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商品説明
【小林秀雄賞(第8回)】「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか。日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおす。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
水村 美苗
- 略歴
- 〈水村美苗〉東京生まれ。創作の傍らプリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年「續明暗」で芸術選奨文部大臣新人賞、95年「私小説」で野間文芸新人賞を受賞。
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紙の本
英語の世紀の中で、日本語を護るために
2008/11/17 11:27
24人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:としりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、英語の世紀の中で、今のままでは日本語が亡びゆくとする。
なかなか重厚な内容で、海外での著者の体験から、「国語」論、日本語の歴史、日本近代文学の奇跡、教育論へと展開される。
国際化の進展とともに、ついに小学校教育の現場にも英語が導入される時代となっている。国民総バイリンガルを目指すのだろうか。
英語の重要性は当然のことだが、日本語教育とのバランスをどうとっていくべきか。そこに著者は大胆な提言を示している。
アメリカ生活が長かった著者は、当時の学校教育を例にみる。
アメリカのハイスクールでは国語(英語)の授業を上中下の3種のクラスに振り分けたという。
上級のクラスでは古典の素養を身に付けさせ、中級のクラスではアメリカ文学やシュークスピアなどを読ませる。つまり、上級・中級では英語で書かれた文学の伝統を継承させることに主眼がおかれていた。
それに対し、著者自身も体験した下級のクラスは、ただ読み書きができることに主眼がおかれていた。
著者は指摘する。
日本においては、いつのまにかアメリカの下級レベルに相当する国語教育をすべての国民に与えているのではないか、と。
現在の日本の薄っぺらな国語教科書を思うに、衝撃的な指摘ではなかろうか。事実、今の国語教科書は文学作品をあまり扱っていないという批判的な声も出てきている。
著者は、日本の明治から昭和初期の近代文学の作品をもっともっと国語教育に取り入れるべきとも強調する。
日本近代文学はその質と量において世界に誇れる日本文化の一つだったのだ。
恥ずかしいことに評者は、成人してからは日本近代文学の作品をほとんど読んでいない。最近数年間では、30年ぶりに再読した夏目漱石『こころ』くらいのもの。
漱石、鴎外、一葉、などなど、しばらく集中的に読んでみようか。そんな気にさせられた次第である。
最後に、本書で示される、もう一つ重要な点は、学問の世界では国際語(本書でいう「普遍語」)である英語で発表されなければ見向きもされないという当たり前の現実である。
最近でも、大戦中の日本軍慰安婦問題など、歴史の事実関係で欧米の誤解が甚だしいようだ。慰安婦問題の第一人者・秦郁彦教授の労作など歴史の研究成果も英語で発信していく努力が絶対に必要ではなかろうか。
日本文化の基盤である日本語を護るとともに、英語で論争できる人材の育成もまた大変に重要なのである。
紙の本
日本文学が亡びるとき……水村美苗著『日本語が亡びるとき』
2009/02/15 17:33
17人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:カワイルカ - この投稿者のレビュー一覧を見る
水村美苗が日本語について書いた本というだけで興味深いが、この悲観的なタイトルはどういう意味なのだろうか。
アイオワ大学のIWPというプログラムで海外の作家との交流が語られる第1章は、小説のように面白い。著者はそこでアジア系などのマイナーな言語で書いている作家たちと接しながら、英語が<普遍語>になりつつあることの意味を問いかける。
