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週末で見つけて買った。
まぁ首相が次々殺されないだけローマより平和と言えるのかもしれません。
破綻していく道も、はじめの一歩は善意なのかもしれません。
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「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」(p.49)
政策とは、将来にわたっていかなる影響をもたらすかも洞察したうえで、考えられ実施されるべきものと思う。そして、深い洞察とは反対の極にあるのが浅慮である。(p.74)
とはいえ、強大な権力を与えられた以上は、それにともなう義務も大きくなる、とも考えられていた。ユリウス・カエサルが言ったように、「高位の者ほど個人的な自由は制限されてくる」のである。このような考え方が、一市民ならば許されることでも、地位や権力をもつ者には許されなくても当然とする、市民たちの想いの論拠になっていたのだった。(p.81)
しかし、最高権力者が自ら墓穴を掘るのは、軽蔑を買う言動に走ったときなのだ。(p.116)
だからこそリーダーには、良き時代をなるべく長くつづかせるためにも、冷徹で細心な舵取りが求められるのである。なにしろ、変わってしまった後でそれをもとにもどすのは、至難の業であるからだった。(p.143)
そして、次の原理も古今東西を問わず人間社会には適用可能だ。現実主義者が誤りを犯すのは、相手も現実を直視すれば自分たちと同じように考えるだろうから、それゆえにおろかな行為には出ないにちがいない、と思いこんだときなのである。(p.164)
「文章は、用いる言葉の選択で決まる」(p.179)
しかし、「理」さえあればやってよいということにはならない。一寸の虫にも五分の魂があるのが、人間の世界なのだから。(p.185)
歴史は、現象としてはくり返さない。だが、この現象に際して露になる人間心理ならはくり返す。それゆえ、人間の心理への深く鋭い洞察と、自分の体験していないことでも理解するのに欠かせない想像力と感受性、このうちの一つでも欠ければ、かつては成功した例も、失敗例になりうるということを、このエピソードは教示してくれていると思う。(p.186)
事件現場に送られた特派記者の報告を思い起こすまでもなく、自分が実際に見たこと聴いたことだけが真実であると思いこむ性向は、人間には多少とも常にある。(p.194)
それは、失うものがある人間は過激化しないということがわかっていたからだろう。(p.200)
だが、人生の修羅場をくぐっていない二十六歳の皇帝は、手段を選ばないとは言っても、それは倫理や道徳的見地では選ばないということであって、目的達成に有効かどうかでは、選ぶ必要はあるということがわかっていなかった。(p.205)
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http://blog.livedoor.jp/masahino123/archives/65142449.html
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ローマ人の物語32巻『迷走する帝国[上]』です。「三世紀の危機」と後世では言われる時代に入ってくる。五賢帝が治めた幸せな時代が過ぎ去り、ローマの混迷と衰退の時代が始まる。
帝政初期のカエサルやアウグストゥス、五賢帝のトライアヌスやハドリアヌス、後世(現代)では暴虐の限りを尽くしたと言われるネロと言ったローマ皇帝は良くも悪くもローマ人だったが、この三世紀からローマ人でない人が皇帝に祭り上げられる。それによって発生する矛盾はローマを徐々に衰退へと導いていく。
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アルクサンデル・セヴェルスの殺害によりシビリアン皇帝の時代が終わり、軍人皇帝の時代が始まるまでです。
前の巻の『終わりの始まり』から、まだまだ力を持っていながらも周辺の事情が変わり、そしてローマ自身も変化していった事によって崩壊していく過程が書かれています。
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長かったローマ人の物語も最終章.帝国は求心力を失い,登場する皇帝もパッとしない.本当に終わりなんだなぁと思うと,さみしくもある.
