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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2009.5
  • 出版社: 新潮社
  • サイズ:20cm/501p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-10-353423-5

紙の本

1Q84 a novel BOOK2 7月−9月

著者 村上 春樹 (著)

心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこの別の世界を作り上げていく。書き下ろし長編小説。【「BOOK」データベースの商品解説】...

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1Q84 a novel BOOK2 7月−9月

税込 1,980 18pt

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1Q84 3巻セット

  • 税込価格:6,05055pt
  • 発送可能日:1~3日

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商品説明

心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこの別の世界を作り上げていく。書き下ろし長編小説。【「BOOK」データベースの商品解説】

【毎日出版文化賞(第63回)】【新風賞(第44回)】心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく−。待望の書き下ろし長編小説。【「TRC MARC」の商品解説】

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評価内訳

紙の本

はたして僕らの2009年は200Q年となり得るのか?

2009/08/20 00:58

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:dimple - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)を読了した。将来確実に日本文学の正典(canon)の一つとなるに違いない村上作品に、同時代人として接することができるのは幸せなことである。

例えば、本作品中のJR中央線や首都高3号線・三軒茶屋付近の細かな描写を、僕らはリアルなものとして受け止めることができる。これに対して100年後の読者は、僕らが漱石や鴎外作品の中の蒸気機関車や人力車の描写に接するのと同様の感覚で接するにすぎないはずである。

また、僕らは、宗教集団「さきがけ」のリーダーの外見から、殺人罪で逮捕・起訴された、実在の宗教団体教祖を想起することができるが、100年後の読者にそのようなことができるとは思わない。

さらに、「ふかえり」こと深田絵里子という名前を見て、もしかして、村上はアイドル深田恭子(「深キョン」)が好きなのではないかとさえ、想像することだってできる。

もちろん、村上作品の魅力はそのような表層的な部分にあるのではない。村上作品の真の魅力は、一見ポップな通俗的恋愛小説の形をとりながら、実際は暗喩(メタファー)を駆使して、現代社会生活におけるコミュニケーション不全や孤独をものの見事に描いてみせるところにある。

本書でいえば、パシヴァ(=知覚するもの)とレシヴァ(=受け入れるもの)に介在するリトル・ピープルと、彼らが生み出す「空気さなぎ」いう存在が、それに該当する。

このリトル・ピープルは、コミュニケーションの不全を克服しうる可能性の比喩的存在であろう。他方、リトル・ピープルによって作り出された「空気さなぎ」は、コミュケーションが成立した二人のあいだに生じた「絆」の象徴なのだと思う。

そして、パシヴァ(=知覚するもの)によって、レシヴァ(=受け入れるもの)が「絆」の存在を認識するにいたった瞬間、二人の世界は1984年から1Q84年に変わるのだ。

天吾は「空気さなぎ」の中の存在を見たとき、20年前に彼の手を握った青豆との間に、深い愛に基づく「絆」が生じていたことを確信したのである。

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紙の本

終わりではなく始まりの物語

2009/07/13 13:12

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る

「1Q84」であれ、「1984」であれ、作者の手になるフィクションであるのは自明であって、月が二つ空にかかっていようがいまいが、読み手が奥深いところから、感染して行く一種の症候に犯されたと身震いするような作家の言葉に浸されて時、その作品はリアルなものとして立ち上げる。
読者の僕は逃げることの出来ない当事者性を獲得する。多分、すぐれた作品はそのような意味で読者を拉致するのであろう。
拉致され得ない安全地帯で村上春樹の小説を批評しても見当違いか砂を噛むような思いになるのは春樹の小説にはある種のイニシエーションが要請されるのかもしれない。
アイロニカルな僕は春樹ワールドの住人の資格はないかもしれない。にもかかわらず、リアルタイムで春樹の重要な作品はほとんど読んでいたが、ただ、ファンタジー、エンターテイメントとして春樹の物語を楽しんでいたと思う。
それは、肩肘張ったいわゆる純文学に対峙する構えではなかった。今回の新作にしたところで、物語を存分に楽しむぞ!っていうスウィッチが入る。
物語というクリシェな乗り物をバカにしながら、乗り物のない作品でどう踊り狂っていいやら途方に暮れる。僕にとって現代における純文学とは、乗り物のない作品で、多分、フリージャズに近いものだろう。
春樹のジャズは違う。背景に豊饒な物語がある。何の変哲のない料理にしたところでそうだ。手作りの物語を仕込む。音楽であれ、アイロンのかけ方であれ、ワイン、ビールであれ、春樹のレシピが美味しく提示される。僕は脱力して物語の森を彷徨い楽しむ。
春樹ワールドのメロディーラインが僕を森の中に消せない。いつか必ず出口(希望)の光が見えるという予感がある。安全基地が安全基地たり得るのは「愛」を信じることが出来るからであろう。
マネーは勿論、宗教、思想が信じられなくとも「愛」という軸があれば、天動説の世界であれ、地動説の世界であれ、上空に月が星のごとく無数に光っていようが、そこは安全な王国であろう。「空気さなぎ」が胚胎するものが、「虚無」か「愛」かリトル・ピープルの絶え間ない作業を見守るしかないのであろうか。
ただ、空気は絶え間なく変容する。その絶え間ない格闘が他罰的な外部の問題ではなく、一人一人の内部の問題として考え続けなくてはならないのだろう。その作業に耐えることが出来るには「愛がなくては」(paper moon)は叶わない。

