それはきっと、読むものが孤独の中で誰かに向けて発する小さな声だ。

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首都高はこの時間も渋滞しているのだろうか。

2010/08/22 22:33

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投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 二人の主人公「天吾」と「青豆」をめぐる物語。
 
 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』というクラシック音楽が冒頭はじめときどき小道具として登場する。もちろん知っていた方が世界を理解するのに有効なのだろうが、たぶん、旧約・新約両聖書を知らずとも『エヴァンゲリオン』や『ヱヴァンゲリヲン』が楽しめるのと同様、あまり問題はないと思う。(思う。)ゆっくり広げていけばいい。
 
 タイトルから謎めいていて、読み進めるうちに謎はどんどん深まり、広がり、取り返しが付かなくなっていく。村上春樹の他の長編と同様、すべてのページ、すべての場面に気の利いた比喩表現が満ちている。言い回しや思索内容も練られており、傍点は今回も素晴らしく効果的である。どうにも止まらない。没頭する。あっという間にどんどん進む。「何か」がずっしり目に見えてココロの中に残るというのではない。しかし確実に「何か」が自分の中に蓄積しているらしい感覚はある。不思議である。
 
 知り合いの一人は村上春樹の作品群を指して「ラノベ的」(ライトノベル的)と評した。言い得て妙だと思いつつ、しかし読了直前に感じた緊張感とおなかの痛さに思いを馳せると、これはラノベではなかなか味わえないものであった。また、読了直後から今に至るまで感じ続けている、得も言われぬ、不可思議な充足感。これもラノベでは味わったことのないものである。
 
 物語であり、小説であるので、読み方や感動、出来不出来の感覚は人それぞれであろう。ノーベル賞が獲れそうで獲れないとか、芥川賞を実は獲っていないとか、そういう些末なことはどうでもよいのだと思う。わたしには必要十分な小説である。

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孤独に生きてきた2つの魂の救済の物語。

2010/05/17 19:22

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る

 BOOK2のラストで主人公の一人である青豆は死を覚悟した。物語は
そこで終わり、いくつもの謎が残された。物語の終わりにすべての謎が
解き明かされる必要はもちろんない。謎は謎のままで残っていいし、い
くらでも「考えは及ぶ」のだ。様々なことに。様々な疑問に。BOOK3
では、確かにいくつかの謎は解き明かされたが、また新たな謎が生まれ
た。物語は続く、永遠のように。

 BOOK2の最後で死を覚悟した青豆がBOOK3では強く強く生きたい
と願うようになる。その力強い決意が僕らの心にストレートに届く。た
とえその先に何があろうとも、青豆は生きていこうと決心したのだ。こ
の物語はラブストーリーであると共に、ただただ孤独に生きてきた青豆
と天吾、2つの魂の救済の物語でもある。2つの月を見たのは彼ら2人
ともう1人。彼らはある意味ずっと2つの月があるセカイで生きていた
のではないか。リトル・ピープルも空気さなぎもマザとドウタも、ずっ
とずっと彼らに寄り添いあったのではないか。BOOK2までは青豆と天
吾の章が交互に書かれていたが、3では探偵役である牛河の章が加わる。
この物語において、彼が果たす役割はとても大きい。なぜなら彼もまた
青豆と天吾同様、2つの月を見、孤独の魂を抱えた人間だからだ。

ブログ「声が聞こえたら、きっと探しに行くから」より

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とてもよかった!!

2016/03/06 17:28

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:kanonLOVEMarnie - この投稿者のレビュー一覧を見る

天吾と青豆で繰り広げられる世界観に魅了されました!!
友達に勧められて村上春樹の作品を読み始めて、2作品目ですが、村上春樹の素晴らしさ!!
えーと、1Q84=猫の街と2人とも違う名でこの世界をよんでいますが同じ世界を生きている、こういう運命的な再会を果たした2人に憧れます!!
誰かに必要とされているということがなんて素晴らしいんだろう?
あーなんとも言えないです。
読んでみればすぐに魅了されますね!!
リトルピープルは牛河の空気さなぎを作ってどうするつもりなのでしょうか?最後にこの問いが残りました。

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長いエピローグ

2010/04/20 02:59

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:simplegg - この投稿者のレビュー一覧を見る

届いて,1日で結局読み終わってしまった.予約までして買った本なのだから,もう少し味わって読めば良かったのだが,こればっかりは仕方がない.読み終わって,少し寂しい感じがした.

