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90年代左派論壇は凋落したが、ストリートの思想家が代わりに頑張っている。正しいよりおもしろいが選ばれる世の中において、ガチガチに理論武装した左翼の方より、音楽やアートで人々の情動に訴えるストリートの思想家の方が大衆と近しい気がする。カルトみたいにはなってほしくない。
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この本はサンフランシスコからの帰りの飛行機で読んだので、ストリートや街は誰のためのものなのかという問題提起から、サンフランシスコの多くの人達が「San Francisco」や「California」と書かれた服を着ていたことが思い出された。「たまプラーザ」なんてロゴが書かれた服を着る人なんていないしね笑
ストリートの特長として政治・文化(サブカル)・思想の三角形のなかを線として動き回るとされているが、日本語ラップもやっぱりその一つだと思う。
ただ、ここでいうストリートはナイキとかエイプとか既存の資本の流れに従属した「ストリート的なイメージ」ではなく、それらから自律していかに魅力的に見せるかというところにかっこよさを見出す。やっぱり「あえての」が重要だな。
とりあえず、すごく面白かったのでおすすめ。
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かつて公共空間として役割を果たしてきた大学は既にその機能を失い、ストリートへと公共空間が移りつつある。1990年代の動きを総括し、ストリートで展開するもう1つの日本を描き出している。
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毛利嘉孝著。ポストモダン思想、対抗運動と政治、サブカルチャーという三つを参照軸にしながら、その真中に位置するのが「ストリートの思想」。社会運動が組織的、啓蒙主義的だったのに対し、この思想は脱中心的でボトムアップ型に集団形成がなされる。大学という知的権威の空間から、ストリートという移動の場所において文化的な実践が行われていくということ。
昨今の変化が、地下鉄サリン事件からイラクの反戦運動、小泉改革と反貧困運動などを起点としていて、90年代から00年代がこのように語られるようになったんだなと思った。時代は変わって行きますね。
うまく整理されていて、僕は結構好きです。ただ、思想や文化を課題評価し過ぎな感じはします。どちらも奥深いと思いますが。
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共感する部分もあり、どうかなと思う部分もありの内容。ただ、著者の誠実な姿勢は伝わり、好感を抱いた。個人的には坂本龍一に対してのコメントが興味深かった。同感です。
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毛利氏の著作は初めて読む。いくつか、単発の論文は読んだことあると思うが、上野俊哉氏との共著の新書も含め、今まで読んだことはなかった。実際に本人を見たことはあるかないか、記憶は定かでないが、いつしかのカルチュラル・タイフーンで見たことがあるような気もする。
毛利氏はカルチュラル・スタディーズを日本で牽引してきた一人ではあるが、なんとなく吉見俊哉氏や上野俊哉氏と違って読まず嫌いであった。吉見氏はかつて演劇青年であったにせよ、あくまでも現在は大学人としての理論派である。実のところは理論派といっても、難しい議論は得意ではなく、歴史的事実で根拠づける実証派と呼ぶべきか。現代の問題を扱うのは若干苦手だと勝手に解釈している。難解な議論はあまりしないが、かといって彼の文章は非常に真面目で本当の意味での大衆には難しいと思う。一方、上野氏は外見からしても実践派であり、しかしお硬い文章も書ける。お硬いのに題材は現代的で極めてポピュラー。この人もあまり難解な文章は書かないが、大衆に向けた文章も書ける人だと思う。どちらも、私にとってはある意味で憧れる存在である。
その一方で、彼らよりも若干若く、どちらかというと上野氏にシンパシーを持っているようだが、毛利氏は人間としてではなく、同業者としてとっつきにくい印象を持っていた。しかし、今回私が下北沢のことを研究しようと思うようになって、彼の本書の中にSAVE the下北沢という、下北沢の再開発計画に反対する団体に関する記述があることを知って、急遽読むことにした。NHKブックスの一冊だし、軽く書かれたものだろうとたかをくくっていたが、意外としっかりと書かれていて読み応えがある。それと同時に、彼の立ち位置が良く分かるものであった。まず彼は、大学を卒業して西武系の広告会社に入社したらしい。しかも、世間は西武バブルで盛り上がってはいるものの、会社自体はその過渡期で業務は縮小傾向。そんななか、彼は退職し、ロンドンに留学する。学部は経済学部だったらしいが、広告業界にいたこともあって、文化やメディアを研究できる大学院に進んだことで、それがカルチュラル・スタディーズとの出会いになったという。日本ではまだその動向をきちんと紹介していなかった1990年代初めのころのこと。また、彼は若い頃から内外の音楽に精通していたらしい。