1945年8月6日午前8時、爆撃機「エノラゲイ」は、「リトル・ボーイ」と命名された原爆を搭載し、僚機「グレートアーティスト」と一緒にヒロシマめがけて、飛行していた。
二つの月の暗喩は爆撃機とも言える。僕たちはヒロシマの惨劇を知っている。「リトル・ボーイ」が黒い涙を流し戦後アメリカ型民主主義に犯されたとも言える。リトル・ピープルは善悪を超えているとしても、<空気さなぎ>が胚胎したものが、KYな人々を排除する世間と言うものであったかも知れないが、それらは綻び始めている。Book2は終わりではなく、始まりなのでしょう。

春樹の文学はアメリカ文学の土壌の上に花開いたものであっても、少女作家「ふかえり」の朗吟する『平家物語』を召還する。
ジョージ・オーウエルの『1984』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、チェーホフの『サハリン島』、1968年、オウムの1995年、それらが物語のフレーム内にしっかりと腑分けされている。
だからこそ、村上春樹ワールドの謎解き本のようなものが欲望されるのであろう。謎が渦をまいて、Q&AではなくQ&Qで謎の月が中空に立つ。
僕はそのような謎解きにはあまり興味がない。ただ僕のクロニクルに伴走した、この国の現代史の全体小説として読んで楽しんだことは間違いない。でも、どうやら、今回は単なるエンターティメントとして楽しむには重い課題を突きつけられ喉元に<青豆>の銃が…。
《「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。/「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。/「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。》

葉っぱのBlog

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紙の本

登場人物の一人がディスレクシアであることの意味

2009/08/16 22:41

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る

私が本書を購入したきっかけは、
それぞれの内容紹介に書かれていたセンテンス
(購入してみるとその言葉は帯に書かれていた。)に
惹かれたからだった。

  「こうであったかもしれない」過去が、
  その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、
  「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

  心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。
  心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

だが、購入してから本書を開くまでは、時間を要した。

最近は、インプットもアウトプットも早く回したい欲求でいっぱいで、
BOOK1とBOOK2で合わせて千ページ以上もあるものを
読もうという気持ちにはなかなかなれなかったのである。

この世界に集中する時間がなかなか取れないという理屈をつけて、
結果が気になるのになかなか踏み込めなかった。

持っているだけではなくて読まなくてはという気持ちにさせたのは、
登場人物の一人がディスレクシアであるという情報を得たからだった。

ディスレクシアについての描写が多いのは、BOOK1の方だが、
BOOK2を読むときもこの点にこだわってみた。

この登場人物は、なぜディスレクシアでなければならなかったのか。

そして、この登場人物は、
もっとも接点を多く持った主人公にどういう影響を与えたのか。

ディスレクシアの個性/困難は、読み書きの困難に限らない。

だが、この作品が必要としたディスレクシアの特性はただひとつ。

読み書き困難の部分だけだった。

この登場人物は、自らの語りを文学作品として完成させるために、
誰かの手を借りる存在でなければならなかったのだ。

そして、主人公は、その語りを文学作品として完成させたことにより、
自らの物語を紡ぎ出したい、語りたい欲求を持つようになった。

互いに欠けているものを補い合ってひとつの作品を作り、
その後は、ディスレクシアの登場人物が影響を与える側で、
主人公は変化していく側になる。

この登場人物は、ある特異な環境が
その能力を助長したということもあるが、
読んで書いて記憶するのではなく、
聴いて語って記憶する能力を驚異的に発達させた。

それは、文字を持たない文化、ソクラテスの時代、
そして、本書にも登場した『平家物語』も含まれる
口承文学の世界とつながっている。

著者は、もしかすると、『プルーストとイカ』を
読んだのかもしれない、とも思った。

「語りの復権」だと思った。

この登場人物は、自分の語りが
より細やかに表現されていることにおいては
自分が書いたみたいだと感じていたが、
文字になって出版され売れることにはそれほど関心がなかった。

