紙の本
語りとテクストの意味
2009/08/28 18:16
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投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書を手にしたのは、副題と帯の言葉に惹かれたからだった。
<異界>を語る人びと
あの世とこの世の境で彼らは語った
本書の内容については、そでの言葉に見事に濃縮されている。
モノ語りとは<異界>のざわめきに声を与え、伝えることである
―皇族や将軍に仕える奏者として、あるいは民間の宗教芸能者として―
聖と俗、貴と賎、あの世とこの世の<あいだ>に立つ
盲目の語り手、琵琶法師。
古代から近代まで、この列島の社会に存在した
彼ら実像を浮き彫りにする。
「最後の琵琶法師」による演唱の稀少な記録映像を付す。
序章 二人の琵琶法師
第一章 琵琶法師はどこから来たか―平安期の記録から
第二章 平家物語のはじまり―怨霊と動乱の時代
第三章 語り手とはだれか―琵琶法師という存在
第四章 権力の中の芸能民―鎌倉から室町期へ
第五章 消えゆく琵琶法師―近世以降のすがた
DVDには「最後の琵琶法師」といわれた
山鹿良之(やましかよしゆき)演唱の
『俊徳丸』(第三段の一部)が入っている。
全七段バージョンの梗概が付いているので、
DVDが三段の一部であってもどの場面なのかがわかる。
著者は、卒業論文を平家物語で書いて以来
三十数年このテーマを追っており、
1982年から10年余り、
九州の琵琶法師のフィールドワーク調査を行なってきた。
90年代半ばで終わってしまったのは、
琵琶法師のフィールドがその時期にほぼ消滅してしまったからだ。
本書は、出発点となった問題をまとめたものであると著者は述べている。
著者はフィールド調査にビデオ機材をもちあるき、
撮影したビデオは200本以上にのぼるという。
200ページあまりの新書形態で、
琵琶法師の生きた歴史とその存在の意味が凝縮されている。
ひとつのテーマを追い続けることの意義と深さを感じた。
私がもっとも興味を持ったのは、
「語り」と「テクスト」の関係についてである。
それは、「聴覚」と「視覚」ということなのかもしれない。
耳なし芳一について書かれたところでこんな表現があった。
耳という聴覚器官が、琵琶法師とあの世のものとの
交渉をささえていた。
その耳があの世にもち去られたとは、なにを意味するのか。
また、芳一のからだをこの世にとどめたのは、
耳だけをのこして全身に書きつけられた経文である。
この経文とはなにか。
耳なし芳一の話は、耳という聴覚器官について、
また経文というマジカルな文字言語について、
あるいは、<異界>とこちら側の世界との
はざまにある琵琶法師の位相に関して、
さまざまな寓意をはらんでいる。
(p.8)
そして、なぜ盲人なのかについては、このように書かれている。
巫病(ふびょう)を必須の階梯とする召命型のシャーマンにたいして、
巫病のプロセスを経ないシャーマンを、修行型という。
修行型のシャーマンは視覚の障害者に多いのだが、
視覚障害者のばあい、
心身の変調・錯乱などを経験しなくても、一定の修練によって、
この世ならぬモノ(=霊)とのコンタクトが可能だったのだ。
(p.11)
聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、
自己の統一的イメージを視覚的にもたないという点で、
自己の輪郭や主体のありようにおいて常人とは異なるだろう。
それはシャーマニックな資質のもちぬしに、
盲人が多いことの理由でもある。
そして自己の輪郭を用意に変化させうるかれらは、
前近代の社会にあっては、
物語・語り物伝承の主要な担い手でもあった。
(p.11)
平家物語が、どういう性質のものなのかについても興味深い。
平家物語は、「伝承」の過程をへた文章で、
語りの真の発話者が、語り手の<個>を超えた超越的な存在であり、
声を発しているのは眼前の語り手であっても、
声の本当の主体はべつのところにいる、
「視点のない語り」であるというのである。
平家物語テクストは、盲僧・琵琶法師の座を配下に組みいれた
寺院の周辺に伝来したらしく、
本所(領主)が管理した平家物語テクストは、
配下の琵琶法師の語り伝承にも取り入れられた。
応安四(1371)年3月、「平家」語りの最初の正本として