英語が<普遍語>になれば非英語圏では<母語>よりも英語を使う人が増え、その結果<自分たちの言葉>が「亡びる」のではないか、と著者は考える。だが、ここで言う「亡びる」とは、その言葉が話されなくなるということではない。作家にとって「<自分たちの言葉>が『亡びる』ということは、私たちがその担い手である<国民文学>が『亡びる』ということに他ならない」。タイトルを『日本文学が亡びるとき』と言い換えるとわかりやすい。では、「日本文学が亡びる」とはどういうことなのだろうか。
日本では明治以降はやばやと<国語>が成立し、その結果日本近代文学が生まれた。それが世界の「主要な文学」として知られるまでになり、ノーベル文学賞の受賞者を出すに至った。その要因として、日本が植民地にならなかったことなどがあげられるが、それはほとんど奇跡的なことだと著者は言う。そして今、日本文学が亡びつつあると著者は憂えているのである。
英語の世紀となったいま、「これから四半世紀後、漱石ほどの人物が日本語で書こうとするだろうか」と著者は問いかける。たんなる娯楽として読み流すような作品が書かれるだけで、<叡智を求める人>読みたいと思うような作品は書かれないのではないか。日本文学が亡びるというのはそういう意味である。
著者は最後に、日本人が日本語を大切にしてこなかったことを指摘している。日本に水があるのが当たり前であるように、日本語があるのが当たり前だと考えられてきた。そのために日本語が亡びることなど誰も考えていないというのだ。言われてみれば確かにそのとおりである。日本で生まれ育った我々には見えていなかったことが、日本と米国で暮らした著者だからこそ気がついたのだろう。そういう点でとても参考になるし、考えさせられる本である。
しかし、本書の魅力はそれだけではない。著者の日本語と日本文学への思いが強く感じられ、日本文学の素晴らしさを再認識させてくれる。もういちど『私小説』や『三四郎』を読んでみたいし、読みそびれた他の日本文学の名作も読みたいとさえ思う。これから日本語がどう変わるのかわからないが、我々日本人が日本語と日本文学を守るために何が出来るかを真剣に考えようという気にさせられる。文学好きにとって共感できる本である。
紙の本
著者自身はそのことに気づいているのだろうか? 僕にはその構造が一番面白かった。
2008/12/27 21:02
19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本語ブームに乗ってその延長上でもうちょっと高尚な本でも読んでみるか──そんな調子でこの本を手に取った人は苦い思いをするだろう。これはそういう本ではない。読者に向けてのエンタテインメントの要素はどこにもない。
冒頭で謎を投げかけておいてそれを小出しに解いて行くとか、とりあえず何かキャッチーなフレーズでガサッと読者の心を鷲掴みにしてから書き進めるとか、著者にそんな気はさらさらないのである。唯一惹句と言えるのは「日本語が亡びる」というそのタイトルくらいのものである。
だから、最初は読んでいてもちっとも面白くない。著者は読者にサービスする気などなく、独自の日本語論を展開するに先だって必要となる前提を、帰国子女として、あるいは作家としての自己の経験から書き起こして、丁寧に丁寧に洗って行く。この本の土台となる部分であるから、きわめて丁寧に、必然的にゆっくりゆっくり前提や背景や事実関係が洗い出される。言葉というものに強い興味を抱いている読者なら別に退屈で読めないようなことはないだろう。だが、それほど発見も驚きもないことが長々と書いてある。だから、読むのを投げだすほどではないが、かといって面白くもないのである。もしもそれが言葉自体にはそれほど興味のない読者であったなら多分早くも二章で読むのをやめるだろう。
三章までそんな感じで世界(の言語)と日本(語)の歴史と現状がどんどん掘り下げられて行き、四章から漱石や福翁などが引き合いに出されるに至って、知らないうちに読んでいるのが面白くなってきたと思ったら、五章で『三四郎』が取り上げられるや俄かに圧倒的な面白さになる。これは確かに漱石を引き合いに出した日本語論ではあるが、これ自体が独立した夏目漱石論であると言っても充分通用する。
六章以降は再び言葉の世界史に戻り、アリストテレスから明治維新、インターネットまで時代を行きつ戻りつしながら、いよいよ論は核心に触れてくる。
