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どこまでやれば「小説」でなくなるのか
2010/04/24 21:48
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投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
青木淳悟三つ目の短篇集で、本書では一貫して建築、土地のことを書いている。しかし、その書き方が尋常ではない。一冊目ではまだずいぶんと普通の小説に近かったのだなと驚いた。二冊読んで、青木淳悟がどういう作家なのかということがなんとなく分かってきたような気がした。
今作では特に小説の語り、ナラティブの側面に凝ったやり方で書かれていて、どこまでやれば「小説」でなくなるのか、という境界に挑戦しているかのような作品が並んでいる。
表題作の「このあいだ東京でね」からして異常な作品。マンションを買うとすればどのようなことを考慮し、どのような手順、手続きがあり、例えばモデルルームはどんな場所で、何があり、何が行われるのか、というような住宅事情にまつわる様々な事柄を延々と語り続ける。文体も、まるでコラムの文章か何かのように、一般的な視点から、通常、こういうときはこのようなことがこうして起こり、こういう手順を踏むもの、というように進み、小説が普通そうであるように、個別具体的な誰それの体験ということをほとんど書くことがない。
小説的な文章もなくはないけれど、延々と住宅事情の解説のような文章を読むことになり、まずもって面食らう。そもそも、主人公と呼べる人物すらいない。最終段落に取って付けたように「私」という人物が現れるのだけれど、本当に取って付けたような適当さだ。
一冊目でもそうだったのだけれど、この人は地味なディテールや情報、業界の常識みたいなものにやたらと詳しい。雑学、というのとも博識、というのともちょっと違った知識の豊富さだ。知っていることを書いているのか、調べながら書いているのか、どちらにしろ、普通はこの知識の上に、登場人物を展開させるところだけれど、むしろ、その知識を主役にしてしまっている。
その意味で、この小説はもはやフィクションですらない。時間的継起もほとんどなく、主人公もほぼ姿を見せず、誰が何の目的でこの記述を行っているのかすらもわからない。
もうほんとうに、なんだこれは、と当惑するしかない作品で、これは何なんだろうと思ったところ、「社会は存在しない」という論文集で岡和田晃が青木淳悟を「ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」と呼んでいるのを見て、そうか、これはヌーヴォー・ロマン、あるいはアンチ・ロマンと呼ぶべきか、と納得した。
この短篇を「小説」というものをいかに脱臼させるか、という試みとして読むと、ここで書き落とされたものが、普通小説にまず必須のものと考えられているものであることがわかる。というか、そもそも「物語」「お話」が欠けている。そして当然その話の主人公も欠けている。おそらく、かなりの人はこんなものは小説ではない、とすら言うだろう。
私はこの表題作を読んで、そして次の短篇を読んで、その次を読む内に、この作家は次はどんなやり方で小説を書くつもりなのかと、ニヤニヤしながらどんどん読み進んでいくことになった。「TOKYO SMART DRIVER」ではグーグルストリートビューを取り上げて、俯瞰的な視点からの叙述がいつのまにか車中の視点にスライドする語りの妙が楽しい。「障壁」はまるで海外旅行の心得みたいな知識と、ちょっとした小説的オチがついたりしてやや意外。
特に言えば、「夜の目撃談」という短篇が面白い。内容自体は、ある女性の妊娠から出産にまつわる出来事を語りつつ、同時に猫の生殖行動についてのあらましが語られ、そのうち猫の話がメインになって終わるというもの。この書き方も、特定の女性について書いているようでありながら、どこか一般化したモデルケースを語っているような距離感があり、ものすごく独特な印象がある。で、この作品は「僕」という女性の恋人が語っているのだけれど、作品にはその男性が知り得ないことが書き込まれていて、「僕」がイコール語り手とは言えないというような混乱が含まれている点が妙だ。第三者視点から書いているのかと思ったら後半で突然、「僕」とか言い出して面食らうわけだ。
もうひとつ変な作品があって、「ワンス・アポン・ア・タイム」という短篇がそれだ。これ、1999年の新聞を適当に漁って読んでいるだけ、という代物。いろいろ雑感めいたことが語られつつ、当時の新聞を今の目で読むのだけれど、で、何がしたかったのか、という読者の疑問には答えない。
全体的に私はずっと後藤明生のことを考えながら読んでいた。「ワンス・アポン・ア・タイム」の新聞記事の渉猟など、後藤明生のあみだくじ式テクスト散策を思い起こさずにはいられない。後藤明生もまた、「小説」の関節外し系の作家というか、日本のヌーヴォー・ロマンと呼ばれた作家として、ある種同じ括りに入れられるのじゃないかと思った。
