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商品説明
敗れ去るもの、落ちゆくもの−。元治元年、筑波山に挙兵した“天狗党”。慶応4年、上野の山に散った“彰義隊”。明治2年、箱館の海に沈んだ“旧幕軍軍艦”。幕末維新時、抗わざるを得ず戦った人々の運命を辿る3作品を収録。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
当たり前のことながら、思想は人を殺すのです。
2009/10/04 19:28
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
この巻には「天狗争乱」、「彰義隊」他1篇が含まれていますが、主要な2つの作品についての感想を述べてみたいと思います。
水戸天狗党が尊王攘夷の実行を求めて筑波山に集結したのは明治維新まだあと5年足らずに迫った元治元年3月のことでした。過激な尊王攘夷論者である藤田小四郎が、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を大将に仰ぎ、63名の同志とともに決起したのは、京の天皇を尊崇することによって、幕府の権限を強化し、わが国の官民が一丸となって諸外国を打ち払い(攘夷決行)、井伊大老によって開港された横浜を閉鎖することでした。
徳川斉昭が率い、会沢正志斎や小太郎の父藤田東湖を擁する幕末の水戸藩は、この尊王攘夷という思想の淵源の地でしたが、攘夷激派である水戸天狗党は、藩内の門閥派や同じ攘夷の穏健派である鎮派と対抗しながら、この思想を現実の政策として実行するために長州藩や朝廷との共同戦線を夢見ながら武装蜂起したのでした。
激派の武士のみならず神官、農民らも加わっておよそ千名の大勢力に膨れ上がった天狗勢でしたが、公武合体派が牛耳を握っていた当時の幕府執行部の執拗な追跡と徹底的な弾圧をこうむります。そして水戸の門閥派や追討軍と戦いながら故郷水戸からはるばる厳冬の越前までの逃避行を余儀なくされた彼らは、主君である徳川慶喜から無情にも見捨てられ、幕府の敵として人夫をのぞいたほぼ全員が翌慶応元年2月に雪の敦賀で斬首されます。当たり前のことながら、思想は人を殺すのです。
この天下に名高い天狗党の乱の顛末を、著者は例によって感情を押し殺した冷静無比な筆致で淡々と記述します。
しかし、天狗党の暴れん坊田中源蔵の火つけ強盗の落下狼藉、それとはあまりにも対照的な天狗党本体の見事なまでに清廉潔白な行軍ぶり、西南戦争の西郷軍の可愛岳踏破に酷似した蠅帽子峠の強行突破、千尋の谷底へ落下していく馬の悲鳴、降伏した天狗党総大将武田耕雲斎と加賀藩代表永原甚七郎のまるで歌舞伎の千両役者の舞台を思わせる永訣の場面、水戸藩門閥派の巨魁市川の冷酷非情な仕打ち、そして英傑と謳われた徳川慶喜の武士として、人間としてあるまじき卑怯未練な態度、などを黙々と認める作家の心のなかでは、清濁併せ呑む歴史の奔流に無言でのみこまれていった非命の人々、敗残の民への無限の共感と大いなる悲しみが激しく渦巻いていることが感じられるのです。
次は「彰義隊」を読んでの感想です。
徳川幕府に最後まで忠誠を誓い、上野の森に立てこもって薩長の朝廷軍と戦った彰義隊は新撰組と並んで江戸が最期に咲かせたささやかな玉砕の2輪の華でしょう。
しかし著者がこの本で精細に描いているのは、その彰義隊本体ではなくて、彼らの精神的支柱と仰がれ、後に奥羽列藩同盟の盟主に担ぎあげられた寛永寺門主の輪王寺宮の波乱に満ちた生涯の軌跡です。
輪王寺宮は名は能久、法名を公現と称し、弘化4年1847年伏見宮邦家親王の第9子として生まれ、12歳で勅命により輪王寺宮を襲名し、元治元年1864年には親王の位の第1位をさずけられて天台宗の最高責任者として比叡山、東叡山、日光の3山を管領するようになりました。
輪王寺宮は慶応4年1867年1月の戊辰戦争で敗北した一橋慶喜の一命を救助しようとして箱根を下り、朝廷軍の東征大総督であった有栖川宮の慈悲を乞うたのですが、にべもなく拒否されてしまいます。有栖川宮は自分の婚約者であった和宮を奪った徳川家を憎み、その一族である慶喜に味方する輪王寺宮に冷酷に対応したのです。
同じ皇族のよしみを心頼みとし、交渉に楽観的であった輪王寺宮の自負と矜持はむざんに打ち砕かれ、あまつさえ有栖川宮率いる官軍は彰義隊を討伐すると称してなんの断りもなく輪王寺宮が居住する寛永寺を砲撃します。
この時のトラウマが彼の運命を一変させてしまいました。朝廷を代表する一員であり、明治天皇の伯父でありながら、輪王寺宮は有栖川宮への敵意と対抗意識から官軍に反旗を翻し、賊軍である幕府の側に立つのです。
しかし東北雄藩の奮戦むなしく奥羽列藩同盟はあっという間に崩壊し、輪王寺宮はまたしても一敗地にまみれてしまいます。朝廷軍に降伏して京に呼び戻された輪王寺宮は、東征のみならず佐賀の乱や西南戦争の鎮圧にも勲功をあげた有栖川宮に激しいライバル意識をいだき、兄の小松宮の力を借りてドイツに留学して軍事技術を修得し、勃発したばかりの日清戦争に従軍して国恩に報いようと望んだのですが、その切なる願いを握りつぶしたまま宿敵の有栖川宮は61歳で逝去してしまいます。
けれども明治23年5月、ついに宿願が果たされる日が到来しました。兄の小松宮によって近衛師団長に任じられた輪王寺宮は、清国と通じた台湾の不穏な動きを鎮圧することを命じられたのです。かつての朝敵としての汚名をそそごうと勇躍した輪王寺宮は、兵士の先頭に立って清国軍と激戦を繰り広げたのですが、ちょうどその頃台湾で大流行していたマラリアに感染し、同年10月28日48歳で病没しました。
もしかすると明治天皇に代わって天皇になっていたかもしれない一人の男が高僧となり、反乱軍の長となり、天下の朝敵となり、ついには大日本帝国の軍人として異国の地に斃れる。著者はその波乱万丈の生涯と彼を最後まで突き動かした強烈な心的機制を慈愛の目で丁寧に描きつくしています。
♪天皇になるか天下のお尋ね者になるか紙一重 茫洋