英語が<普遍語>として幅を利かせる時代を迎えて、政府は英語教育に力を入れるべきだというのは誤りである。今こそ日本語教育に力を入れ、国民に<読まれるべき言葉>を教えなければならない。──そんな風に下手にまとめてしまうと、この本が言っていることの本質は見事に失われてしまう。この著者の卓越した視点を知るためには、あくまで著者の敷いたレールの上をひとつずつ検証しながら歩む必要があるのである。そうやって文意を追ってくると、初めて著者が「日本語が亡びる」と書いた意味が解ってくる。──これはこの本を売らんがためのキャッチーなタイトルなどではなかったのである。これは著者の危機感に他ならなかったのである。飢餓感でさえあるのかもしれない。
この本はどれだけ理解されるのだろう? 今の日本人がこれを読んでも、その面白さが解らないばかりではなく、書いてあることの意味が読み取れない人も少なくないのではないかという気がする。僕が思うに、「英語の世紀」が永遠に続きそうな時代に突入した今、必要なことはまず水村が言うように日本語に関して正しい教育をすることではない。多くの日本人がまず身につけるべきなのは、この水村のような論理的思考力なのではないかと思う。
米国で古い日本の小説を読みながら少女時代を過ごしたという著者が日本語の魅力を語り、日本人と日本語のあるべき姿を説いた本ではあるが、その論を進める上で裏打ちとなっているのは紛れもなく近代西洋の論理性でなのある。伝統的な日本語の素晴らしさを知り、英語の洪水の中で日本語が亡びてしまうのを防ごうと腐心している──その著者が則って論を進めるのは近代西洋の考え方なのである。
著者自身はそのことに気づいているのだろうか? 僕にはぐるりと廻ったその構造が一番面白かった。
by yama-a 賢い言葉のWeb
紙の本
日本には日本語があるという幸せ
2012/07/04 08:26
14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
「英語の世紀の中で」という副題に気を引かれてさして期待をせず購入したが、よい意味で期待を大きく裏切られた。
近年の政府の英語公用語化論や文部科学省の実用英語重視の英語教育論に違和感を感じていた者としては、正鵠を射た内容に感動さえ覚えた。「片言でも通じる喜びを教える」英語教育や「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」が教育目標など、どう考えても馬鹿げている。だいたい外国語教育=英語教育ではないはずである。(構造の違う言語を学ぶことは大変に意義がある。)なのに、現在の日本の英語教育は受ければ受けるほど、文科省の意図に反して英語コンプレックスが広がる。特に知的レベルやプライドが高い人材においては、その傾向が顕著である。
『〈真理〉には二つの種類があることにほかならない。読むという行為から考えると、それは〈テキストブック〉を読めばすむ〈真理〉と、〈テキスト〉そのものを読まねばならない〈真理〉である。そして、〈テキストブック〉を読めばすむ〈真理〉を代表するのが〈学問の真理〉なら、〈テキスト〉そのものを読まねばならない〈真理〉を代表するのが、〈文学の真理〉である。』(p.152)
その通りである。前者の真理がテキストブックを読めばすむことは、ノーベル賞受賞者の益川さんや田中さんを見れば分かる。これからの時代、日本人みんなに英語を話せる必要があるなどというのは嘘である。必要なのは、優秀な多重言語者で、みながそれになる必要などない。益川さんがどれだけ流暢な英語のスピーチをしても、それで研究の評価が上がるわけではない。逆に下手でも下がるわけではない。英語でなくても物理や化学(理系の学問)はできるのだと世界に知らしめたことこそ評価されていい。ノーベル賞授賞式でスウェーデン王立アカデミーは、日本人を日本語で紹介した。彼らもまた英語を母語としていないからなのだと気づいた日本人はどれだけいるだろうか。
日本人はもっと日本語を大切にすべきである。子供たちに読書をさせるべきである。名作を読ませるべきである。また、理系の分かる文系を育てるべきである。文系の素養をもった理系もまた同じである。国語に限らず教科書は薄くなった。国語の教科書で<読まれるべき>内容が減ったように、理系の教科書も内容を削った結果、体系的な学習ができなくなっている。さらには、各教科間の連携も無視されており、(たとえば、数学でベクトルを学ぶ前に物理で必要になるなど)全教科横断的に学習内容の再編成が喫緊の課題であると感じた。
P.S.
