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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2009.4
- 出版社: NTT出版
- サイズ:19cm/433p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-7571-4171-1
- 国内送料無料
紙の本
日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉
著者 イアン・コンドリー (著),上野 俊哉 (監訳),田中 東子 (訳),山本 敦久 (訳)
日本の若者たちにとってヒップホップが意味するものは何か。日本人のアイデンティティ、日本語ラップ、ファン文化、音楽業界という多様な視点から、1990−2000年代の日本のヒ...
日本のヒップホップ 文化グローバリゼーションの〈現場〉
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商品説明
日本の若者たちにとってヒップホップが意味するものは何か。日本人のアイデンティティ、日本語ラップ、ファン文化、音楽業界という多様な視点から、1990−2000年代の日本のヒップホップの核心に迫る。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
イアン・コンドリー
- 略歴
- 〈イアン・コンドリー〉1965年生まれ。マサチューセッツ工科大学(MIT)外国語・文学部日本文化研究准教授。専門は、文化人類学、現代日本の文化研究。
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紙の本
その現場経験で理解の欠如を埋め合わせることはできない
2010/08/02 13:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:上原子 正利 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書はアメリカ人の大学院生(現在は教授)の博士論文を基にした、日本社会とヒップホップの関係についての研究書である。博士論文は1999年、原書は2006年に発表された。中心となる滞在調査の時期は90年代中盤で、00年代の状況も調査されている。著者の関心は文化的グローバリゼーションと「現場」にある。著者は日本におけるヒップホップを、人々が自発的に行う下からのグローバリゼーションの好例と捉えている。現場(クラブや録音スタジオのような、文化的生産の重要な場所)は下からのグローバリゼーションを実現するための「通り路」であり、著者が強調する研究上の重要概念でもある。著者は数多くのライブ、レコーディング、アーティストとレコード会社の交渉を観察したという。
そのような調査にもかかわらず、本書は問題の多いものになっている。容易に気付く難点は誤訳だが、それ以外の問題も多い。まず、論理に問題があり、根拠の示されない主張、一貫しない主張、意味の無いことやどうでもいいことをややこしく書いた文章で溢れかえっている。構成も様々なレベルで混乱し、読者との問題意識の共有手続きが欠落して唐突に話が変わる部分も多い。現実を無視した主張も目立ち、データを集めずあいまいな印象に基づいて全体の傾向を述べ、自分の主張に都合の良い特殊例を全体の代表のように扱う。必要な参考文献を欠いたまま怪しい主張をする一方で、同業者にアピールするため自分の業界の文献は不要でも参照する。このようなそれぞれ1つだけでも本の評価を下げる問題が、本書には高い密度で詰め込まれている。文化についてもヒップホップについても、本書から学べば歪んだ理解に到達するだけだ。
しかし、本書にはさらに重要な問題が存在する。それは、日本に対する理解の欠如を示す、奇妙な視点が全体に現れていることだ。この問題が本書を興味深いものにしている。仮に、この本が一般のライターによって書かれたものなら、この点は気にかけなくても良いだろう。日本との文化的な違いを考えると、日本に対していびつな理解を持つ米英人(イギリスの研究者も含む)が存在することは自然だからだ。しかし、学術書、しかも先人の審査を受ける博士論文に基づく本がこの状態ということは、米英における日本文化研究業界でこの視点が標準的なものとして共有されていることを示している。それはすなわち、日本の文化について、米英で実情を理解している人がいないことを意味する。本書を読む意味があるとすれば、この状況を知ることだろう。
奇妙な視点の1つは、日本の主流文化を理解できていないにもかかわらず敵視し、見下すというものだ。著者は、日本の主流のポップスと、それに過度に敵対しなかった日本のヒップホップを事実上の敵として設定し、その存在を小さく見せようとする。そのようなグループを自分の主張に利用するため、その発言を要約する際に意味を歪めることまでする。それに対して、主流に敵対するラッパーについては、その主張が平凡でも現実の重要性以上に大きく見せ、そのような人々が売れないのはレコード会社のせいだと暗示する。著者の持ち上げる人々のやっていることがヒップホップ分野の外で先行して行なわれていても、それは重視せず、ヒップホップの功績のように扱う。
もう1つの奇妙な視点は、侍のような、外国には無いが現代日本でも辺縁にしかない概念に対する執着だ。著者は日本で支持される通常のヒップホップ作品を軽視する一方、侍のような古い日本の概念に依存したマイナー作品を重視する。ヒップホップと関係のない侍の話をした後で、「もし今日のサムライが本当にヒップホッパーなのであれば」という冗談のような問題意識を真面目に持ち出す。侍以外でも、顔を黒く焼いて黒人の真似をする日本人の若者の話が繰り返し現われ、『笑っていいとも!』が「a popular music information TV show」(訳書では削除)とされ、なぜかアニメの話が多い事からも、著者の属する業界が現代の日本文化についていびつな知識体系を持っていると考えられる。
著者の他に、引用される他の作家や研究者の文献にも同様の問題が数多く見られる。奇妙な記述の例に次のものがある。70年代終盤と80年代のおニャン子クラブは日本の女性ポップスの初期の例で、『オールナイトフジ』に出演し、ビキニかそれより少ない衣裳で座っていて、名前の代わりに番号を持ち、“セーラー服を脱がさないで”はレイプの楽しさを暗示する歌だという(Stanlaw 2000)。間違いだらけだが、英語で書かれているので、日本人にはほとんど知られることがない。この業界は、日本文化の情報を体系的に蓄積してこなかった上に、文化の違いに関する理論的な枠組みも持っていないようだ。その結果、現実と一致しない認識がはびこり、侍のような古い概念や、顔を黒くした若者のような分かりやすく奇抜なものに飛び付かざるを得ない。
本書の象徴的な問題が、現場の行きすぎた強調である。著者は現場視点を自分の研究の新規性として打ち出そうとし、序章や原書の裏表紙で多くの現場を見てきたことを強調している。しかし、著者は現場をあいまいに定義し、何でも現場の話に持っていこうとするため、主張が意味不明になる。そして、現場を強調しながらも、現場経験を通じて自らの視点を変えることがない。現場を過度に強調するのは、著者とその業界が、日本に対する理解と文化に関する理論を持っていないことを埋め合わせるためだろう。実際に体験してきたと言えば、ほとんどの人間を黙らせることができるからだ。しかし、その現場経験で理解の欠如を埋め合わせることはできない。普遍性を目指す努力を欠いたまま現場経験を振りかざす限り、現場の外で通用するものは生み出せないだろう。
本書の問題を考える際には、ピンカー『人間の本性を考える』、アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』、ソーカルとブリクモン『「知」の欺瞞』が参考になる。これらは学問業界の問題を扱っている。アメリカのまともな日本研究には、コールマン『検証・なぜ日本の科学者は報われないのか』がある。音楽の面では、田中『電子音楽 in JAPAN』、後藤『Jラップ以前』が参考になる。この2冊を読めば、日本の音楽について本書とは異なる印象を持つだろう。