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紙の本
きのこ文学大全 (平凡社新書)
著者 飯沢 耕太郎 (著)
あゝ愉しきかな、「きのこ文学」。おいしいきのこを探しに、いざ、森の中へ! 文学から漫画・音楽・映画と、古今東西のあらゆる「きのこ本」を博捜・渉猟。きのこ愛の世界を明かす人...
きのこ文学大全 (平凡社新書)
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商品説明
あゝ愉しきかな、「きのこ文学」。おいしいきのこを探しに、いざ、森の中へ! 文学から漫画・音楽・映画と、古今東西のあらゆる「きのこ本」を博捜・渉猟。きのこ愛の世界を明かす人文系菌類学入門。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
飯沢 耕太郎
- 略歴
- 〈飯沢耕太郎〉1954年宮城県生まれ。筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。写真評論家。きのこ文学研究家。著書に「写真美術館へようこそ」「戦後写真史ノート」「世界のキノコ切手」など。
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著者/著名人のレビュー
きのこに関する本に...
ジュンク堂
きのこに関する本には図版が多いものだが、本書は逆に図版を限りなく排除し、いかに文章だけできのこの世界に分け入るかを追及している。文章で表現されるきのこは愛らしさよりも、不気味さや神秘性の方が前面に出てくるようで、それもまたきのこの魅力の一つ。著者がジャンルを越えて渉猟したきのこ文学の数々をご堪能下さい。
紙の本
文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。
2009/01/17 22:41
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐吉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
なんとも風変わりなタイトルだが、決して奇を衒っているわけではない。冒頭の「きのこ文学宣言」で飯沢は云う。
『図書館などに行くと、きのこについての本はたいてい自然科学のコーナーに分類されている。かねがね、人文系のきのこ図書がまったくないことに大きな不満を抱いていた。後で詳しく見るように、きのこのイメージは文学作品の中で見過ごすことのできないユニークな場所を占めている。』
どういうことか。
きのこは実に多彩で奇妙な生き物だ。地球上には50万種以上のきのこが存在すると推定され、その色も形も大きさも千差万別。食用として珍重されるものもあれば、深刻な中毒症状をもたらす毒きのこもある。およそきのこほど変異体の多い生き物は他になく、極言すれば、その一本一本が独立種だということさえできる。きのこについてはまだまだわからないことが多く、その存在自体がなんとも謎めいていて蠱惑的である。
実は我々が普段「きのこ」と呼んでいるのは、胞子を散布するため地上に現れた子実体にすぎず、本体である菌糸の大部分は地下にあって目には見えない。地上のきのこを手がかりに、地下の菌糸の森に想像を広げてゆくことは、我々の目に映る世界を出発点に、「心」や「無意識」といった不可視の世界を描こうとする文学の営みを、メタフォリカルにさし示しているようでもある。
また、きのこは中間性を具現した生き物である。植物が光合成によって無機物から有機物を作り出す生産者であり、動物がそれを食べる消費者だとすれば、きのこのような菌類は有機物を無機物に還元する分解者である。その意味できのこは、生物と無生物とを媒介するものだということができる。
『そしてここでやや強引に結びつけてしまえば、文学とは本来そのような「中間性」の領域で働くべきものなのではないだろうか。分類され、定義づけられ、がんじがらめに固定された世界の隙間に入り込み、思ってもみなかったもの同士を結びつけ、そこに見えない流れを作り出していく。生と死を媒介し、生の中に死を、死の中に生を育てあげていく。それはまさしく、自然界におけるきのこたちの役割と同じなのではないか。となると、ここになんとも奇妙な結論が導き出されてくる。すなわち――文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。』
そう「宣言」したうえで飯沢は、古今東西の小説や詩や戯曲、またエッセイ、漫画、絵本などから、何らかのかたちできのこをテーマにしている作品を小事典形式で紹介してゆく。