覚一本が成立する。
これが今日一般に読まれている平家物語テクストである。
正本は、覚一から弟子に相伝されていく。
「秘曲」扱いで、当道座の上層部の盲人為特権的に伝授されたのだ。
平氏、源氏、北条氏(桓武平氏)、足利氏(清和源氏)と
源平交代史だった時代、
平家物語は、現実の政治史の推移にたいして
神話的に作用していたのだという。
「平家一門の鎮魂の物語は、源氏将軍家の草創・起源を語る神話」であり、
「足利政権にとって、当代まで続く秩序。体制の起源神話」だったのだと。
ところで、本書を読んでいて『1Q84』を思い出した。
ディスレクシアである「ふかえり」の「好きな小説」は、
『平家物語』である。
たとえば、「壇ノ浦の合戦」と言われると、それが暗誦できるのである。
ふかえりの普段のしゃべり方は平板でそのもので、
アクセントやイントネーションがほとんど聞き取れないのに、
物語を語り始めると、まるで何かが彼女に乗り移ったように思えるという。
彼女を普通のディスレクシアの十代の少女と見ると、
とても不自然な設定に思えるが、
『1Q84』を読了し、『琵琶法師』も読了した今、
村上春樹がふかえりにどんなものを付与させたかったのかが
わかるような気がするのである。
彼女も、琵琶法師のような「異界を語る人」だったのだろう。
そして、彼女の語った物語がテクストの存在により知れ渡ったのと同様に
平家物語もテクストがあったからこそ、
琵琶法師がいなくなってしまっても残っているのだ。
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モノ語りとは“異界”のざわめきに声を与え、伝えること。最後の琵琶法師.山鹿良之を直接取材すること10年余-
聖と俗、貴と賎、あの世とこの世の“あいだ”に立つ盲目の語り手、琵琶法師-古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮彫にする。
-20100531
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[ 内容 ]
モノ語りとは“異界”のざわめきに声を与え、伝えることである-皇族や将軍に仕える奏者として、あるいは民間の宗教芸能者として、聖と俗、貴と賎、あの世とこの世の“あいだ”に立つ盲目の語り手、琵琶法師。
古代から近代まで、この列島の社会に存在した彼らの実像を浮彫にする。
「最後の琵琶法師」による演唱の稀少な記録映像を付す。
[ 目次 ]
序章 二人の琵琶法師
第1章 琵琶法師はどこから来たか-平安期の記録から
第2章 平家物語のはじまり-怨霊と動乱の時代
第3章 語り手とはだれか-琵琶法師という存在
第4章 権力のなかの芸能民-鎌倉から室町期へ
第5章 消えゆく琵琶法師-近世以降のすがた
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<異界と現世を結ぶシャーマン>
琵琶法師にどこか重苦しいイメージがあるのは、『耳なし芳一』によるところが大きいだろうと著者は述べている。琵琶法師は芳一に代表されるように、多くは盲人であったという。
盲人は晴眼者と異なり、視覚がないことで聴覚が研ぎ澄まされていく。著者は、盲人芸能者が、見えない存在のざわめきを感じ取ることで、「異界」とコンタクトできる、ある種のシャーマンであったとしている。東北のイタコや近畿のダイサンなどのシャーマンもやはり盲人であったとし、それらと共通するものがあったという。
芳一の採話を行ったのが、やはり視覚に障害があった(事故により左目を失明)ラフカディオ・ハーンであったことへの言及も興味深い。
平家物語に限らず、義経や曾我兄弟など、死霊のたたりが恐れられたものも、中世、おもに盲人芸能者によって語られたそうだ。
琵琶は大きな胴に棹がつく。棹には柱があり、柱と柱の間で弦を押さえ、胴部分を撥でかき鳴らす。
古来、琵琶法師が用いた琵琶は四弦六柱であったようだ。一方で、雅楽の琵琶は四柱であった。盲僧が徐々に宮中でも演奏するようになり、両方の流れを引いた形で、平家琵琶は五柱である。1つは「サワリ」と呼ばれる、ノイズを創り出す専用の柱である。
語り手が変わるごとにさまざまな改変がなされていく平家物語の成立についての考察もある。