自分ではそれを読むことができないからではないかと思う。

だが、お話そのものに関心がないわけではない。

何か読んでほしいという欲求は持っていたからだ。

主人公は、この登場人物のために朗読する機会を何回か持つ。

それは、主人公に大きな影響を与えているように思う。

そして、主人公は、幼い頃から大きな影響を与えた存在に、
自らを語ることを通して、回復していくのだ。

自分の物語を語ることによって、ようやっと前に進み、
自分の人生を生きられるようになったのだと思う。

本書は、BOOK1とBOOK2を合わせて千ページを超える、
文字で書かれた作品である。

この物語に大いなる貢献をしたディスレクシアの登場人物が
もし実在するとしたら、
当然ながら、この作品は、発売と同時に読むことができないのだ。

そして、この物語にディスレクシアが登場すると知っている
ディスレクシアの人が実際にたくさんいらっしゃる。

だが、その人たちがこの作品を全編読める状態にはまだなっていない。

ディスレクシアの人を登場させるのであれば、
ディスレクシアの人がすぐに読める状態に出版と同時になっている。

それは、200Q年にでも路線変更しなければ、望めないことなのか。

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紙の本

人間が、性あるいは宗教という「システム」に抗するということ

2009/07/25 15:23

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:まむ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 村上春樹がこの物語を通して何を言わんとしているのか、エッセンスだけを取り出して考えてみたい。

1、宗教と子ども
 親の宗教(価値あるいは信念)が子どもにどのような影響を与えるのか。
宗教が身体化されて育つ子どもたち。宗教(あるいは組織)の教えが身体化されるということは、そこからは「逃れられない」。自分では逃れたと思っていたとしても、身体はそれを覚えている。青豆の口から時折出る「祈り」とはまさにそういったものだ。

2、親と子ども
 天吾は父親と暮らしてきたが、「違和感」を覚えていた。本当は自分の父親は他にいるのではないかと考えてきた。物語の中では、天吾と父親の関係が実際どうであったのかに関しては最後までうやむやにしている。しかし、誰しもそんな不安や疑念、あるいは希望や憧れをもっているのではないか。

3、組織の自己目的化(あるいは組織=社会それ自体に生命が宿ること)。
 村上春樹の言葉では「システム(エルサレム賞での言葉を借りれば)」、社会学者・デュルケームの言葉を使えば「社会的事実」。こういった言わば、個人が「逃れられないもの」=「身についてしまった価値体系(信念の体系)=宗教団体・組織」に「一人の人間」がどう対峙していくか。一人歩きしてしまう社会(組織)に個人はどのように抗することができるのか。

4、善と悪の相対性
 この世には絶対的な善もなく、絶対的な悪もない。すべては相対的なもので固定的なものではない。状況(立場や場所)によって変わるものである。青豆の「殺し」もまた善と悪の入り混じった混沌とした状況にあった。天吾の『空気さなぎ』の執筆と葛藤もまたそうであった。渾然一体としたものだ。

5、集合的な記憶(あるいは性という集合的な記憶のある遺伝子)
 さらに村上は、宗教あるいは宗教組織、または「社会的なるもの」=「性というシステム」の記憶の集合的な働きに対して、一人の人間がどのように挑んでいくことができるか。時として個人と個人の「愛」が、どう「性」とどう対峙でき、どう「性という集合的な記憶のある遺伝子」に逆らうことができるのか。そんなことを村上春樹は言おうとしたのではないか。

 「システム」に対して人はどのように対抗できるのかというテーマが全体に流れている。「人間の存在=個人」が、「宗教」と「性」という「社会的システム」に対して、いかに抗するかということ、それをこの長い物語の中で語ろうとした。
 読み終わったあと自分の中でこの物語を整理していくうちにそんな思いにたどりついた。

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紙の本

ドストエフスキーとハードボイルド・村上ワールド

2009/06/28 10:33

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:カワイルカ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 村上春樹の文章はひたすら心地よく、そこに書かれている物語はなんとも言えない不気味さがある。それが微妙なバランスを保ちながら、読者を最後まで惹きつけてはなさない。青豆と天吾というふたりの主人公の物語が交互に語られ手法は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じだが、この作品で完成の域に達した感がある。

 青豆がタクシーに乗っている場面から始まる第1章がまず素晴らしい。渋滞している首都高を走るタクシーの車内には、FM放送からヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が流れている。タクシーのカーラジオにしては音がよすぎるし、タクシーの運転手の態度もどこかおかしい。仕事の待ち合わせに遅れそうな青豆は、タクシードライバーのアドバイスに従って首都高の非常階段から地上へ下りることになる。彼女はスーツに身を包み一見ビジネス・ウーマン風だが、彼女の仕事には犯罪のにおいがする。このミステリアスで危険な雰囲気がたまらない。
 青豆は表向きはマーシャルアーツのインストラクターをしているが、じつは女性を虐待した男を殺す裏の仕事を請け負っている。暇なときはシングルバーで男をあさる孤独な女性であるが、やがて彼女には意外な過去があることがわかる。
 青豆の章は村上春樹が愛読するチャンドラーのハードボイルドを読んでいるような面白さがある。さらに圧巻なのは青豆とカルト教壇の教祖の対決の場面である。この場面は『カラマーゾフの兄弟』のイワンとスメルジャコフの対話の場面を連想せるほどの圧倒的な迫力がある。

