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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2009.7
  • 出版社: 新潮社
  • サイズ:20cm/142p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-10-317711-1

紙の本

終の住処

著者 磯崎 憲一郎 (著)

妻はそれきり11年、口を利かなかった—。芥川賞受賞作「終の住処」、書き下し短篇「ペナント」収録。【「BOOK」データベースの商品解説】【芥川賞(141(2009上半期))...

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終の住処

税込 1,320 12pt

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商品説明

妻はそれきり11年、口を利かなかった—。芥川賞受賞作「終の住処」、書き下し短篇「ペナント」収録。【「BOOK」データベースの商品解説】

【芥川賞(141(2009上半期))】話しかけても応えない妻。不機嫌のせいだと思った彼だが、妻はそれきり11年、口を利かなかった−。流れてゆく時間、そのものの人生を、覚醒した眼差しで描く。『新潮』掲載に書き下ろし短篇「ペナント」を加え単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】

収録作品一覧

終の住処 5−111
ペナント 113−142

著者紹介

磯崎 憲一郎

略歴
〈磯崎憲一郎〉1965年千葉県生まれ。早稲田大学商学部卒業。「肝心の子供」で文藝賞、「終の住処」で第141回芥川賞を受賞。ほかの著書に「世紀の発見」など。

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みんなのレビュー194件

みんなの評価2.6

評価内訳

紙の本

家族の肖像

2009/08/08 17:00

12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る

最近、再びウイスキーが見直されているらしい。作者の書くものは、ちょっとクセのあるシングルモルトってとこだろうか。この作品も、震えたね。

30歳過ぎて結婚した男女。すでに大人なわけで甘い新婚生活なんて無縁。いきなりドライなわけ。男は、いわゆる薬品会社のプロパー。職場も劣悪だが、家庭も居ずらい。イラクサの家で。やがて子どもができ、マイホームを建てる。

このあたり、家を建てる描写は、小島信夫の小説を彷彿とさせる。男は、会社に長居し、外に次々と女をつくる。この女性遍歴をふくらませるとまた違った趣の小説になる。サラリーマン小説だと黒井千次の系譜なんだけど、底辺に漂っている苦いユーモアは後藤明生かなあ。源流はゴーゴリやカフカかも。

男の勤務する薬品会社は、外資の波をもろに受ける。不慣れなアメリカでのM&Aビジネス。万事不快調な『島耕作』ってのもある、ある。男と入れ替わりに娘がアメリカへ留学する。わが家で男は背後から妻の肩をつかむ。ハッピーエンド、めでたし、めでたし。

ぼくには到底そうは読めなかった。映画なら、何だろう。やっぱり、成瀬巳喜男だ。

何日か前の朝日新聞に作者のインタビューが掲載されていた。

「過去というのはどうしてこんなにも堅固で、悠然とそびえ立って、堂々としているのだろう。だが過去のこの遥かさ、侵しがたさこそが私にとっては大きな希望なのだ。私の書く小説もまた、その希望の上に成り立っている。」

時の流れは、過去-現在-未来と決して一本道ではない。1時間は60分と決められてはいるが、それ以上に長いと感じるときもあれば、逆に短いと感じるときもある。また、先のことは不可視だから「不安」でもあり、「楽しみ」でもある。裏腹の関係。

記録と記憶の違い。記憶は、自分の都合の良いようにある意味、捏造または虚構化、演出してくれる。そして細部はきれいさっぱり消去してくれる。昔のことゆえ、振り返ってもどうにもならない。どうにもならないことをアーカイブ(保存記録)で見せられても閉口するだけ。「昔は良かった」と多数の人が口にしたがるが、実際のところは、そうでもなかったりして。現前の状況からの気休め的一時避難の方法として言うのかもしれない。ただ不動の過去に対して寄りかかってしまうのは不変だからだろう。変わらない過去、それは屍だからなのか。否。