後藤明生は近畿大で教鞭を執っていたとき、自分の小説を読ませて、小説に対する固定観念、先入観をまずぶちこわしてから授業を進めていったというけれど、青木淳悟の小説もこれは小説だろうか、いや、これが小説なのだ、と小説概念を考え直させるのにピッタリなんじゃないか。
後藤明生作品に比しても、本書収録作品は「小説」からの逸脱ぶりにかんしては徹底していて、後藤明生のように私小説的形式すらも採らず、語り手すら宙に浮いてしまうような書き方はなかなか凄い。後藤明生をさらに訳分からなくしたような作品集だ。そう思うと、「このあいだ東京でね」のラストシーンなんかちょっと「挾み撃ち」っぽいかななんて思えてくる。
それはいいとしても、デビュー作からしてこの人の小説はかなり変なので、小説に当惑させられたい人には一度読んでもらいたい作家だ。
岡和田晃による、青木淳悟、バラード、監視社会、ゲームなどを横断する興味深い講演のレポートを書いていますので、一読頂きたい。
SF乱学講座 岡和田晃「「ナラトロジー」×「ルドロジー」新たな角度からSFを考える」
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「その銀座通り、また並木通り、ガード沿いのコリドー通りと、行き方はいろいろとあるにせよ新橋方面から歩いて晴海通りへと出て、どの道を行こうとも結局は数寄屋橋交差点あたりで合流して最後には、有楽町マリオンのビルのあいだを通り抜けてJRの改札に向かう。」-『さようなら、またいつか』
「四十日と四十夜のメルヘン」から数えて三冊目となる青木淳悟だ。相変わらず言葉が溢れている。作家に対する印象は作品とともに作家も変わっていくので変わっても当然と思うけれども、「このあいだ東京でね」を読みながら、作家の尽くす言葉が「思い」から「固有名詞」にはっきりと移った印象を持った。スタイルが変わったとは思わない。溢れる言葉は次々と浮かぶ思いに促されて書き連ねられているという印象は、これまでと同じように残る。しかし読む側の思いの速度は立ち止まり気味となる。
次々と頭の中に浮かんでくる思いがどんどん言葉に置き換えられるのを見るのは嫌いではない。それらの思いが物語の流れとは直接関係なくても、それを読み進めることはちっとも苦だとは感じない。しかし、固有名詞が溢れてくると読み続けるのは苦しくなる。それは言葉が何かを喚起する力が固有名詞では強過ぎるからだろうと思う。
もちろん作家がただ単に固有名詞を放り込んでいる訳ではないことは解る。そこから立ち上がる思いが見え隠れもする。しかし胸が苦しいような、酸素が足りていないような、そんな気分になってくるのである。
話は違うけれども、自分も日本で勤務する時には、西新橋に事務所がある会社へ通わなければならない。毎朝少しでも会社に行くのが遅くなるように、大手町で地下鉄を下りて歩く。その時間は、頭の中に様々な思いが浮かんでくるように身体をほぐす準備体操の時間のようなものでもある。目に写るもの、花、雲、水、鳥、石、建物、人、そんなものが何かを喚起していく。そうして生まれた思いの種を掌で温めるように言葉を巡らす。それは青木淳悟が「このあいだ東京でね」の中で繰り広げて見せてくれることと似たようなところがある。しかし、そんな何の脈絡もない数々の思いをことごとく言葉に直したものを読んだとしても、もちろん、息が詰まったりはしないだろう(それは自分の言葉だからということではなく、もし同じような物語を誰かが書いていたとしても窒息はしないと思う)。その違いはなんだろうか、と考えてみる。
ひょっとすると自分は固有名詞の持つ、何かがオートマチックに決定される感じが苦手なのかも知れない。例えば、大手町にある赤いレンガを模した外観の建物に貼り付いた「○○ビルヂング」という言葉を目にしても「○○」の方には余り思いが吸い寄せられずに、どちらかと言えば「そういえばこの通り沿いに『ビルヂング』という名前を冠した建物は幾つかあるなあ」という方へ漂ってしまう。
あるいは、自分の職業では地表や地下を構成するものに付いた名前(まどろこしい表現ですが一般的には地層名と言います)を使って過去の出来事を説明するのが常識であるのだけれど、自分にはそれがいつもしっくりとしない、ということとも繋がっているかも知れない。地層名というのは、��じ時代に同じような環境で生成されたものにも異なる名前が付いていたりするのだけれど、地層に付いた名前には、付随する地質学的概念や地域性がべったりと張り付いているので、それを符丁としてコンパクトに主張を伝えることができる(それはどの分野でも用いられる専門用語の利便性である)、とは解っているのだけれども、その固有名詞の持つ強権発動的な雰囲気が苦手なのである。それと似た違和感があるのかも知れない、と思い至る。
それは、二桁の積算を筆算で行うのと計算機で行うことの間に存在する違いのようでもある。その時に感じる、取り残されたような気分(特定の言葉に付随する概念を物理的に頭の中で再現する間に話者は先に進んでしまうので)を、今回の青木淳悟には感じてしまったのだった。
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よく言えば斬新ですが、はっきりいって、ツマラナイデスネ。
よく調べましたねご苦労様でした。でも、お金と時間返してください。
ただ、東京の描写してどーすんの?