 もう一人の主人公である天吾は、予備校で数学の講師をしながら小説を書いている。彼は文芸雑誌の新人賞の下読みをしているが、彼が推薦した『空気さなぎ』という作品を編集者の小松からリライトするように依頼される。天吾は詐欺行為に加担することをためらうが、『空気さなぎ』の魅力に取り憑かれ、小松の依頼を受け入れてしまう。リライトされた『空気さなぎ』は出版され、大ベストセラーになる。
 天吾は青豆とは対照的に物静な文学青年といった感じである。同世代の女性との交際を避け、年上の人妻と付き合っている。結婚とか子供とか、責任をとるのがいやなのだ。この自由で気ままな生き方を好む主人公は、『ねじまき鳥クロニクル』までの村上作品と共通しており、村上春樹ファンにとってはおなじみのキャラクターである。

 このふたつの物語は1984年の東京を舞台にしており、青豆と天吾の物語がどのように交錯するのかということが最大の読みどころである。対照的に見えるふたりの主人公の過去が語られるにつれてつながりが少しずつ見えてくる。女性虐待やカルト教団などを扱いながら根元的な悪をテーマにしているが、単純に善悪の区別はできない。そういう意味ではドストエフスキー的な作品だと思う。読み出したら止まらない面白い作品であるが、読み終わってもしばらく余韻が残る。従来の村上春樹と新しい村上春樹が上手く絡みあいさらにパワーアップした村上ワールドをつくり出している。村上春樹の集大成といっていい傑作である。

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紙の本

愛がすべてさ!

2009/08/25 11:08

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:misaru - この投稿者のレビュー一覧を見る

「…たぶん意識下にある何かが喚起されるのだろう。だから読者は引きずりこまれてページを繰ってしまう」。村上春樹が青豆に言わせたこの言葉は、とりもなおさず彼が「1Q84」の読者に感じて欲しいことだろう。

私はシンプルかつストイックな青豆の生き方が、ページが進むにつれ魅力的に思えたけれど、最後に彼女がゴムの木に執着するシーンでなんだか救われた気がした。天呉の思い出という支えを胸に生きてきた青豆であったけれど、やはり人間は生身の生き物が周りになくては生きていけないのだ。対象がゴムの木であったとしても、愛情がなくては生きていけない生き物なんだ。

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紙の本

村上春樹の文章が持つ、謎の魅力を分析する。

2009/11/29 15:44

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:反形而上学者 - この投稿者のレビュー一覧を見る

この村上春樹久しぶりの長編小説も、日本ばかりでなく隣国の韓国でも100万部の達しようとしているほど売れているという。なぜこれほどまでに国や言語を越えて村上春樹は支持されているのだろうか・・・。
本書の内容についての書評は、みなさんとても良いものを書かれているので、私は別の角度から村上春樹が売れる理由を考えてみたい。
私は村上春樹をずっと読み続けているが、必ずしも彼の著作が全て好きというわけではない。
私が個人的にどうしても気に入らないのは、「春樹好み」とも言われる、小説に出て来る「音楽」などの名称だ。長編小説には必ず「春樹好み」の音楽が詳細にタイトルやアーティストも含めて、それに対する思いのようなものも語られていく。それが、私にとっては少々鼻につくということがある。
こういうことを言うのは当然ながら、私だけではなく、わりと多くの人が思っていることでもあるようだ。
しかし、それでも村上春樹は支持され続けている。
こういう気に入らないところがあるにもかかわらず、私はなぜ村上春樹を読むのか。そこに村上春樹の小説の「秘密」があるように思ったのだ。
これは最近気づいたことなのだが、村上春樹の文章は雑誌などに掲載されていう広告の、コピーライターによるやや長めの文章に極めてスタイルが似ているということだ。
たとえば、「僕は初めて訪れた京都の嵯峨野を散策したあと、こじんまりとした旅館に泊まり、この日のためにとっておいた、とっておきのボトルを鞄から取り出した。琥珀色の液体は水よりも滑らかに波打って、さっき買った藍色の切子グラスに・・・・」、長くなってしまうのでこの辺でやめておくが、いま書いた文章のように、商品広告のための文章というのは、だいたいこういうスタイルで書かれる。つまり、ストーリーの中に商品の購買意欲をそそらせるためのやり方で、商品をクローズアップしたような文章をコピーライターは書く。
こう考えると、村上春樹の文章はコピーライターの文章に極めて似た構造を至る所に有しながら、進行してゆくということが解る。
しかし、広告の文章は商品のための文章であるから、その手法を小説に持ち込んでしまうと、「ある物」や「ある音楽」などに読者は関心を持っていかれてしまう。結果これは、小説全体としては浮いた感じを読者に残すが、その「浮いた箇所」がそれぞれ起点となり、読者の興味を決して小説から逃さない効果を生む。
私の場合は、そういう鼻につくような「浮いた箇所」が気に入らなくても、結果的は最後まで心地よく読まされているということなのだろう。
もちろんこれは私が勝手に感じたことであり、多くの人の賛意は得られないだろうが、こういう読み方をしてみるのも、小説を読む醍醐味ではないであろうか・・・。