そのこともあって、カルチュラル・スタディーズが扱いがちなカウンター・カルチャーやアンダーグラウンド・カルチャーにも強かったとのこと。かといって、正統派政治運動に参加するような若者ではなく、研究者になってからもかなりどっちつかずの立場を有していたようだ。まあ、そのことが私にはとらえどころがなく映っていたのかもしれない。まあ、ともかく本書ではそんな微妙な立場を正当化するというのが主たる目的になっていると思う。一方で、読者としての私はもちろん政治運動には参加しない傍観者だし、極めてポピュラーな文化に関する知識しかない。テレビも新聞も持たないので、同時代的な社会の動向にも疎い。大学人でもなければ理論派でもないし、自分の研究実践においてもアクチュアリティを有しない、ある意味では非常にオーソドックスな文��研究者だといえる。そんな私にとっては、本書は非常に魅力的なものであると同時に、私のような研究者の立場を全否定されているような気分にもさせられる。
本書は文化的実践によるある意味での政治活動家たちを「ストリートの思想家」と呼び、賞賛する。具体的な個人を取り上げながらも、彼らの活動の意義を評価する際には、大きな視点に立つ。これも私にとっては読まず嫌いのネグリとハート『〈帝国〉』を根拠にし、日本で起こっている様々な問題を全てこの大きな理論によって解釈しようとする立場は非常にすっきりと分かりやすくありながらも、本当にそれでよいのかという疑問を拭いきれない。1995年というターニングポイントがあるのは分かるが、社会は、あるいは世界は時代によって決定されるのだろうか。そして、この時代の文化研究者は彼のようにあらねばならない、ある意味ではそんな押しつけがましさもなくはない。彼が取り上げる「ストリートの思想家」はネグリとハートによる「マルチチュード」にあたるようだが、その言葉の意味するところは多様性である。しかし、一方で彼が理想とする研究者の姿(しかし決して彼は彼自身をストリートの思想家の仲間であると自認しているかどうかは不明)はあまり多様ではないように思われる。はたして研究者は何をするべきなのか。彼のようにこの時代を変革へと導いていく「ストリートの思想家」を支援し、それを理論的に正当化していくことなのか。
まあ、ともかくいろいろ考えさせられる一冊ではある。
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ストリートで政治運動するゼロ年代。個人的にはECDの「言うこときくよな奴らじゃないぞ」が好き。活動の是非はともかくとして、少なからずの人がこのような活動を行っている現状を知ることは非常に重要だと思う。あまりメディアでも取り上げられないし、思想界からも取り上げられない。東らのオタク文化の分析よりも、ストリート文化の分析の方が重要だと思っている。手法としてはカルチュラル・スタディーズである必要はないと思うけど。
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[ 内容 ]
1990年代に何が起きたのか?
思想は今や、大学からストリートへ飛び出した!
ホームレスや外国人労働者の新しい支援運動がスタートした90年代。
イラク戦争反対デモからフリーターの闘争までの、様々な運動が活発になったゼロ年代。
音楽やダンスなどのサブカルチャーや「カルチュラル・スタディーズ」などの海外思想と結びついて成立した、新しい政治運動の淵源をさぐる。
インディーズ文化など80年代の伏流が、90年代の「知の地殻変動」を経て、ゼロ年代に結実するまでの流れを追う異色の思想史。
[ 目次 ]
序章 「ストリートの思想」とは何か
第1章 前史としての80年代―「社会の分断」とポストモダン
第2章 90年代の転換1―知の再編成
第3章 90年代の転換2―大学からストリートへ
第4章 ストリートを取り戻せ!―ゼロ年代の政治運動
第5章 抵抗するフリーター世代 ―10年代に向けて
「ストリートの思想」を知るためのブックガイド
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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尖鋭な音楽評論といえば、かつて「ニューミュージック・マガジン」誌を創刊した中村とうように、フォーク・ソングを初め、ラテンやシャンソンやタンゴはもとよりポップ・ミュージック全般を、そして1960年代後半から70年代初めにかけて同誌にエッセイや論文を掲載した相倉久人や平岡正明や小倉エージや北中正和からはジャズやロックの真髄を、それから、音楽をはるかに逸脱してメディア・社会運動的関心を粉川哲夫や平井玄や鵜飼哲によって、それぞれ様々な刺激的な教示を受けてきました。
ただ、その後1980年から「ミュージック・マガジン」と誌名変更した(いわゆるユーミンたちの、通称ニューミュージック、とは異なる意味なので、当然のこと紛らわしく変更せざるを得なく、でも本当は誌名のニューミュージックの方が先んじた命名だったのに・・・)同誌は、ワールド・ミュージックの紹介・啓蒙に移って行ったので、その路線にまったく興味なくそれ以降はノーチェックでした。
今、本書もそうですが、2007年の『ポピュラー音楽と資本主義』で出会った毛利嘉孝の、すでに音楽評論とは呼べないほど多岐にわたる民衆的祝祭空間(デモからリサイクルショップまで)の着目を、あるいは60~70年代のサブカルチャー文化の歴史的評価を乗り越えた現代の新しい考察を、または、未だ名づけようもない未分化の現代の最先端の大衆的事象の分析を、アドルノやガタリやベンヤミンやネグリを援用しつつ悪戦苦闘している論考に注目しています。