もう一度、漱石を読み返してみたいという気持ちにさせられた。
新しい教育課程では、「英語の授業は原則英語で」だそうであるが、話し言葉と書き言葉では内容のレベルが違う。口語英語を重視するのは亡国の政策である。
紙の本
著者自身、自分が変わっていると認識している。それが分かるからこそ、安心して読めるのではないだろか。
2009/01/04 14:51
13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ばんろく - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰でも、日本語の変化について話をしたり、憂いたりすることは結構であるが、このようなどちらも正解が無いようなテーマにおいては、日本語というものに対する自分の立場、いや立場以前の、背景となるものをちゃんと表明出来ていることが、とても大事であると思う。その点、日本語でもって実際に小説を書いている、しかもその生い立ちに関わる部分の私小説的なものを自身で物している著者は、さっぴくべきバックグラウンドが分かるから、純粋にその論理だけを追うことができる。順に章を追っていきたい。
第1章は、「日本語が亡びつつある、しかもそれは英語に圧迫されてである」そう考えるきっかけとなった、アイオワ大学での作家同士の国際交流プログラムの様子が描かれている導入部である。この、日本語という国語が英語という普遍語の存在によって亡びる、というストーリーの舞台となる言語構造のモデルを示すのが、第2章である。その言語の構造とは、普遍語とそれ以外の言葉という言語の非対称性というものである。このモデルの根拠について言及するのが第3章、第4章である。そもそも学問というか真理の探究とでも言うものは、単一の言語で行われるべき性質のものであるとして、歴史の古くから普遍語と非・普遍語(現地語)が存在していたことを述べる。さらに、ベネディクト・アンダーソンを引用し、自分の話す言葉でものを書くというのは昔から行われてきたわけではなく、むしろ特別な条件のもとに成立したことを示し、特に日本が日本語という国語を持つに至った背景を近代の歴史から説明する。このように成立した言語構造において、今、英語の力が変化しつつある、という趣旨の話が展開されるのである。
モデルの妥当性を歴史的変遷から述べて証明となるのかはいささか疑問ではある。またそれはひとまず脇に置くとしても、現在の言語構造が時々刻々と変遷してきた結果であると言ってしまえば、最近(著者の生まれるしばらく前あたりか)成立した国語というものが、さらなる変化で消滅したとしても、理屈の上では全く不思議ではないとも言える。わざわざ僕がこう指摘するのは別に、だから著者の主張が意味がないと言いたいわけでは全くなくて、ただそういう性質の話であるという事であるということである。著者がこの時代の日本語という存在を非常に惜しく思っているということが、この話に意味を与えるということだけは、頭に留めておかなくてはならない。実際としては、著者の述べる言語構造についても、はあはあなるほどと思って、言わんとすることはよく分かるし、この日本文学に対する価値観を理解できている限り、この論旨はとても面白いと思う。
さて第6章では、この近代に出そろった普遍語、現地語に加えて国語というモデルが更に動きだし、日本語が洗練されていく様が、翻訳文化と絡めて描かれている。そしてついに第7章で、日本語が亡びる、亡びつつあるという現状が、英語の跋扈とともに描かれるのである。
実のところ僕はこの、英語によって日本語が亡びるという理屈だけは納得できなかった。「仮に将来夏目漱石のような人が出たときに彼は、果たして日本語でものを書くだろうか」、結局日本語の亡びる理由はこの一文に尽きるようだ。これは明らかに反語文であるから、著者の主張は「いや書くわけはない」である。いや、これは疑問文であってあくまで危惧の範囲だ、とも言えなくはない。だが、それでは折角この本が書かれた意味がなくなってしまう。だからここは完全なNoとして読むわけである。しかし本当にそうなのだろうか。夏目漱石が現れたら明らかに英語で書くであろうか。英語という普遍語で書かれたテキストを理解しうるのは、世界の二重言語者と、英語を母語とする人であり、日本語という国語で書いたテキストを理解しうるのは日本語を母語とする人である。人口という量的な問題をひとまず無視して英語を母語とする人と日本語を母語とする人が等価であるとすれば、差し引きして、普遍語で書くメリットとして確かに世界の二重言語者が残る。しかし実際は日本人の夏目漱石にとっては、日本語を母語とする人と英語を母語とする人が質的に等価であるだろうか。僕は「漱石~」の一文は明らかな反語文にはなり得なくて、その将来の夏目漱石という頭脳明晰な人物の「背景」によって、どちらにでも振れる純粋な疑問文ではないか、と思ってしまうのである。
最後の判断については結局人によるとは思うものの、全体としては非常に面白い読み物だと思う。文章はうまいし(失礼!)、なにより真剣にこういうことを考えている小説家がいると知ることが楽しい。しかもそれを文章という読めるかたちにしてくれたのはとても嬉しい。ちなみにこの本を読むために前著書の『本格小説』を読んだのだが、こちらも小説を書くに至った背景が上巻の半分近くを占めるという、こういうのって僕はむちゃくちゃ好きなんである。