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紙の本

やっぱり読まなければ意味がない

2009/07/31 01:49

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:楊耽 - この投稿者のレビュー一覧を見る

BOOK2を読んでも、やっぱり「読まなければ意味がない」と思いました。
でも、意味がなければ読まないので、ここではその意味を考えてみようと思います。ちなみに、もちろんこれは、同じ著者の「意味がなければスイングはない」がデューク・エリントン楽団の曲「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)」の逆を言ったものであることを念頭に置いて言っているものです。

では「1Q84」を読む意味とは何でしょうか。
読み終えて思うのは、それは、読んだ僕が「想像をする」と言うことです。

まず、物語のその後を想像します。
「1Q84」は最近のテレビドラマや、テレビドラマを元にして作られた劇場公開映画のように、謎や伏線が全て解明されてすっきりするタイプではありません。物語が終わった段階で謎が残りますし、主人公には、しなければならないこと、考えなければならないことがたくさん残っています。では、その後の主人公はどうなるのか、と考えると、それは、読者にゆだねられているように感じられました。つまり、その後については、僕自身が想像するしかないと考えたわけです。
そして、僕は天吾と青豆のその後のハッピーエンドを思い描きました。天吾が病院から帰宅した後、約一年を経て、青豆と再会するハッピーエンドです。
僕が描いた、このハッピーエンドに至るストーリーは非常に簡単です。おそらく文章にすれば数行であらすじを描けるものです。
でも、僕は、ここに至るまで数日掛かかりました。その間「1Q84」を反芻しては、それぞれの意味を考え、自分がどう感じているのかを考え、今までの著者の作品を思い出し、わかっていること、謎として残っていることなどを整理し、不足するところは想像しました。
先ずは、これが、「読まなければ意味がない」と思った理由です。そして、このように想像をかき立てられるところが、この物語を読む意味ではないかと思います。

次に、細かい点になりますが、肯定されるべき主人公の天吾に「それは、反社会的な行為ではないのですか?」と問いたくなる箇所があります。嵐の中のおまじないです。この行為は、もう一方の主人公青豆が戦っている反社会的な人物が為す行為と同一です。
著者は、2000年8月に朝日新聞社刊行した「そうだ、村上さんに聞いてみよう」の中で、読者からの投稿に答えて「僕の小説は反社会的であったことは無い」と力説していたのが印象的ですが「1Q84」では、この記述に限って逸脱していると思いました。
それでは、村上春樹は、方針転換して反社会的な小説を書こうと思って「1Q84」を執筆したのか、と考えれば、もちろんそんな事はないと思います。エピソードだけを取り出して描写すれば、まさに「反社会的」と言える行為が、実際に行う人の立場、状況、環境によって意味が変わってくる、と言うことだと思うのです。もちろん、彼の行動を指して「反社会的ですね。」と非難することは簡単です。でも同時に、単純に非難だけをして済ますことは出来ないだろう、と直感します。では、これをどう考えれば良いのでしょうか。
僕には、答えが出せませんでした。
同じように考えれば、BOOK1の冒頭での青豆の「仕事」についても、考えさせられ、答えを出すことが出来ませんでした。
天吾は嵐の中でおまじないをして、青豆はタフでクールに仕事をします。
そして僕はこの物語を面白く感じて、最後までぐいぐいと牽引されて読み終え、天吾や青豆の行為を認め、その善し悪しは保留することに決めました。

このような、自分自身の「1Q84」の読み方を推し進めて考えると、
僕が茶の間で見るTVから流れる残忍な事件についても、同じような事が言えるのではないかと想像が膨らみます。
読書を逸脱しますが、善悪はそれに対峙する場合には有効ですが、例えば茶の間で見るテレビの中の出来事についてはそれほど有効では無いのかもしれない。と思いました。

天吾のガールフレンドや、小松には月がどう見えるのか。気になり出すと、きりがありません。でも僕は何となく、この「1Q84」には「ねじ巻き取りクロニクル」のように、続編があるようには思えません。それは、ここで書いたように、続編は僕たち読者の想像力にゆだねられていると感じるからです。

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「ミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままに」その2

2009/07/09 07:57

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「三億円事件」から1年後の1969年12月12日。某新聞が「容疑者浮上」の記事を掲載する。翌日には「犯人逮捕」と表現が変えられ、街は騒然とした。結果的にはこれは新聞史上に残る大誤報だったのだが、「三億円事件」は1年経っても話題性の高い事件であった。
 誰もが「謎」は解けると考えていたし、「犯人」は見つかると思っていた。
 村上春樹の『1Q84』の謎はとけるのか。作中の「リトル・ピープル」とは何か。「空気さなぎ」とは何を暗示しているのか。
 そもそも、題名の「Q」とは何を意味しているのか。