そこでまず驚かされるのは、その渉猟範囲の広さだ。本書に取り上げられた執筆者たちをざっと眺めてみただけでも、その広範さにめまいがしそうだ。宮澤賢治、夢野久作、稲垣足穂、渋澤龍彦、筒井康隆、小川洋子、川上弘美、エドガー・アラン・ポー、ウラジーミル・ナボコフ、ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、レイ・ブラッドベリ、イタロ・カルヴィーノ……。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの古典にも目を向け、映画『マタンゴ』や松本零士『男おいどん』に登場する「サルマタケ」に言及し、さらには筋肉少女帯の「キノコパワー」へと、旺盛に視野を広げてゆく。
だがそれ以上に驚くべきは、それぞれのコメントから窺える飯沢の文学に対する造詣の深さだ。たとえば泉鏡花の『茸の舞姫』を、飯沢は「古今東西の「きのこ文学」の白眉」と称え、「きのこの妖しさとエロティシズムが、鮮やかなイメージとして脳裏に焼き付く傑作」と評したうえで、鏡花の小説に現れるきのこのイメージは「懐かしくも哀切な女性の記憶と結びついて」いると分析し、鏡花にとってそれは「母なるものの化身」だったのかもしれないと語る。あるいは『ピーターラビット』シリーズの作者ビアトリクス・ポターについては、彼女がかつてきのこ学者を志しながら、夢破れて童話作家の道に進んだエピソードを紹介し、その後の彼女の作品に、若い頃に打ち込んだきのこ研究の成果が活かされていることを見て取る。
飯沢の文章は端正で品がよく、これだけ蘊蓄を傾けながらも、衒学的な印象をまったく感じさせない。広範な知識と高い文学的素養に裏打ちされた知的な面白さと、彼がきのこに寄せる愛情の深さが気持ちよく伝わってくる。「きのこ」という切り口から、こんなにも深遠で複雑な「曼荼羅図」が見えてこようとは、いったい誰が想像し得ただろう。上に紹介した「きのこ文学宣言」を、飯沢は「ややトリッキーなマニフェスト」と自嘲するが、評者はむしろ、その言葉に目からうろこが落ちる思いがした。「文学はきのこである。あるいは、きのこは文学である。」こんなにも端的で明解な文学の定義がかつてあっただろうか、と。
紙の本
ヒョウタンツギもキノコだったんか……
2009/03/11 00:32
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る
きのこの好事家・飯沢氏が『世界のキノコ切手』に続き送り出した一冊、今度は『きのこ文学大全』か。さても、物好きな……。
小説やエッセイはもちろん、俳句、演劇、漫画から映画、音楽に至るまで古今東西からかき集めてきたキノコ作品目録。どうせ道楽でやってるんだから大したことはあるまい、などと考えていると見事に裏切られる。その渉猟具合が半端でないことは、新書でありながら300ページもあるそのボリュームにもあらわれている。
≪うまかったのか、うまくなかったのか。彼の心は、奇妙になげやりだった。もうひとかけら食べてみようと思った。じつのところ、まずくはなかった――うまいくらいだった。彼はさしあたりの興味にひかれて自分のなやみも忘れてしまった。これはまさに、死とたわむれることだった。もうひとかけら食べてから、ゆっくり口いっぱいたいらげた。手足の先が、奇妙にうずくような感じになってきた。脈がそれまでより速く打ちはじめた。耳の中で、血が水車溝のようなひびきをたてた。「もうひと口やってみろ」とクームズ氏はいった。≫……ウェルズの『赤むらさきのキノコ』より
キノコの本質のひとつに、飯沢氏はその「中間性」をあげている。キノコは植物ではなく、動物でもない。キノコは自然界で生と死をなかだちする生きものである。また、食物であり毒物であり、クスリでもあるキノコは生と死を同時に象徴する稀有の生き物であるとも。
私もそう思う。人生に絶望して赤むらさきのキノコをほうばってしまったクームズ氏のように、足をもつらせながら、分類も時間も空間もごちゃ混ぜになったキノコ文学の世界を渉猟してみるのも、まんざら悪いことではないように思う。
追伸:私はあまり本を読まないのですが、この本に載ってないキノコ本をいくつか。
『人類最古の哲学』中沢新一……人文書。ベニテングタケが登場。
『真夜中の弥次さん喜多さん』しりあがり寿……ラリ漫画。喜多さんキノコ化
『風の谷のナウシカ』宮崎駿……漫画を是非。キノコ最強世界
『ライカ伝』川崎ゆきお……ガロ系漫画。神としてキノコ登場
『サイバラ茸』西原理恵子……内容はキノコと関係なし。だが、サイバラのトリックスター資質を見るにつけそのキノコ親和性は十分と見る。
『なめこインサマー』吉田戦車……エッセイ。別の作品にシイタケキャラ使用
『西の魔女が死んだ』梨木香歩……キノコ寄生植物ギンリョウソウ登場
『塊魂(カタマリダマシイ)』……吸着するゲーム。キノコを無意味に多用。
小泉純一郎……破壊者にして創造者、智者にして愚者。善悪さだかならぬトリックスター、ハーメルンの笛吹き。首相官邸に幻覚キノコが生えるエピソードあり