紙の本
悟りが開けるかも
2009/02/22 14:44
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:世界共和国屁 - この投稿者のレビュー一覧を見る
文庫になったので買いました。明晰・平明な論理で、大げさに言えばすべての哲学問題の最終解決を目論むかのような論考。
(ご本人は、そんな大それたことは考えてないとおっしゃるだろうが…)
これが分析哲学の威力というものか。デカルト・カントから現象学やウィトゲンシュタインに至る超越論哲学も、ヘーゲルもニーチェもレヴィナスの他者論もデリダの「差延」やドゥルーズの「差異と反復」のような現代思想のわけのわからない晦渋な議論も、ここでは身も蓋もないシンプルな形式に還元され、大変すっきりと見通し良くなっている。もっとも大陸系の哲学者の名はほとんど出てこないのだが。
永井均の独在性論とかなり重なる部分が多い。永井氏のこの<私>ではなく、「私たち」が扱われているので、読者は形式的議論の中に「実存」を読み込んでしまうような錯覚に陥る恐れは少ないだろう。
ただ、形式的論理を詰めていくだけのように見せかけて、いつの間にか「意味」が密輸入されているような、狐につままれたような感じがなくもない。
「語る」ことはおろか「示す」ことにすら失敗した果てに見出される「ないよりももっとない」は認めたとしても、それを「実在」とか「神」とか呼ぶことに関しては、それこそ人それぞれ(相対主義w)でいいんじゃないかという気もする。
もちろんそういう究極の意味の解明が行われるところが哲学の面白さでもあるし、形式的議論だけなら数学の集合論や数学基礎論を本格的にやった方が面白いだろう。
内容の要約はしない、というかできないが、とりあえず、相対主義の泥沼に嵌って脳内が混濁している人には絶対的にお薦めする。
相対主義の極北には何が「ある」のか、犯人当て推理小説のように読めます。とにかくすっきりします。
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相対主義を煮詰めると、極限まで切り詰めた実在論と通底するトコあるんでね?が本旨。
哲学や論理学の言葉づかいにそこそこ眼が慣れてないと、まわりくどいことこの上ない本ではあります。
「相対主義という絶対的な主義主張に陥らず」相対主義を語ろうとすると、まあ、こういう書き方になるんでしょうねえ。
「ゼロ基準に向け微分すりゃ、無理数も自然数も三角関数だって全部つながるよね」てなひとことで終わるような気も。あ、それじゃ論考にならないか。
論理思考の楽しい本なんですが、批評畑のかた向けかも。
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タイトルがとっても興味をそそった。
がはっきり言って難しかった。
難解だった。
でも、あとがき(のあとがき)に書いている、
「…平易で分かりやすくて『おもしろい』のではなく、単純なはずなのに難しくて、頭が変になりそうだけれど、それが『おもしろい』でなくては意味がない。哲学なのだから。」
という言葉に激しく同感した。
P.074
「このような窮地から相対主義を救うためには、相対主義を『個人主義的』に解釈することを放棄すればよい。例えば、何が真理であるのかは、『各個人の思い』を超えた『認識の枠組み』に対してこそ相対的である、と考えればよい。」
P.081-
「言い換えれば、Tという主張が言っている内容は、Tという主張自体には当てはまるのか。…自己適用されるとしてみよう。…『どんな真である首長や見解も、ある認識の枠組みXにおいて相対的に真であるにすぎない』(T)という主張も、ある認識の枠組みX'において相対的に真であるにすぎない。」
これこそ私がなぜか昔から考えてきた、「テレビの中のテレビ」みたいな考えだ。あれは哲学の始まりだったのか。
でも
P.112
「…それが一つの確定したポジティヴな主張として受け取られてしまう限り、まだ不十分である。なぜならば、それらを一つの確定した主張として読み取ってしまうことは、相対化の自己適用を、ある段階で恣意的にストップしてしまうことであり、その停止がすでに版相対主義的な前提の作動になってしまうからである。」
そのとおりです。
P.177
「しかし、懐疑論が『現実だと思っていることがすべて、培養液の中の脳が見ている夢かもしれない』と語るときには、すでに夢ではないほんとうの現実があることを暗黙のうちに前提にしているのではないだろうか。つまり、『培養液の中の脳が見ている夢』について懐疑論が語る時には、その『培養液の中の脳』という言葉は、夢ではない現実の培養液の中の脳を指示せざるをえない。…」
P.180
「…完全なる消去と完全なる遂行は一致してしまい、決して区別がつかないからである」
0=1ということがありうる。
まあつまり
P.183
「『真理は、Xに対して相対的である』…『Xに対して』のXを、ソクラテスやプロタゴラスなどの各個人と考えるのでは、不適切であることが分かった。つまり、各個人が思い浮かべていること、『真理』と『単なる思い』、『ほんとうに…であること』と『…とただ信じているだけのこと』との区別が、当の本人にとっても維持されなくなる。」
P.214