1970~80年代に、粉川哲夫が突出して時代に立ち向かった一連の著作を次々と発表していったように、今後、毛利嘉孝がそういう活動をしていくだろうと思うと、もうワクワクしちゃいます。
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まずは、著者の専攻であるカルチュアルスタディーについて。これは60年代にイギリスで始まった文化に対する研究であり、これはイギリスでは階級制度と文化が密接な関係であることが重要な要因となっている。21世紀においても英国人の二人に一人が「自らは労働者階級であり、その事に誇りを持っている」との回答が象徴的なように、労働者の文化というものが単に下位のものとして位置づけられてるのではなく、権力や上位階級との社会関係の中で自明性を見出した独立性を有しているのが特徴的であり、それゆえこのような文化研究が学問として注目を浴びている。
ここでポイントとなるのが、文化というものは公私二元論で位置づけられるものではなく、その外側にあるものだということ。そして著者は、90年代以降のグローバリゼーションの躍進に伴い、資本主義的な価値観が蔓延する中において、このようなカルチュアルスタディをその抵抗手段としてい位置づけているのが大きな主張。資本主義は私的所有を原則とするが故に、高度化するに伴いその影響はより不可視的に人々の内面を規定しようとする。そのため、文化というものを対象にすることで、人々の趣味や生活といった問題を単に私的領域に閉じ込めるのではなく、理論と実践の理論的統一を図ることで政治的抵抗の手段として位置づけようとするのだ。
そして、日本の場合はその源泉を80年代以降のDIY的インディーズ文化に求め、そこからの系譜を消費社会的バブル文化や全共闘的?ニューアカ的なアカデミズムの失墜とは異なる、第三の道として考えている。そして、それが90年代以降、「場」を通じて立ち上がってきた文化が発生してきているのだと様々な具体例を提示する。
何か色々とややこしい事を書いたけど、個人的にこのような主張は学問的正当性があるかは別にして可能性というのを強く感じている。ゼロ年代以降の高度情報化に伴い、あらゆる趣味が細分化・島宇宙化してしまったこの時代において、自分が好む趣味というものを捉えなおし、それを他者との関係性において拡張していき横断しようとする姿勢というものは、個人化を反転させる有効な手段なのだから。
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このごろついてるぞ、というのは本からもらう刺激が連続的に良好で、ここでは小田マサノリだとか、ECDなんていうのはずいぶんヒントになりそうで、オタク文化の裏に十分ある政治と思想と文化の潮流がかなり整理されるし、やっぱりそこから自分の仕事を考えたい。
リアルよりも活字世界が十分充実で刺激ありというのはそれは主体も対象も落ち着いているのでたっぷり思考しながら刺激受け入れができるという一事による。
変化も回帰もまして定着など志向しないが、昨日までの自分を日々破壊創造し続けるための読書、毎朝今日読むものを安心できる朝を繰り返すこと。
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左翼・社会運動を80年代から振り返って95年を転換点として、新しい潮流としての「ストリートの思想」を紹介している。
30年間ほどの日本の現代史を通して左翼の変容がつかめるのは興味深い。
しかし、震災前後でかなり評価が変わるんじゃないかな。本書が書かれたのは2009年だけど、なんだか牧歌的ですごく昔の話をしているように思う。ここで紹介されている活動家は今はほとんど名前を聞かない(そんな感じあったな、そんな人いたなとは思う。)。
ストリートという方向性はいいけど、たった10年ほど前のことなのに、もうなんだか懐かしい。
このスピードは何だ。
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マルチチュード
プレカリアート(プレカリオ+プロレタリアート)
政治のスペクタクル(見せ物)化
ストリートの思想は消費主義と対抗しうる
ストリート⇔オタク
(身体的営み)(文化)
(政治的)(政治性なし)
ロスジェネ的怒りだけではなく「楽しみ」「享楽」
1
イギリス 70年代パンクロック=シチュアシオニスト
『スペクタクルの社会』
2
大学院重点化などの再編→〈大学の中で周縁化されがちだった現代思想や文化理論の研究者たちを中心的な場へ引き入れる役割を果たした。〉
蓮實重彦が東大総長になったり表象文化論ができたり
オウム→社会工学的な知
新自由主義と親和性が高い
クール・ブリタニア
3
4
183
〈「ストリート」とは、断片化し、流動化した身体が移動している場所である。新しい権力に抗するには、言語によって分節化された対抗的な言説だけでは十分ではない。それ以上に具体的な直接行動や、情動に訴える身体的なパフォーマンスや音楽が、動員される必要があるのだ。〉
小田マサノリ
文化人類学者になるためにアクティビストになった
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