その他、陰陽五行(木火土金水(もくかどこんすい))のうち、特に「土」と盲僧の関わりが深いこと、百人一首にも歌が取られている蝉丸は一節によると盲僧の祖だったとも言われるとの話なども興味深く読んだ。
本書にはDVDが付いている。新書では初の試みとのことである。
肥後の琵琶法師・山鹿良之による『俊徳丸』の一節が収録されている。これがものすごい。継母の継子いじめというか、継母が継子を取り殺して欲しいと観世音菩薩に丑の刻詣りをする場面なのだが、そもそも仏に人を殺せという発想がむちゃくちゃである。そして呪い釘を毎夜七本ずつ打ち込んでいき、七晩掛けて満願成就を遂げようとする、その鬼気迫る執念。それをある種独特の風体(異形といってよいほどの個性的な外貌)の演者が滔々と語っていく。
なるほど異界へと一気にさらわれる凄みのある芸である。
これはある種、暗部へ下っていく作業なのだと思う。芸に聞き入ることで、表には出さなくとも自分の中に眠っている黒い欲求と向き合い、昇華させるカタルシスなのだ。
異界への入口は外にばかりあるのではない。おそらく誰しもの中にある。黒い想いを暴走させないためにも、ときどきはそうした「空気抜き」も必要だったということだろう。
『俊徳丸』のストーリーがそのまま現代に受け入れられるとも思えないが、芸の力で闇を見つめる作業自体は現代でもなお役立つものであるだろう。
あるいはそれを担っているのがいまや伝統和楽器ではなく、別の芸術やサブカルチャーであるということなのか。
*自分の故郷には、かつて瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲人女性芸能者がいた(「瞽」は目が見えないことを意味する)。琵��ではなく、三味線を持って旅して歩いていた。そんなことをふっと思い出した。
*『俊徳丸』は、少し形を変え、『摂州合邦辻』として歌舞伎や文楽の演目となっている。継子いじめに加えて、不義の懸想やら、実は隠されていた真実やらが盛り込まれてなかなかにややこしい筋立てだが、原型は『俊徳丸』だろう。このテーマ、昔の人にはツボだったんですかねぇ・・・。というか、やっぱりなさぬ仲の親子が今より多かったってことなんだろうか。
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斬新で刺激的な本だ。「平家物語」が語り物を端に発して成立した、とか、琵琶法師が語り伝えた、ということは文学史などで必ず知ることなのかもしれないが、それがどのように語られたのか、語られたこと、語ることにはどんな意味があるのかが解き明かされていく。第一級のミステリーだ。ラフカディオ・ハーン「怪談」の「耳なし芳一」の話さえも、現実味を帯びて、目が離せない。
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本書には、琵琶法師の「語る」という行為を通して、そこで何が行われていたのかを網羅的に記されている。「琵琶法師」といえば、歴史の授業で、あるいは古典の授業でチョロッと紹介をされた程度の認識しか僕にはないけれど、考えてみると不思議な存在だった。なぜ、盲目であったのか。どこから生まれてきたのか。そして、どこへ消えたのか。そもそも、どういった価値を持つ存在であったのか。
以下に述べることを、決して差別的な意味合いで受け取ってほしくはないが、僕は勝手なイメージを持ってしまっていて、琵琶法師はいわば稼ぐことを目的とした存在なんだろうと空想していた。それはちょうど河原者が発祥だとも言われる歌舞伎や、あるいは盲目の方の職業としての按摩業などのイメージと結びつき、結局のところ、琵琶法師も生きるための手段であり、決して高尚とはされない芸能の一種に過ぎなかったのではないかと考えたというわけだ。
そんな根本的な勘違いをしていた時点で、本書を読む資格が僕には無かったのかもしれないけれど、そんな根本的な勘違いをしているからこそ、本書は驚きの連続であった。本書は琵琶法師や『平家物語』などがテーマとしてあるわけだが、深く学ぶことのなかった背景を知ることは、時として、いわゆる「実用本」を読む以上に実生活に生かされることがあるように感じる。きっと、歴史や古典の学習の意義ってそういうところにあるんだろうなあ。でも、たしかに、よく言われる「日本人としての教養」や「日本の文化を知ることで~」といったことばには辟易してしまう側面も多分にある。まだ僕には、それに辟易する人たちを説得する言を持たないけれど、……うーん、もうちょっと考えてみたい。