「こんなケースを考えてみてもいい。二人の人がいて、彼らは考え方の『前提』において正反対で、その前提から導かれる『結論』においても正反対で、言い争っているとする。しかし、彼らは一致してしまっている。それぞれの『前提』から、それぞれの『結論』が導かれるということ自体については、両者ともすでに受容してしまっている。」
P.220-
考えていることが何もない
ということを考えている
ということを考えている
というテレビの中のテレビの中���、テレビの…
どんな些細なことでも、つきつめてかんがえれば、それが立派な学問になる。
著者は「無限論の教室」の野矢氏や「子どものための哲学」の永井氏とかと知り合いみたい。
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クラクラする入不二ワールド全開。理解が不十分な点も多々あるけど,分析系も突き詰めると,空や無というところに行き着くという感じでしょうか。認識論と存在論の関係とか,ゾクゾクします。
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本格的な哲学書というのは初めて読んだが、ダイナミックな思考の過程が感じられて面白かった。
相対主義のによって、私たち、の存在の否定と肯定を繰り返す無限ループ、終わりのない問いかけによって生み出される境界のない枠組み、そしてその私たちすら、ない、という状態こそが、相対主義の極北であるという。その、真の意味での、ない、ことこそが、絶対的?な心理との接点。
と書いて見るものの、半分も理解できた気がしないので、また読もう。
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「みんなちがって、みんないい」に対する違和感を明晰に言葉にしてくれる。明晰な分だけめまいがするような本です。まだ本旨は呑み込めてないけれど、のちのち効いてきそうです。
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『相対主義の極北』というタイトルに惹かれて購入。
「地平線と国境線」と「足の裏の影」の話から入る。ここに相対主義の枠組みと実在の関係と、相対主義の無限後退と実在の関係を想像するべきなのだろうか。
著者は本書の考察を「円錐形」になぞらえる。絶対的な真理や正しさはなく、枠組みや観点に依存するという相対主義は非常に広い。カントの物自体に対する哲学的枠組み、プロタゴラスの人間尺度説、人間原理、ルイス・キャロルの亀とアキレスのパラドクス、などは円錐のたとえにおいて、これは円錐の底面に相当する。ただし、その論考を煮詰めるとすべての相対主義の議論は核心とも言うべき一点に縮減される。これが円錐の頂点に当たる。さらにはこの一点において実在論の極限に接近するというのが図式的な理解だ。そして、それこそが相対主義の極北というべき地点である。
相対主義は、内在化、複数化、断絶性、再帰性、相対性と絶対性の反転、非-知の次元、という六つのエレメントを持つという。それぞれの説明はあるが、わかったようなわからないような気分になる。
本書の中で自分がもっとも心動かされたのは、第八章のクオリアの議論だ。単に自分の関心ごとに近かっただけのことなのかもしれない。この本の中で意識論が議論されているとは思わなかったので、若干不意を衝かれた形になった。「客観的・科学的な記述は、私たちが体験しているクオリアを捉えることができないし、さらに、私たちの認識能力は、異者のクオリアへは決して届かない。したがって、客観的・科学的な記述は、最も近い私たちのクオリアにも、最も遠い異者のクオリアにも及ばないのである」という。トーマス・ネーゲルの「コウモリにとって、コウモリであるということがどういうことであるのか」というハードプロブレムは、クオリアの問題としては消えさるというものだ。クオリアは、クオリアとは別の何ものか(something)になるか、単なる無(nothing)になってしまうほかないという。このような形で哲学的な論点でクオリアが扱われうるというのは新鮮であり、哲学的思考の可能性を示しているとも思える。
最後に本書は、
「「私たち」は限界をもたないが有限である。相対主義の極北とは、「私たち」と「私たち」の未出現との間の、最高度の断絶性がきわだつ地点である」
という結論に至るが、自分自身が極北に至ったのかは、はなはだ疑問である。ただ、こういうことを考えるのも必要なことなのかも。
あとがきにて、
「平易で分かりやすくて「おもしろい」のではなく、単純なはずなのに難しくて、頭が変になりそうだけれど、それが「おもしろい」でなくては意味がない。「哲学」なのだから」
という著者の言葉がこの本の意義を表していると思う。決して難しい言葉で書かれていないが、その内容はおそらくは深い。決して誰にもお薦めする本ではないが、良い本だと思う。
扱っているテーマから古典なのかと思ったら比較的最近の本ということ。まだ、こういう本が日本人によって書かれ、出版され、文庫化されるのかと少しうれしく思った。
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「なんかよくわからんが凄い」これがこの本の印象で、論理的に思考展開するという行為の凄まじさを実感する本である。
そういう意味ではまさに「私たち」の存在が無限の反復の中に存在するという本書の主張の延長線上にある感想となってしまった。