さて,気を取り直して,書評を書こうと思う.僕がBOOK 1,BOOK 2を読んでいたのが,昨年の7月終わりだったので,最初はどんな話だか忘れていた.そのせいもあってか,BOOK 3はBOOK 2のその後的な印象を受けた.

宙に浮いた部分の辻褄が合わされ,天吾と青豆の距離も徐々に近づいて行く(ネタバレだけど,これくらいは想像の範囲内だろうと判断).しかし,BOOK 2までの迫力はなく,静かに話が進んでいった.

ふと,BOOK 2の自分の書評を読んでみると,“話が途中で終わって結論はわからない”という感想を持っていたようだが,BOOK 3のおかげで“話は終わって結論がわからない”という通常の村上春樹の作品へと収束したという感じだ.そういった意味で,BOOK 3は長いエピローグだった.

もちろん,謎も残っているし(そもそも謎を全て明かす必要も感じない),もやもやもする.ただ,珍しく小さくまとまった印象も受けた.

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"The Walk to Paradise Garden"(「楽園へのあゆみ」)by ユージン・スミス

2011/02/26 11:08

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る


 『BOOK3』ではいよいよ村上春樹の小説の定番ともいえる不可思議きわまりない混迷の物語が展開していきます。村上春樹の筆が選びとる単語はごく日常のそれであるから、読み進めるのに難渋するということはないはずなのですが、紡がれる物事のひとつひとつが何かのアレゴリーなのか、その表象を読みとるべきか否かも判然としないまま頁を繰り続けるということになります。

 「内側から鍵をかけた場所に閉じ込められている」(401頁)青豆。
 「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町」で「美しい河が流れ、古い石の橋がかかっている」(573頁)けれども「そこは僕らの留まるべき場所じゃない」と言う天吾。

 こうした言葉の中におぼろげに見えてくるのは、人類が今とどめ置かれている閉塞状況に諦念をもって安住することなく、どこへ向かうかもわからないけれどもとにかくそこから外へ一歩踏む出すことの大切さを青豆と天吾に託して描く物語です。
 
 私がそう考えるに至る上で補助線のような役割を果たしたものがあります。それはフォト・ジャーナリスト、ユージン・スミスの写真作品"The Walk to Paradise Garden"(「楽園へのあゆみ」)です。
 
 「急がなくては、と青豆は小声で囁く。そして二人は滑り台の上に立ちあがる。二人の影はそこであらためてひとつになる。闇に包まれた深い森を手探りで抜けていく幼い子どもたちのように、彼らの手は堅くひとつに握りあわされている。」
 「二人が急ぎ足で公園をあとにするときもまだ、大小の一対の月は緩慢な速度で流れる雲の背後に隠されている。月たちの目は覆われている。少年と少女は手を取りあって森を抜けていく。」(ともに573頁)

 この手をとりあう青豆と天吾の姿は、まさにあのスミスの写真の中の、よちよち歩きではあるけれども逞しく未来へと歩んでいくかに見える幼い少年と少女の後ろ姿そのものです。スミスの息子と娘である二人のシルエット写真が見る者に語りかけることは、きみたちの世界はまだない、それはこれからきみたちが作っていくものなのだ、ということ。この先、二人には試練や苦難が数多く待ち受けていることだろう。人生の荒波の中で、理不尽さに出会うこともあるはずだ。しかし生きることを決してあきらめることなく歩み続けること、それがきみたちの、そしてぼくたちの役目だ。

 そのことこそが、この冗漫のそしりを受けることもあえて恐れぬ長大さをもって紡がれた小説の要諦なのではないでしょうか。

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