♪ 時はいつの日にも親切な友達 
過ぎてゆくきのうを物語に変える ♪

―『12月の雨』荒井由実より一部引用―

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紙の本

戦後日本を魔術的リアリズム手法で描ききった全体小説ではないか。

2009/08/07 12:39

7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る

『終の住処』は新潮6月号に発表されたときに 読んでいたので今回単行本で収録されている書き下ろし作品『ペナント』をまず読んで『終の住処』を再読してみると、初読の時とは印象が違った。
『肝心の子供』、『眼と太陽』、『世紀の発見』につながる『終の住処』だと俯瞰して余裕の磯崎ワールドを楽しみ、『終の住処』は成熟した破綻のない完成された小説だなぁと思ったのでした。
だのに、短編『ペナント』を読むことによって、何やら不穏な空気が立ち込めだし初読と違って僕は『終の住処』を全体小説として読み始めていました。全体小説という言い方は誤解を生みやすいけれど、例えば野間宏、近いところで小田実は全体小説作家として意識的であった。
でも、磯崎をそのような意識的な全体小説作家としてカテゴライズして僕は述べようと思っているわけではない。多分、これまでも、これからも、作家としてメジャーになっても、磯崎は直截な政治的発言はしないと思う。
にもかかわらず、『ペナント』によって、特に『終の住処』は別の光を与えられ、壮大な全体小説として他の作品も読むべきではないかと僕なりに不安になったのでした。
デビュー作『肝心の子供』のブッタの妻といい、どの作品にも妻や母親、子供が確固たる<安全基地>として啓示に打たれたように登場する。本書の「それきり11年、口を利かなかった」不機嫌な妻にしてもそうだ。そこには大いなる世界に対する肯定感がある。行き着く先に<他者同士の歓待>が待ち受けていたと言う諦観めいた至福があるのです。
ここで僕が言った<安全基地>は記憶によって歪められた<神話・伝承的>なものかもしれない。
だが、そのようなものに接続しているからこそ、マジックリアリズム小説とカテゴライズしてもいいわけで、磯崎が再三、インタビューなどで、ガルシア=マルケスに言及して、僕の本を読むことで、マルケスを手に取るようになれば嬉しいと言っているが、受賞作『終の住処』は日本版ガルシア=マルケスとして完成したものではないか。
この国の文学史の文脈で川端康成、安部公房、大江健三郎、筒井康隆、中上健次、寺山修司などにつらなるものであろうが、自意識過剰な<自己表現的私小説>とは無縁であるけれど、うねるような文体で日常と非日常との段落なく、描き続け、書きつづけた小島信夫の不穏な迷妄が新作書き下ろし『ペナント』にはある。
『ペナント』には「安心・安全」の拠り所、「子供」、「妻」、「母親」ではなく、「あなたのような類の人間は、つねに人生最後の一日を生きているのですから、物の方が先回りしてあなたの到着を待っている、そんなことはいままでもあったし、これからもしばしば起こることなのです。」(p133)ということで男はコートに付いていた四つ穴の茶色い練りボタンを発見するが、マルケスよりは小島信夫の狂気に近いものがある。
だけど、1896年のプロバンスでセザンヌが描いた松の木が最後に「物そのもの」として出現する。
100年後の1996年、<オウム事件>、<淡路・神戸震災>を経験したこの国の日常は徐々に赤裸に剥かれ始めたのではなかったのか。
村上春樹の『1Q84』もマジックリアリズム的全体小説とも言え、オウムだとか、連合赤軍とか、そのような個別具体的な歴史的な事件を直截に想起させるけれど、本書はそんなことはない。
だけど、『終の住処』の老建築家は初読の時は赤瀬川原平の『我輩は施主である』に登場する建築家縄文人F森教授こと藤森照信だなぁ~と<私小説的>な読みをしていたのですが、再読の時は神話的な世界まで接続して、この建築家は国造りをしたあの「イザナギのミコト」ではないかと思ってしまった。終の住処の上棟式の場面。
《彼はよく式の手順が飲み込めなかったが、一通りの儀式はもうこれで済んだらしかった。そのとき、南から突風が吹いた。風のあまりの強さに一大決心でもしたかのように、おもむろに建築家は立ち上がり、一本の柱に沿って脇腹をぴたりと付けて、右手を伸ばして高々と掲げ、二階の屋根の上の吹流しを続けざまに四本、少々乱暴に取り外した。それは疑う間も与えぬ一瞬の、滑らかなひとつながりの動作だった。――ひとりの人間が地面に足をつけたまま、家の二階の屋根に手を伸ばす、たとえどんな長身といえどもそんなことがはたして本当に起こりうるものだろうか?しかし、これを見ていたのは彼だけではなかった、妻も娘もたしかに見ていた、そしてそれほど異様な光景だったにもかかわらず、気味悪さなどという感情はいっさい起こらなかった、このときもやはりまた盲目的ともいってよいほどの建築家に対する憧れが強まっただけだったのだ。(p97)》
随所にそのようなマジックがあるのですが、「現在・過去・未来」が歪んだ真珠の首飾りとなる。そのような空間の歪み、記憶の歪みが「バロック真珠」、「黒織部沓形茶碗 」を生んだがそんな味わいが磯崎の小説にはある。
『ペナント』の冒頭、《恐らく昭和四十年代の末ごろまでだと思うが、日本中の子供部屋の壁という壁はペナントで埋まっていた。》全部で六十九枚、一枚の例外もなく右を向いている。成る程、三角形の右端の頂点でなく左側を向いたペナントって見たことがない。《ひょっとするとこの部屋ぜんたいが右へ右へと回転し始めたのではないだろうか?マグロかカツオなどの回遊魚の群れか、飛び回る渡り鳥の群れの中心にひとり立っているような気すらして、少年はじっさいに目が回ってふらふらとよろけ、一歩二歩と後ずさったほどだった。》
多分、作者も好きな作家トマス・ピンチョン風に数字の謎解きをすれば、六十九枚のペナントを69年として遡れば、野口悠紀雄の言う1940年体制のエポックメーキングに行き当たる。現在まで69年間<世間>という名の総動員体制が高度成長を下支えに戦後民主主義は<虚妄の効用>で駆動していた。だけど、七十枚目のペナントはもうありはしない。
昨日、京都の石清水八幡宮に久しぶりに参ったのですが、社殿が見事に改装されていました。参道から改めて正門をフレームに本殿を覗くと、広い空間の中に「そうか、本殿は正面を向いていず、はすかいに左に向いているんだ」と改めて気づきました。シンメトリーではないのです。中心をズラしている。
朱印をしてもらいながら、いかにも女子学生っていう感じの巫女さんに「どうして本殿は正面を向いていなくてソッポをむいているの?」みたいなオヤジ質問したら、
「お参りして立ち去るときに参拝者の方のお尻が神様に向いて失礼にならないような配慮がなされているのです。」って言われました。斜めのポーズはいかにも動き出す不穏さがある。
上に紹介した赤瀬川原平の小説で「楕円の茶室」という項があったけれど、焦点は二つ、中心は隠す。一礼、二拝したら、音に反応して確かに社殿は左旋回し、「男山」から「天王山」に向かって淀川越えをしましたよ。ここは、天下分け目の戦いの地であったのです。僕もマジックリアリズムに毒されたかなぁ。
葉っぱのblog