紙の本
受け継ぎ、引き継がせるべき日本語について見つめる大変興味深い書
2009/01/01 10:28
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
言語を「普遍語」「国語」「現地語」に3分類し、紀元前からの人類数千年の歴史の中でこの3分類がどのようにせめぎあってきたかを描き出しながら、日本における日本語(国語)と英語(普遍語)の今日と明日を描いた“憂国語”の書ともいう一冊。
著者の力強い筆致に圧倒され、一気に読み通しました。実に面白い本です。
著者の言う「日本語が亡びる」というのは、言語学の領域で指すような「話者がいなくなる」という意味ではありません。その日本語が1000年以上に渡って積み上げてきた文化遺産としての力が継承されなくなることを言っています。ですから書店に足を運べば様々な書物が量的には存在するという現状をもって「日本語はまだまだ大丈夫」と安穏としているべきではなく、そこに読まれるべき日本語が質的には存在しなくなりつつあるのではないかと著者は憂えているのです。
そして大切であるのは、私たちひとりひとりが日本語の継承者として、祖先たちが積み上げてきたものをきちんと読んで次世代にひきつごうとしているかどうかを考えることだとしています。
日本語の将来を見つめる際に、言語学の領域と文学の領域とでは考え方に差異があることが珍しくありません。歴史的仮名遣いの問題などにその差は顕著に現れ、言語学者は「言語は変化するもの」という立場から現代仮名遣いに軍配を上げるでしょう。一方で作家は本書で著者も訴えるように、歴史的仮名遣いの肩を持ちがちです。
私自身は人生において言語学を学んだ時間のほうが長いので、本書の著者の論旨の中でこの仮名遣いをめぐる部分はどうしても納得がいきませんでした。しかしそれでも本書は大変学ぶべき部分の多い書であると感じますし、読了後は私自身、「読まれるべき言葉」である日本語をきちんと読んできたであろうかと真摯に振り返りたくなったものです。
紙の本
もっと日本語に酔いたい
2010/03/22 23:41
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ツイッター上の第二言語は日本語らしい。
英語のツイートの羅列に混じって、ブツブツブツブツ言ってる仮名漢字が
ライン上に溢れる様を想像してみると、なんだか今世紀日本の世界との
戦い方モデルのようで、どこか可愛らしい。
ネット論壇でもだいぶ話題になり、賞まで受賞した本書は、面白かった。
一気読みしていると、英語の世紀の中で英語に飲み込まれかねない
「日本語」が、世界人類の文化的多様性の砦のように感じてきてしまい、
自分も何か日本語で書かなければならない気になるし、漱石を読み返し
たくなるし、村上春樹よなんとか頼む!という気になる。
百年位前、日本が日本であり続けることに必死だった日本人は、
英語で『武士道』や『茶の本』や『代表的日本人』を書いた。
さて、この本は英訳してくれる人はいるんだろうか?
普遍語たる英語圏の人はこの本を面白いと感じてくれるのだろうか?
著者ご本人がこの書を英訳するとしたら、この本の存在価値は
もっと面白いものになりはしまいか。それは本書の主張と矛盾するが、
百年前の志士が我武者羅に主張した日本が、世界に根ざす日本観を
形作ったように、本書は日本語から出発して、英語以外の文字文化の
面白さを英語でも分からせ得る内容なんではなかろうか?
そこまで言うなら、と英語圏の人々に日本語への興味さえ掻き立てて
しまうほどではなかろうか?だって面白いので。
わたしは日本の小説も海外翻訳文学も面白いから読む。その先に
語学学習の本能的目的意識は根付く。この本は面白いと思った。
叫びにも似た著者の日本語愛がいともおかしくあはれでかわいいと
さえ感じた。面白いという感覚の普遍性がどの辺にあるのか知らないが、
それが脳を潤すようなものである限り、欲しくなる。
酩酊するほどの日本語をいま、再発掘するときなのは確かだ。
紙の本
英語の世紀に
2019/10/23 22:57
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
英語が他を圧して「普遍語」になる世紀。著者は大変に悲観的な未来を予感している。さらにその徴候は至る所にあるという。ふだん使う「国語」は「現地語」と化し、叡智を求める者は普遍語で書き読むという言語の二重化が進んでいくと予見する。著者が奇跡だと言う日本近代文学とはそれほどすごいものなのか。そこに共感できるかどうかはこの本の評価するにあたっては大きな要素だが、それ以前に著者の指摘の多くは慄然とさせられることが多く、歴史の洞察には感心させられる。イエール大学に学び、ポール・ド・マンや、当時渡米していた柄谷行人に遭っていたという回想も普通のトリビアに見えるほど。文庫にもなっているようなので読んでみてほしい。