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カラカラ帝の治世からアレクサンデル・セヴェルス帝の治世まで。
アントニヌス勅令のような、現代人の感覚的には良法と思える法が、ローマの衰亡を速めていくのは興味深い。
(※アントニヌス勅令=ローマ帝国内のすべての属州民にローマ市民権を与える勅令)
ローマの分割統治がどれほど有効に機能していたのか改めて確認した。
ローマ帝国盛期のようなカリスマ性あふれる登場人物がおらず、全体に面白みに欠けたが、兵士のストライキに直面した際のアレクサンデル・セヴェルスとユリウス・カエサルの比較は非常に面白かった。
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カラカラ帝の「アントニヌス勅令」で誰でもローマ市民となることが、帝国の骨格をじわりじわりとむしばむ結果となった。それが始められたそもそもの動機が善意であったとしても。
アレクサンデル・セルヴェス帝の殺害以降、その後の歴史家から否定的に論じられることの多い軍人皇帝の時代となるという。
軍事をわからぬ皇帝が続いたことが、弱体を決定づけ、軍人皇帝時代を招いたという視点は現代政治に通じるものであろう。
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まさに迷走。よそ事ながら心配になってきます。あれほど安定していた国が、我こそは・・・という独裁的な考えが迷走を促したのか? 他国の侵略もさることながら、自国をバラバラにしているのは、実は自国民だろう。
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11/4/30
危機の三世紀の序盤。カラカラ帝によるアントニヌス勅令で全ての人にローマ市民権を与えたり、司法の最終決定権を各属州総督に委譲したりと、段々社会制度に大きな変化を与えローマ帝国が崩れて行く。また続々殺されていく皇帝。コロコロと首相が変わる今の日本とつい比較してしまう。環境が厳しい時は余程優秀な人でないとリーダーに留まれないという事か。
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インペラトールであり、パーテルパトリアエである皇帝が徐々にその質を落としていく様はゲルマンが侵略する残酷さよりも根深く、読んでいるとつらくなりました。マルクスアウレリウスが死去してから、迷走を始めた帝国。カラカラ→マクリヌス→ヘラガバスルス→アレクサンデル・セヴェルスと次々に忙殺されていく皇帝達。ローマ帝国は外的によって滅んだのではなく、内部から崩壊した、と言われる。確かにそれはそれはそうなのだけれども、そう簡単に断定できるほどこの巨大な帝国の歴史は簡単ではない。これから、キリスト教という「クレメンティア」とは相容れない宗教が絡まってくるとどうなるのだろうか… ウルピアヌスがもう少し長く生きていてくれたらと思い。カシウスディオの嘆きを感じられて、悲しい。
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「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられた
そもそもの動機は、善意によるものであった」
著者が何度も引いているカエサルの言葉である。
先帝セヴェルスの軍団優遇政策がそうだったように、後を継いだ
カラカラが行ったローマ市民権の大盤振る舞いと税制改革も、
帝国の国力を衰退させる一因となる。
属州民にも広く門戸を開いていたローマ帝国であったが、それは
本国イタリアのローマ人がローマ人としての矜持を持っていたから
こそだった。
どんな手を打とうとも、駄目な時はすべてが駄目になる。それが2世紀
後半から歴史上「3世紀の危機」と呼ばれる時期のローマ帝国だった。
そして、カラカラ帝以降、病気で亡くなる皇帝が圧倒的に少なくなる。
カラカラ帝、謀殺。次のマクリヌス帝、謀殺。その後のヘラガバルス帝も
謀殺である。
やっと安定した長い治世が望めると思ったアレクサンデル帝も、13年の
在位の後に謀殺される。
このアレクサンデル帝の治世のエピソードとして、軍団兵のストライキの
話が取り上げられているのだが、同じく軍団兵のストライキに遭った際の
カエサルと対比させている。
戦乱さえなければ、善き皇帝だったろうアレクサンデル帝。稀なる天才で
あるカエサルと比べちゃ、可哀想な気がするが…。
さて、ローマ史で私が目鼻がついているのは実はハドリアヌス帝の時代まで
なのである。帝国の混迷の時代になると、読む方も手探りなのだが、これが
同じローマ帝国なのかと思うと、少々辛くなって来る。
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皇帝カラカラからアレクサンデル・セヴェルスまでの治世について書かれています。
時代が大きく変化する時、リーダーの力量が即、国の浮沈に直結してしまうことがよく分かります。
カラカラが軍人としては意外に有能だったことも初めて知りました。政治家としては、わずか6年の治世にも関わらず、その後の帝国衰退の遠因になる政策を多く実施していますが。
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”階級間の格差の全面的な撤廃は、かえって階級間の流動性を断ってしまう”
”高位の者ほど個人的な自由は制限されてくる”カラカラの結婚行動を批判して
”歴史は、現象としては繰り返さない。だが、人間心理ならば繰り返す”アレクサンデルとカエサルの、軍団兵ストライキへの対処を比較して
塩野七生の、社会観が面白い。
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ここ大きくなったらあとは崩壊するだけやけど。でもせっかく育てた?帝国の崩壊する姿ってあんまり気分のって書けないよね。