ただ、家買う人の行動書きつらねてどうすんの?
最後のお話でいっきによくなるんすかね。待てないけど。
久々にはずれ籤ひかされた気分。
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ドラマが極限までにおさえられている。
おそらくここにあるのは小説という必要性について真剣に考えた
結果のひとつなんだろう。
ただし、この小説に関して抱いたのは
質量の圧倒的な不足である。
空間について語られている。だが、しかし
それはすべて交通のためのものであり、通過される。
触れることができ、乗り越えることも可能なはずの
物理的なものは眺められるだけで終わる。
この潔癖症はいったいなんなのか。
いや、語られていることをもう少し拾おうとするなら
むしろ「同時代」という時間についてなのだ。
物語は起源を求めるもののために現れた。
神が死んだ後の系譜学、小説において展開されたスーパーフラット、
消失点の消失、そういったものがここにある。
失われた足はいまだに痒みがおさまらないらしい。
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これぞ青木淳悟。描写の嵐。
ちょっとした短編もおもしろい。
後藤明生をちょっと思い出しながら読みました。
しかしなんでここまで書ける!?
この描写への欲望はなんだ!?
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青木淳悟の「このあいだ東京でね」を読んでいるのですが、個人的にとんでもない箇所があったので載せます。
*****
「木村屋總本店のあんぱん、空也の最中、資生堂パーラーのチキンライス……」
想いの強さにおいてその視線は、はるか銀座四丁目あたりまで透過しているようなものだったが、実際には窓ガラスの光学的な歪みと、通りの向かい側に軒を連ねた中層ビルとによって阻まれ、さらにその先にもひしめきあうビル群、おまけにJR線のガードと首都高の高架車線が街を明確に区切っていた。新橋のオフィスから銀座4-5-7の「あんぱん」までまっすぐに届くものがあるとしたら、それは想像の矢か、あるいは波長の極めて短い放射線くらいのものだろう。
「さようなら、またいつか」より(「このあいだ東京でね」に収録)
*****
僕は言葉を費やして沢山の意味を構築するよりも、言葉を費やせば費やすほど、どんどん所謂「その言葉が意味するもの」とは違う所に行ってしまう(この時の主語は自分かもしれないし他人かもしれない)ということの方に興味があって、それは村上春樹のように比喩~寓話で全く違う場所と繋がるということではない(そして僕が村上春樹を嫌っているというわけでもない)。
よくよく見ると引用した青木淳悟の文章はそうした不可避な意味の逸脱みたいなものとは違って、単純に眼差しの面白さに焦点が合っているけれども、今読んでいる短篇の他の文章には前述の逸脱感がめちゃくちゃある。
今更僕がドヤ顔で言うほどのことでもないが、「何も起こらない」という小説は「どこかに何かがある」ということの裏返しなわけで、自覚的にせよ無自覚にせよその示唆の向こうにどういうものを置くかが作家の実力ということになる(と思う)。もちろんこれは極めて難しいことで、ちょっとしたセンテンスの加減あるいは筋の流し方で途端にあざとく計算じみた作者に都合の良い小説になりがちだ。僕は小説を書いてこの点での実力の無さを痛感した。修業が足りない。ともあれ、そんな中での読み手はじゃあ一体何があるのかということを考えることで自分の物事の受容の仕方を刷新していくことになる。もちろんこれは数ある手段の中の1つに過ぎないが。そしてこれは言わずもがな小説にだけ当てはまる話ではない。
青木淳悟の文章の向こう側は広大だということを言いたいがためにこんなことになったけど、僕がどれだけ書こうと魅力を塵ほども伝えられないので、少しでも興味が湧いた人は新品で買って下さい。長~~~~い目で見れば絶対後悔はしないと思います。
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うーん…なんといったらよいのでしょう。8つの作品集のうち表題作は、一切の感情表現はなく、都内に住居を持とうと考えた者の語りは延々流れるビデオを見せられているようです。実験的?もっと楽しさがほしいなぁ。全部は読めず飛ばしてしまいました。
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小説に出てくる言葉、というのは独特の距離感で日常に私たちが交わす言葉とは乖離していて、そこに魅力がある、とよく思う。なんだけれども「つまらない形式的な文章」と思われるものにもそこはかとない魅力があるのではないかとも常々思っている。
