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商品説明
東大駒場は日本の大学の縮図。学者の人脈とその知られざる生態を浮き彫りにする。【「BOOK」データベースの商品解説】
学問的には対立しているはずの人同士が仲が良かったり、同じことを言っているはずの人同士が激しく敵対していたり…。東大駒場は日本の大学の縮図。学者の人脈とその知られざる生態を浮き彫りにする。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
小谷野 敦
- 略歴
- 〈小谷野敦〉1962年茨城県生まれ。東京大学大学院比較文学比較文化博士課程修了。学術博士。大阪大学言語文化部助教授等を経て、文筆業。「聖母のいない国」でサントリー学藝賞受賞。
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紙の本
大学院に入ることを「入院」っていうんだってさ。そして「文学なんか研究する必要はない」「文学は学問ではない」と大学から文学部を締め出す動きが世界中で起きているんだってさ。本書を読むと、その理由が分かるかもしれません。私はところ構わずタバコをプカプカ吸っては吸殻を捨てまくる喫煙ファシストが大嫌いで、小谷野さんも以前は煙たい存在でしたが、本書を読んで、少し彼が好きになりました。
2009/05/01 20:35
14人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「禁煙ファシズム」で有名な、あの「もてない男」小谷野敦が書いた東大駒場学派と呼ばれる学派の中の人間模様を綴った快著、いや怪著である。
小谷野氏は1981年に海城高校から東大文学部へ進学している。海城といえば今でこそ毎年50人前後を東大に送り込む全国有数の進学校だが、今から30年前は年間2人東大に合格者を出せばよいほうの滑り止め校だった(海城は試験「会場」にいけば受かる学校といわれていた)。このあたりの引け目を小谷野は引きずっていて、本文中に同級生について「東京の有名私立から現役で入ってきた男にあるような心底からの嫌味さ」などと表現するあたりに、この海城から一浪して東大文三に進学した著者のルサンチマンが出ている(同じ大学に入っちまえば、開成だろうが筑駒だろうが同じなんだけどね)。
著者は一年留年後(東大では1年留年するのは普通)東大大学院比較文学へと進みそこで博士号までとって大阪大学で助教授にまでなるが(どうもそこで人間関係でトラブルをかかえたようで)大阪を離れ、東京に舞い戻る。幸い時を経ずして東大の非常勤講師の口にありつくが、駒場キャンパスでの路上喫煙をめぐる同僚とのトラブルから東大を雇い止め(平たく言えばクビ)になってしまう。
非常勤講師といえば、いわば時間給のアルバイトみたいなもので、そこから得られる賃金は微々たるモノだが、「東大の教員」として母校東大駒場のキャンパスを我が物として闊歩できる特権は、小谷野にとって何モノにも代えがたいものであったようで、同じく東大をクビになった西部邁によせて自身にも「東大駒場に対するエロティックな感情、いわば片思いの相手に振られたようなそれがある」と正直に告白している。本書は、いわば東大駒場という意中の彼女に振られた(腹いせにといえば言い過ぎか)ことを契機に、駒場に対する思いのたけを洗いざらいぶちまけたものである。そこまで東大駒場に愛着があるのであれば、こんな本書かなければよいのにという思いがある一方、「小谷野さん、よくぞ書いてくれた!」と絶賛するもう一人の私がいたりする。