【目次】
序章 二人の琵琶法師
第一章 琵琶法師はどこから来たか―平安期の記録から
第二章 平家物語のはじまり―怨霊と動乱の時代
第三章 語り手とはだれか―琵琶法師という存在
第四章 権力のなかの芸能民―鎌倉から室町期へ
第五章 消えゆく琵琶法師―近世以降のすがた
「俊徳丸」DVDについて
「俊徳丸」全七段・梗概
あとがき
付録 DVD「山鹿良之演唱「俊徳丸」三段目(部分)」
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琵琶法師は盲目の人が多いという。
目が見えないと音の感覚が研ぎ澄まされるのだろう。
琵琶という楽器の特徴
歌い歩くという仕事の仕方、
歌の内容
と3つの視点で捉えると、深い話だと思う。
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何と小さなCD付きの新書。琵琶法師の歴史の本。なぜ、琵琶法師は盲目で無くてはならなかったのか、(あるいはそれが有利なのか)、蝉丸との関係は?など。面白い。
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琵琶法師の歴史を軸に、当時の文化、政治、思想が語られています。公家日記など歴史資料を踏まえた上で考察されており、一般向けの本にもかかわらず価値が高い本でした。付録として、琵琶法師の実演CDが付いているのも嬉しい本でした。
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久しぶりに固有名詞がっつりで、読んだ!という気はするんだけれども、淡々としすぎて(新書だからその通りなのだけれど)、イマイチ残らなかった。
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以下の記事が印象的でした。『小右記』に散楽の記事があるとは、思いませんでした。
『小右記』には、みぎのほかにも、藤原道長が建立した法成寺で催された修二会で、琵琶法師が「散楽」を奏したことが記されている。
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難しかった。
平家物語の知識、及び古文の読解力が無い自分には、ここに書かれている内容の半分以下しか理解出来ていない。実際著者自身、万人を読者対象としている訳では無く、素人に優しく説明するという事はしていないと思われる。
しかし、この書のテーマ「琵琶法師」は、社会学的にとても面白い分野であるとおもわれる。「聖と俗」、「聖と穢」、「敬と怖」の可逆性は世界中に見られるが、その両者を取り次ぐ役割の一つが「琵琶法師」だった。
自分は、「琵琶法師」の芸の部分に興味があり、この本を手に取ったのだが、その目的は必ずしも果たせていない。しかしこの本から特異なエネルギーが与えられたのは確か。「琵琶法師」についてもっと知りたいと思うが、その為に先ずは、平家物語を知らなくてはならない。
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平家物語と犬王をアニメで観て、物語の語り手たる琵琶法師に興味を持って読んでみた。
視力に頼らない世界で、物語を音で聴き、語る存在である琵琶法師は、時に耳なし芳一のように異界からの声も聴き届けてしまう存在として描かれたり、「自分」とは違うような主体を身に宿して独特の語りを展開するという。
時代の流れの中で職業として存続させるための苦心や翻弄の軌跡も描かれている。
何より、最後の琵琶法師・山鹿良之氏の演奏映像が付録になっているのがすごいところ。こういうものなのだと本物を見られるのは嬉しい。琵琶の音の迫力、語り口調は古語ではなく今の言葉で、現場でカメラを構えているかのような描写で、義子を呪う義母の姿が語られる。文章では義母をひどい鬼婆だと思っていたけど、語りでは人間くささが前面に出ていて印象が変わった。
琵琶法師はもういないのか…。
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「平家物語」にハマった余波で手に取った本。
耳なし芳一は、琵琶法師だったのか。そりゃそうか。
ホラー(しかもグロでもあるよね、耳なし芳一)は苦手で無意識に情報をシャットダウンしてたから、そこまで思い至らなんだ。