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紙の本

作品に吹く風

2009/08/05 08:07

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 文学は時代の風見鶏であるのか。
 著者が意図しようとしまいと、時代はしばしば文学に風見鶏であることを強いることがある。それが芥川賞というこの国でもっとも有名な文学賞であればなおさらで、作品がすでに強く時代の風を受けている場合もあるし、掲げられて初めて時代の風を感じることもある。
 第141回芥川賞を受賞した磯崎憲一郎の『終の住処』を読み終わった時に感じた、ある種の徒労感もまた、風見鶏が指し示す時代の風なのだろうか。

 製薬会社に勤める主人公は三十歳を過ぎて妻と結婚する。特に燃え上がるような恋愛感情があったわけではなく、すでに二人には「疲れたような、あきらめたような」表情があらわれている。だからこそ、二人にとりたてて事件が起こるわけではなく、彼の観念的な精神風景がつづく。
 主人公の女性関係にしても、家庭を壊すほどの熱情はない。子供もできた。一見平和な家庭が営まれているにもかかわらず、突然「妻は彼と口を利かなくな」り、その後十一年もの間、二人は会話のない生活をおくる。彼にもその理由はわからない。
 果たして、この妻というのは人格をもった、主人公にとっての他者であろうか。あるいは漠然と「家庭」を暗喩するものだろうか。

 仮面夫婦という言葉が流行したのは、いつの頃だったろうか。物語はまさに高度成長の時間軸のなかにあり、その当時の多くの男たちがそうであったように、たとえ自ら口を利かないという選択はしなかったにしろ、主人公たちのような会話のない家庭はたくさんあったはずだ。
 やがて、建てられる彼らの「終の住処」。その時、妻はふたたび話しはじめるのだが、失った十一年間を彼らは取り返そうとするのでもなく、淡々に受け入れるだけである。五十を過ぎた主人公が「彼も妻も、ふたつの顔はむかしと何ら変わっておらず、そのうえ鏡に映したように似ている」ことに気づくところで物語はおわる。