 「Q」の意味は上巻にあたる「BOOK1」の中盤あたりにこう示されている。
 「Qはquestion mark のQだ。疑問を背負ったもの」」(「BOOK1」 ・202頁)
 しかし、それだけなのだろうか。
 アルファベット26文字をよくみる。じっとみる。「Q」だけが不思議な形をしていることに誰もが気づくはずだ。ちょっど「O」に尻尾がはえた形をしている。そして、次の「R」もその尻尾をもっていることに不思議な感覚をもつ。もし、その尻尾がなくなれば、まるで同じ、二つの「O」と「P」が続くことになる。それは、この物語に何度も登場する「二つの月」と符合しないか。
 「Q」はそれほどに不思議な文字なのだが、やはりそれはありえるはずのない「犯人」だろうか。

 物語はひとつの闇に吸い寄せられるようにして、10歳の記憶のままに、主人公の二人を交差させていく。それを愛の物語と呼ぶのは容易だ。しかし、天吾は青豆がすでに何者でもないことに気づいている。
 「青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと」(「BOOK2」 ・501頁)
 物語は、物語の中で完結することがない。

 戦後の歴史のなかで「三億円事件」が残した意味は大きいと思う。
 「謎」が解かれない限り、「犯人」が見つからない限り、私たちはあの事件に幾重にも物語を構築することができるという意味合いにおいて。
 そして、2009年夏刊行された村上春樹の『1Q84』も同じだ。
 「謎」が解かれない限り、「真相」が読み解かれない限り、私たちはこの物語に幾重にも神話を作りだすだろう。物語の中で、天吾がいつまでも青豆をさがしつづけるように。

 しかし、「犯人」は見つからない。

 ◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でご覧いただけます。

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世界をむしばむ邪悪なものたち

2009/06/14 14:49

11人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。

そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。

これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。

この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。

ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。

その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。

私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。

やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。
 

万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
 

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紙の本

青豆さんと天吾くんが出会えますように。

2010/10/07 08:40

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:かず吉。 - この投稿者のレビュー一覧を見る

1Q84を読んでいて、何よりも心に残っているのは、
青豆さんの天吾くんへの想いの強さ。
そしてそれは天吾くんから青豆さんに向けた想いの
強さでもある。

どうか、青豆さんと天吾くんが出会えますように。

Book2を読み終えて、それだけを強く願った。

主人公二人の視点を交互に読めるこの小説は、とても
いいと思うけれど、残酷でもある。

今近くにいるのに!っていう瞬間を二人の視点から
読めていて、二人の気持ちまで手に取るように分かるのに、
すれ違ってしまう瞬間に、本当に切なくなった。

または、青豆さんが下した決断に、その瞬間に、
一緒に決断を下した気がした。

それほど、1Q84の世界に引き込まれてしまった。

そして、今回、今更ながら村上春樹さんの言葉の選び方の
完璧さに驚いた。

どこの文章だか忘れてしまったので、再読しなければ!
と思うのだけど、1カ所、確かにその言葉の後にはこれしかない
ですよね!!!という文章があって、言葉選びの緻密さ、
考え抜かれた文章の美しさを楽しんだ。

どうして今まで彼の小説をあまり読まずにきたんだろう。
心の底から不思議に思う。

Book3でこの小説がどうやって完結するのか。
青豆さんと天吾くんは、そしてふかえりは、小松はどうなるのか。
気になってしょうがない。

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紙の本

村上春樹は『1Q84』book2によって、新たなる決意と覚悟と持つに至った、そして僕は、ハルキストとなった

2010/03/16 03:48

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:トグサ - この投稿者のレビュー一覧を見る

『1Q84』book1では、延々と続く性描写に少し辟易しましたが、青豆が問題の宗教団体へ潜入へと物語が進行すると、次は次はと読む手が押さえられず、二日くらいで一気に読めました。
結果、この『1Q84』book2の物語の佳境である青豆とオウム真理教を思わせる宗教団体の“リーダー”とのリトル・ピープルの怒りの象徴である激しい雷鳴が轟き渡る夜のホテルの一室での息詰まる会話の攻防は、僕の脳裏にありありと映像が浮かぶようで、まるで僕がこの『1Q84』book2の本の世界に入り込み、青豆と“リーダー”との手に汗握る遣り取りを聞いているような、これまでの読書経験ではかつてなかった“読書体験”を僕にもたらした。

<感想>

「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。」


僕の読みが浅いのかもしれないが、青豆と天吾の物語としては充分に面白く、楽しめたが、この『1Q84』をオウム真理教の一連の事件を、“べつのかたち” に十分、置き換えたとは僕には思えなかった。

細かなことを言うと、天吾の周辺を探る牛河の登場は唐突に思えた。
ラスト近く、青豆が思わず「天吾君!!」と叫ぶ場面は、究極の恋愛を思わせ、感動的であったが、同時にあまりにも純粋であるがため、その描写は少女マンガのようにも思えましたが。
また、青豆のラストの章は、思いっきり「ハードボイルド小説」のようであった。