「私たち」という絶対的な存在が立ち現れるという事をイメージする為には、その背後に無限の論理的反復による宇宙が存在し、その無限に生まれては消える反復こそ「私たち」という絶対的な存在の源になっているのではないか、という風に咀嚼してみた。
私は本書が文庫化されていて本当に良かったと思う。それは解説がついてるからだ。解説が良い本はそれだけで読むに値すると思う。
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相対主義を究極まで純化した「極北」には何があるのか、著者が徹底的な掘り下げを行なった過程を論じた一冊。
極めて抽象的な思索が巡らされますが、哲学には全くの門外漢である自分にも決してわかりづらいということはありませんでした。
繰り返される「無限後退」といった循環的なイメージが、自分の持っている相対主義のイメージと重ねやすかったからかもしれません。
かと言って、ありきたりな議論がされているだけかというとそうではなくって、後ろの方まで読み進めた後、前の方の章を読み返してみると議論の浅さが感じられる。
つまり、少しずつ丁寧な論証を積み重ねていく中で「極北」に近づいていっていることを実感できるのです。
実在論やクオリア論、アキレスと亀のパラドクスといった論題にも触れることができるし、読んでいる間は知的な刺激を受けてなかなか楽しかった。
その一方で、何度も読み返して自らの知的思索を深めていきたいかというと…
あくまで刹那的に楽しめればいいや、と思ってしまう自分はやっぱり哲学には向いてないようです。
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哲学者入不二基義氏のデビュー作でありながら入手困難の状態が続いていた幻の名作が、ちくま学芸文庫に殿堂入りして帰ってきた。春秋社版を読み損ねていたわれわれファンにとっては待望の文庫化である。
「あらゆる真理は相対的である」という相対主義の考え方を、相対主義自身に適用するとどうなるか。相対主義もまた相対的にのみ真であるということになってしまい、自己論駁に陥るのではないか。
ここで「枠組み」という概念が重要になってくる。「Sは枠組みXにおいては真であり、枠組みYにおいては偽である」という主張が成り立つためには、枠組みXでも枠組みYでもない、両者を俯瞰する枠組みZが必要であろう。しかしその枠組みZが絶対的であるということは相対主義に反する。一方で枠組みZもまた相対的であるとするならば、落差は反復され枠組みは完結しない。
かくして相対化の徹底によって枠組みは無限に更新され蒸発する。だがそのような枠組みを超越した観点が一つだけ残る。それは「私たち」である。いかなる枠組みもそれが枠組みとして認知される以上は、それを認知する「私たち」がいなければならない。枠組みの外延を国境線に例えるならば、「私たち」の外延は無限に後退する地平線になぞらえることができる。
そのような「私たち」にも、しかし外部が存在する可能性を入不二は指摘する。それはもはや地平線から離れた宇宙のような最果ての地、「ない」よりもっと「ない」こと、「私たち」の未出現(BEFORE WE ACCEPT)である。――無をあくまでも存在の否定形としてとらえた自由論者サルトルが、外部によって形成される「われわれ」を主張したのに対し、無限に拡張する「私たち」を提唱する入不二が、その後運命論を語り始めることになるのは興味深い。
次著『時間は実在するか』(講談社現代新書)と並んで、日本哲学界の独創的古典として残るべき名著である。読者を選ぶメタフィジカルな哲学書ではあるが決して難解ではなく、読破に自信のない読者には野矢茂樹氏による素晴らしい解説からまず読むことをお薦めしたい。
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相対主義は、つきつめていけば相対化の無限後退を招く
その無限後退では、無限後退しているという状態を考察できる。
さらにその先には、あるともないともいえない。認知すら出来ない極北がある
なお、相対主義は主観(個人)に対する相対ではなく、認知の枠組みに対して相対と考えるべき
同様な極限を実存に対しても考えると同じように、認知すらできな状態が想定される。
実存と相対主義に共通する状態になる。
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私の好みとしては本書の第6章がすこぶる良かった。デイヴィドソンについての本を最近読んだばかりのせいかもしれない。
ただ解説者の野矢茂樹さんが言っている通り、分岐の可能性もあったと思う。つまり、理解不能なものが一つであることはできなくてゼロ個以上のどこかであるとも考えられる。物質を分割しても一種類の素粒子とは限らないように。
私は私がいなくても世界は存在していて、むしろ私が、いるのが邪魔だと思っていたこともあった。最近はどちらかというと、私なしではこの世界が存在しなくなるという方向に向かっていた。反復していくという発想はなくもなかったが、元気づけられたことは確かだ。
永井均さんがネッカーキューブが二通りに見えるが、こっちのほうが見やすいと言っていたのを思い出す。実在論か相対主義もそれと似ているように思えた。