 文学がもし時代の風見鶏だとすれば、この物語がしめす方向にどのような意味があるのかはわからない。もし、それがあるとしても、この二人が「死に至るまでの年月」は、物語の最後にあるように、けっして「長い時間ではなかった」ではなく、とてつもなく長い、表情をもたないそれであるはずだ。そのことすら認知しえない文学に、どのような風が吹くというのだろう。

 ◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でご覧いただけます。

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「結婚」って大事なもの、そして恐ろしもの

2011/02/21 20:28

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:なかはらとまと - この投稿者のレビュー一覧を見る

すみません、私はこの作品を「好き」にはなれませんでした。私には非常に印象が薄く感じられ、時代錯誤の感じが否めないのです。だけど、そこが純文学の良いところでもあります。哲学的思考は唸るものがあり、考えさせられた部分も大きかったです。おススメしないという訳ではありません。

結婚生活がいかに恐ろしいものか、深く悩みました。11年間、夫が妻と一切話をしないとはどういうことなのか?!私は主婦ですが、考えあぐねてしまいます。男性が社会的地位を得るのも「結婚」って大事なんだよと、離婚した友人が言っていました。離婚したとたんに仕事を回してもらえなくなったそうです。本書にもその様なことが書かれています。

何故、好きになれないか考えてみても徒労に終わるだけかもしれませんが、考えてみます。地味なのかなと。もう少し派手にやって欲しい、単純に私の「好み」と合わなかった、それだけの様な気がします。芥川賞受賞作にもの申してるみたいで気がひけますが、私はそう思いました。

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紙の本

「終の住処」過ぎた時間は一瞬に思えても、確実に時間は経過している

2009/11/29 19:35

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:soramove - この投稿者のレビュー一覧を見る

「芥川賞受賞!という本の帯の下に、
人生とは、流れていく時間、そのものなのだ。
そんな見出しが切り取られている、
ひとりの男の20年あまりを111ページで
淡々と描いた作品、
分かるようで分かりはしないだろう何かは感じる」

自分で結婚を決めながら
相手の顔さえまともに見られないような
夫婦の20年余り、
特に11年お互い口をきかない時間も
二人の間には流れたが、家を建て
子育てを終えた二人は、残された時間を
その家で二人で過ごすことになるのだ。

比喩的な部分がいくつもある、
それらを深読みするのか、
見たままを感じるのか、それは読者の自由だけれど、
何か自分的な解釈を加えないと
この短い小説はあっさりと終わってしまい、
「何が言いたかったの?」となってしまう、もちろん押しつけがましい内容は好きじゃないが、
この無機質な感じはなんだろう。


この作者の他の作品でも感じたが
日常の些細な出来事の積み重ねで
10年、20年と過ぎていく、
そのことは後からはっきりとわかるのだ、
これから始まる向こう10年なんて分からないが、
今までの10年なんてもしかしたらピョーンと
飛び越えても今は変わらずにここにありそう。


時の経過って確実に過ぎているけれど、
人間の感覚としては
なんだか曖昧にさえ思える。


でもこの深みにはまって出られないだろうという
嫌な予感は小説全体に流れていて
こんな投げやりな感じで生きてたら
つまらないだろうなとも思った、
もちろん、どんな心構えで生きようと
結果は同じだよと言ってるのかもしれないが。

芥川賞選考委員が絶賛ということだったが、
この小説を読んで、「ここではない、どこかへ」
小説が連れて行ってくれたかといえば、
それは無かったな、逆に何か色々しようと
「ここにしか居られない」という軽い強迫的なものが
迫って苦しい。

「何かとんでもないものを見てしまった」
そんな小説を待ち望んでいるが、
この小説にはそういうものは感じられなかった、
低く渋い声の誰かが、ゆっくりと読んでくれた文章を
頭の中で必死に理解しようとしてるみたいな
おかしな時間を過ごした。

★100点満点で70点★
http://yaplog.jp/sora2001/

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紙の本

わけのわからない芥川賞受賞作は多いが本物のサラリーマンが書いたこの作品、定年後の生活を平凡に送っている私にはとても身近なものに感じられました。たまにはこういう芥川賞もいいものだ。