<批評のようなもの>
フレイザーの『金枝篇』の王殺しの解釈は、大江健三郎の『同時代ゲーム 』で応用された山口昌男の理論とは全く違っていて、いたって“近代的なもの”であった。

村上春樹の作品の登場人物は、いつだってクールで冷めている。
たとえば、この『1Q84』では、青豆がタマルにピストルの手配を依頼するくだり。
とまどったりするのは主人公だけだ。
それも、物語のはじめだけ。物語の終盤になると、村上春樹作品の主人公たちは、事態をあきらめ受け入れる。
しかし、この『1Q84』では違う!!
主人公である天吾は、青豆という“おもし”(前作『海辺のカフカ 』にも登場したキーワード!!)から目覚め、アクションを起こそうとする。
受動的な(レシヴァ)主人公が、能動的に(パシヴァ)劇的に変わるのである。
僕は、このことに大いに注目し、村上春樹氏の新たなる決意と覚悟を見るのである。

“そう、均衡そのものが善なのだ”


何はともあれ、book2で終わりだと思われていた青豆と天吾の物語が、1Q84 BOOK 3としてどのように展開されるのか非常に楽しみである。
リトル・ピープルとは?ふかえりの未来は?

物語全体からハーモニーのような音楽が流れているようであり、中でも物語の冒頭とラストのタクシーの中で青豆が聴いている ヤナーチェク : シンフォニエッタがとても気になり、思わず購入した。
僕が『1Q84』を読んでいる最中に、このヤナーチェックの「シンフォニエッタ」に思い描いていたイメージと少し違っていたが、今では僕の愛聴盤のひとつである。
また、この『1Q84』を他の人がどのように解読しているか気になり、数ある『1Q84』の解読本の中から、内田樹、加藤典洋、川村湊、四方田犬彦ら多数の著名な執筆人が寄稿している河出書房新社の『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を購入した。
この自分の感想を書くまでは、影響されるのが嫌で今まで封印してきたが、book3の予習としても、これからこの『村上春樹『1Q84』をどう読むか』を読みたいと思います。
また、感想記事を投稿できればと思います。

僕のブログ記事

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紙の本

手の温もりを人生のどこかで確かに感じることが、明日を生きる糧となる

2011/02/01 22:58

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る


 青豆は教団内で少女をレイプしているといわれる教祖の求めに応じてその筋肉をほぐすためにホテルへと向かう。教祖をあちら側へと送った後は名前も顔も変え、逃亡生活に身をやつす覚悟だ。
 天吾が手を入れた小説「空気さなぎ」の作者ふかえりが失踪。そこへ新日本学術芸術振興会専任理事を名乗る牛河という男が訪ねてくる。小説家として天吾が名を成す経済的な支援をしたいというのだが…。

 物語は混迷を極めつつある、といってよいかもしれません。
 青豆ばかりでなく天吾の暮らす世界にも二つ目の月が姿を現します。青豆は自分を1Q84年の世界にいざなった首都高の非常階段を見つけることができません。リトル・ピープルとは一体いかなる存在なのか。天吾の前に現れ、そして消えていった空気さなぎの意味するところは。
 村上ワールドの常なる異世界の“ポイント”はどこにあるのでしょう。

 「ポイントはとくにない。さっき幸運の話題が出たから、ふとこの話を思い出したんだ。ただそれだけだよ。もちろんポイントを見つけるのはあんたの自由だけどな」(109頁:タマルの青豆への言葉)

 人の数だけ人生があり、そこには他人は伺い知ることのできない、そして当人すら計りかねる意味があります。いや、意味など本当はないのかもしれません。意味を見いだすのは当人の自由と裁量なのですから。

 しかし読者の私はあえて人生の意味を見いだしたいと考えます。ではその人生に意味を見いだすための便(よすが)をどこに求めればよいのでしょうか。私はこの小説の中の以下の言葉の中にそれを見た思いがしています。

 「そいつが脇目もふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える。」
 「それが私たちの生きるための根拠みたいになっているということ?」(371頁:タマルと青豆の会話)

 「これまでの二十年間、天吾はその少女の手が残していった感触の記憶とともに生きてきた。」
 「月が見えなくなると、もう一度胸に温もりが戻ってきた。それは旅人の行く手に見える小さな灯火のような、ほのかではあるが約束を伝える確かな温もりだった。」
 「これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。(中略)怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。」(500~501頁:天吾の心情をつづった箇所)

 そしてこうした文章を読むと私の胸によみがえるのは同じく村上春樹の小説『アフター・ダーク』の次の一説です。
 「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないかな。(中略)もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。」(250~251頁:コオロギの言葉)

 天吾と青豆、二つの孤独が折れずに生きていられるのは、二人が二十年前に結んだ手の温もりが記憶という名の燃料として確かにあるから。その記憶こそが人生のポイントであるという思いを胸に、BOOK3へと歩を進めたいと思います。