本書のメインテーマは東大の比較文学に君臨する平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎(この3人を御三家という)と、これに亀井俊介を加えると「四天王」となるんだそうだが、彼ら比較文学の指導教官とそれに連なる弟子たちの愛憎あるいは悲喜劇の物語である。私のような文学をありがたくもなんとも思わない人間からみると平川なんて場違いな蝶ネクタイを結んでテレビに出てくる右翼オヤジにしか見えないし、小堀なんて産経新聞や正論しか相手にしない保守派の論客、芳賀や亀井なんて名前も知らなかった。亀井が「サーカスが来た!」という本を書いたなんていわれると、「そー言えば、そんな本あったなー」くらいの認識しかない。著者の小谷野じしんが言っているように「文学なんか研究する必要なんか無い」というのは今や世界的潮流であり、ただの暇つぶしの手段に成り下がった「文学」をモノ好きにも「学問」として「研究」することを「生業」とする絶滅危惧種たちが、駒場という狭い場所に引きこもって、よくもまあこれだけ相互に罵倒し合いけなしあいつつ、依怙贔屓して誰それに賞をとらせるうんだかんだとつまらないことで一喜一憂しているもんだとほとほと感心するというか、「大学院を経て教授なんてコースを選ばなくてほんとに良かったなあ」と改めて思う次第である。
本書を読んでいると「大学院や大学の研究室というところは大相撲の相撲部屋に似ているな」という思いを強くする。「企業(や役所)なら、困った上司もやり過ごしておればいつかは替わる。しかし大学の世界では最初についた先生がずっとそのままだ。こんな風通しの悪い世界はない」というアラブ思想研究家の池内惠の発言が引用されているが本当にその通りで、東大比較文学は思い込みが激しく好き嫌いの激しいキチガイたちの治外法権の場なのである。「こんなところではやっていられない」と思う人が多数出るのも無理は無いであろう。
大学教授という職業は大した収入を得られるものではない。人間、金さえあれば、ある意味でいろいろな「逃避」が出来るものだ。別荘を買うもよし、海外旅行に行くもよし、釣りに行くもよしといろいろな気晴らしが出来て、それで人生何とか回っていくんだが、これがあんまりもらえないとなると、あとは組織内の地位の向上と、そのステップとしての賞の受賞(サントリー学芸賞とか)に人生の全てが掛かることになる。そしてこの地位の向上と賞の受賞に「御三家」「四天王」が重大な影響力を持っているとなると、正にこれらの教授は弟子たちの生殺与奪の権利を持つ絶対的な存在になり果せるのである。こんな逃げ場のない息苦しいところが他にあろうか。しかし、それでも、ここに集う連中は大学が好きなんである。駒場キャンパスが好きなんである。ほとんどビョーキだ(笑。
本書を読んでいると大学の語学の授業というものが文学部系教員のための失業対策として設置されていることが理解できるし、またそういう語学系教員の多くが「偉大なる暗闇」を気取って、博士号取得をしていないのは当然として、教員のくせに著書を一冊も出さないことをむしろ美徳として開き直っていることを巻末で著者は痛罵している。小谷野氏が言う通り「学者というのは本を書く人」のことを意味するのであって、海外の大学同様、日本でもpubishi or perishの原則を徹底すべきだと私も強く思う。だめを押すように著者は「書かないのではなくて書けない」「未だかつて、著書を出さないことが美徳であるゆえんをきっちり説明した文章を見たことがない」と書いている。
それにしても著者は執拗に四方田犬彦と自己を比較している。「四方田は博士号を取っていないが俺は東大で博士号を取っている」「四方田の著作は100冊を超えたというが、それには訳書も含まれている。私の数え方では四方田の著作は54冊だが、私は35冊で亀井俊介の36冊についで東大駒場の3位だ」「何々賞を四方田が何時取った」「私が書いた『もてない男』は十万部のベストセラーになった。比較出身者で短期間にこれだけ売れた本を書いたことは、四方田ですらない」なんか四方田と小谷野の間に経緯でもあったのか?
豆知識も豊富だ。ドナルド・キーンは世渡り上手の社交家に過ぎず、日本のマスコミでは日本人が喜ぶような発言をしていながら海外のメディアは舌鋒鋭く日本非難を繰り返す2面性をもった人間で信用できないとか、島田謹二が猟色家で子供たちは謹二の女癖の悪さを深く恨んでいたとか謹二に捨てられて発狂した愛人がいたとか、教授による女子学生へのセクハラは日本のみならず世界中で日常茶飯事で、なかには強姦まがいのことまでしても同業者にかばわれてその後も平然とキャンパスを闊歩する輩がいるとか、医学部あたりでは女性秘書の多くが教授の慰み物になっているか(ほんとかいな?)。