2009/09/06 15:35

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

現役のサラリーマンが描いたサラリーマン小説で純文学で芥川賞受賞作というのは珍しい。何らかの事情で会社をやめその経験から企業小説を書く作家はいても、たいがいの場合は企業と批判的に向きあっている。あるいは揶揄する姿勢が見えるものだ。この小説では製薬会社の営業を担当していた主人公の「彼」の記憶が語られ、会社での仕事ぶりについては、上司の指示通りに務めを果たそうとする「彼」はそこに溶け込んでいて会社に違和感を持つことはない。私を含めてサラリーマンの多くはそんなものだろう。身近な「彼」である。

雑誌「文芸春秋」には磯崎憲一郎氏のインタビューが掲載されている。44歳の三井物産人事部総務部次長。三井物産では物分りのよい上司に恵まれ「良い仕事」に打ち込むことができ、芥川賞受賞も歓迎されているとあっけらかんとして語っている。さすが組織になじんだ本物のサラリーマンだ。皮肉ではなく本当にそうなんだろうと思えるから人柄に親しみを覚えた。
よく会社と私生活を切り離して人生設計を考える向きがあるが、そうではなかった私にとって氏の
「(会社員と小説家の区切りについて)その二つの間で引き裂かれるのではなく、むしろ統合されて一つになっている感じがします」
をそのまま受け取ることができる。
そしてこの作品は氏のこうした安定した内心をそのままつづったものなのだろう。たまには現状満足型の芥川賞もいいものだ。

「彼」はたぶん50歳をこえたところのようだ。そして自分の過去を振り返っている。過去はちょっとした出来事と奇妙な心象風景とが交錯し、行きつ戻りつしながら語られる。出来事といってもどこかゆがみがある過去の現実だ。妻との出会い、一体感の生まれない夫婦生活、何人かの女性とのつきあい、苦労しながら大仕事を成し遂げる会社生活、娘の誕生や成長、マイホーム建築などである。小説的には別段ドラマチックな過去ではないものの、一般的には平凡なサラリーマンにとってはこれら過去の出来事はその時点ではもっともっとドラマチックな質感を持って迫ってきた現実であったはずだ。ところが、文体は簡素に平板に、悲しみや喜びや怒りという感情の起伏がなく語られる。コントラストの弱いセピア調で現実味の濃度は薄い。むしろ色彩ありや音、匂いはなど、感覚作用は「彼」が見る白日夢のほうがリアルである。またそのときどきの「彼」にはこれらの出来事の発端なり結果を予想できていた、という気配を感じさせる。それが「どこかゆがみがある過去」という印象を与える。

いろいろあったが50歳を超え自分の家をもてた。幸いにしてたいした波乱もない先がみえる。そんな平凡な日常に溶け込んで生きていける自信がある。50歳でこんな心境はちと老化が早いんじゃあないかと思うのだが、たとえば定年を迎え、食うに切羽詰ることはないだろうと、これからの短い先の人生を見通せる自分であれば似たような心境にもなれる。膨大な過去の事実の積み重ねの結果が今の自分なのだと気がつく。文学者的であったり哲学者的であったりしたいような気分になって、今ある自分は過去の現実の集積した存在である、今ある自分は無数の因果の組み合わせからたどりついた必然の結果なのだと認識すれば、過ぎ去った日々の出来事については原因も結果も予測可能であったかのように錯覚することはありえるだろう。思い出というものは、そのときの自分がそのときの自分の都合にあわせて手繰り寄せた過去の記憶の断片にすぎない。「彼」は今の「彼」が都合よく集めた記憶を語っている。だから平板であり彼の見る月は常に満月だったのだろう。「彼」の妻も似たもの同士であって結局現状肯定型の普通に折り合いをつけられる夫婦関係なのだ。

「(三十歳を過ぎて結婚を決めたときから)それから何十年もたって、もはや死が遠くはないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなおたがいの表情だった。」
冒頭近くにあって未来から見た過去形だが、同様の趣旨が現在完了形でラストに繰り返される。

ちっちゃな幸せみつけた!

平凡な夫婦とはこういう折り合いのつけられる現実のことでいいんじゃあないだろう

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2009/07/26 01:41

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2009/09/13 13:35

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2009/08/25 17:20

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