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紙の本

村上春樹ファンには肌になじむ感じの物語

2009/06/05 17:19

16人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:YO-SHI - この投稿者のレビュー一覧を見る

 出版社によると、発売1週間後の昨日(6月4日)現在の発行部数が、BOOK1が51万、BOOK2は45万だそうだ。敢えて指摘するまでもなく空前の売れ行きだ。出版界のみならず経済全体の景気が悪くて社会が沈鬱な現在、明るいニュースの部類にはなるのだろう。良いことには違いない。
 しかし、どういった内容の本か?とか、面白いのか?という情報が皆無に近い中での雪崩のような売れ方に疑問がないわけではない。「売れている本だから買って読んでみたい」というのは自然な感情だが、ある閾値を越えると量的な違いは質的な転換を伴う。1週間で百万部という量は尋常ではない。本書との関連を指摘されるオーウェルの「1984」が描き出した思考停止の状況に思えるが、シニカルな見方すぎるだろうか。

 肝心の本の中身は、少し気になる点はあったが面白かった。2冊で1000ページにもなるし、ゆっくり読もうと思っていたのに、結構なスピードで読みきってしまった。村上春樹ファンには肌になじむ感じの物語だ。かつての作品を思い起こさせる人々や出来事、ふんだんに出てくる音楽、あぁこれはランナーとしての著者の思いだなとか、これは「アンダーグラウンド」を下敷きにしたものだな、などなど。勝手な思い込みができるのも嬉しい。
 そして本書は、ファンではない人にとっても親切な造りだと思う。「親切」というのは「ファン以外には付いて行けない」というほど、いわゆる村上ワールド色が強く出ていない、という意味だ。得体の知れないモノや変わった人々は出てくるが、上々のサスペンスとしても読める。私は、あまりに普通の物語なので、著者の文体に似せた誰かの手になるものなのではないかと思ったほどだ。

 不満がないわけではない。多くの物事が着地しないままになっている。もっと言えば、物語に盛り上がりがない。特に主人公2人のうち一方の視点だけを見れば、「何かが起こりそう」という気配だけで実際には何も起きていない。これで終わりではないのだろう。
 ところで、この物語は、主人公の1人が紡いだ物語と現実が、複雑な入れ子状態になる。実はその入れ子状態はもっと大きく、本書そのものとそれを読む読者までが組み込まれているようだ。なぜなら、著者は主人公の口から、その作品が「物語としてとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していく」のなら、疑問符を残したままであることぐらい何だと言うのだ、という意味のことを言わせている。これは著者が私のような読者を予想して、それに向けた言葉に違いないからだ。

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紙の本

やっぱり村上春樹

2009/07/28 05:54

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:simplegg - この投稿者のレビュー一覧を見る

読み終わりました.結局,まる2日間“1Q84”に取り付かれてしまったようです.こうして,1000ページ近い小説を一気に読破するのは随分久しぶりのように思います.そのせいもあってか,小説の世界から無事日常に戻っていけるかがいささか心配でもあります.

BOOK 2の率直な感想を言うと,この本を書いたのはやっぱり村上春樹だったという感じだ.BOOK 1を読んだときは,少々俗っぽいというか,エンターテイメントよりの本かもしれないと思っていたのだが,その予想は見事に裏切られた.BOOK 1で見られた社会性は徐々にフェードアウトしていき,春樹ワールドへと移行した.昔から,村上春樹が好きな人は好きだろう,そして,昔から村上春樹があまり好きでない人にとっては,やはり好きになれないのではないかと思う.

その分かれ道になりそうなのは,やはりセックスの描写だ(そもそも文体が嫌いという人もいる).昔から,村上春樹に対して,「やりまくりの小説を書く人でしょ」的なことを聞くことが多かったが,その人が1Q84を読んでも結局同じ印象しか持たないだろう.一方で,それに対してある種の抗体を持っているというか,ある程度肯定している人にとっては,村上春樹のそこに本質はないと思うのではないか.僕は後者だ.

本質はないといっても.村上春樹が執拗にセックスを記述することは,精神的なものというより,その行為自体に何かを見出しているとしか思えない.ただ,1読者としては,無理して何かを見出す必要性は感じないのだが.

本書の終わり方が気になった.村上春樹の作品は,(みなさん御存知の通り)往々にしてはっきりとした結論を導くことなく物語が終わる.1Q84もその例に漏れず結局曖昧なまま終わってしまうのだが,どこか違うなと感じた.というのも,本書が“話は終わって結論がわからない”というよりは“話が途中で終わってもちろん結論はわからない”という終わり方をしていたからだ.恐らく,まだ物語ることはできたと思う,ストーリー上は.だからといって終わり方にそんなに不満もないんですが.

結論を言うと,僕は紛れもなく村上春樹中毒でしたということでしょうか.好きなんですね,こういうのが.自分自身も少し変わって,ほんとのところセックスについては,あまりに節操がないのではと思いましたが,それくらいだったように思います.心地よかったです.

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