例えば実家を出て初めて部屋を借りる時、新鮮な言葉たちに出くわした。「敷金」「礼金」のような、その意味合いから確認をしなければならないようなものや、「窓がどちらの方角を向いているか」とか「水道料金は2カ月に1度請求がある」とか「この地域はどの曜日にどのゴミを捨てるか」など、それまで特に気にしていなかった関心事までそこには加わる。こういったことも「今」を構成している一部には違いないとぼんやりと思っていたけれど、青木淳悟さんの『このあいだ東京でね』でその思いをいっそう強くする。
青木さんの本を読むのは3冊目である。すでにかなり変わった小説を書く、ということは知っていたので面食らうことはなかった。すとんと腑に落ちる、という感じもなかったけれど「ひょっとしたらこういうことをやりたいのかな?」というのはどことなく感じ取れるところがあった。例えばこの中に収録されている「このあいだ東京でね」という作品は、東京の街のスケッチのような体裁をしながら、住まいの構造や、住宅ローンの仕組みなど、いろんな方向へ話が展開していく。荒唐無稽のようだけれど、これらも確かに今の「街」を構成しているものの一部なのだ、という気はしてくる。自分もわりとこういう言葉フェチなのかもしれず、「このあいだ東京でね」の一編はけっこうツボだった。ちょっと?というものもあったが。
青木さんは本に限らず、いろんなところに書かれた意味を成す文字にこだわりがある人なのだろう。本の外にも言葉が溢れていることを読む者へ感じさせる。
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これが小説?というような作風の不思議な小説。
??と思いながら新刊が出ると手にとってとにかく最後まで読んでみるということを続けている。
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東京、それも区内にマイホームを求めることの幻想を描く表題作。
東京での生活の便利性を、交通ネットワーク・住宅ローンと返済計画という観点から検証していく。
もはや小説というより実用書の趣き。リアリスティックな文体。
マニュアルを読んでいるようだ。疲れる。
東京から博多までの、新幹線と飛行機と自動車での競争を描いた
「TOKYO SMART DRIVER」。
なかなか面白い。淡々と。スリルなし。やはりマニュアルを読んでいるようだ。
1999年に起こった様々な事件・出来事を、当時の新聞から読み解く
「ワンス・アポン・ア・タイム」。
新聞を読んでいるのと変わりないぞ。
自自公連立、懐かしい。
『しかしなにより問題なのは、毎日届けられるその日の新聞を読むことの意味だ。せっかく毎日ちゃんと新聞を読んでいても、衆議院の解散時期さえなかなか見極めがつかないのだから。(中略)また最近の目まぐるしい経済の動き。その情勢変化の激しさにはまるでついていけそうにない』
オイラも新聞を読んでいて、時々不毛感に襲われていたのも事実。
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私はダメだった。苦手。
何が言いたいのかさっぱり分からない、ただの文章遊び。
変わったことをしているというのと、いい、というのは違う。
私はこういうのは全くダメで、疲れてしまって読めなかった。
だから、ざーっとざっくり見たけどちゃんと読んでいない話もある。
いくつもの話が収められていて、どれも少し前の現代。
やっぱり私は現代の話ってダメなんだと思う。
とくに『ワンス・アポン・ア・タイム』という記事の羅列のようなものがダメだった。「あー、もう無理」と思い知った。
帯に書かれていること、
「若き奇才が、恐るべき手さばきで組み立てていく」というのは間違っていない。文章の組み立てで小説に仕立ててしまうというのは奇才だと思う。
でも、私には「だから?」としか思えなかった。
1冊で決めつけてしまうのはよくないので、もう1冊『いい子は家で』も読んでみようと思う。
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小説の新しい可能性を感じた。 非常に現代的な感覚を、たとえば、ネットサーフィンをする、ウィキペディアを読むといった体験を再現している小説だと思う。
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なんでそんなところに関心を持つのか、分からないピントのズレを感じるとイラッとするが、この小説がそれ。しかも読んでるとバス酔いのように。面白いところもあるんだけど、やりすぎ。途中で断念。
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マンションの募集広告、江戸時代の旧町名、道路標識と交通法規、猫たちの生態、そして大手検索サイトの「ストリートビュー」機能まで。
都市にまつわる無数のことばの積み重ねから、懐かしく驚きに満ちた街の姿が立ちのぼる。
(アマゾンより引用)
もうこの作家さんヤダ(PД`q。)
ホント意味が分からん
過去最高に読むのに日数がかかった
何度もうやめようかと思ったか…
でもやめたら自分に負けた気がする(笑)