紙の本
絶望のなかでも奇跡は起きる。
2008/07/21 13:13
37人中、37人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Y.T.Niigata - この投稿者のレビュー一覧を見る
昨年の暮れ、父が末期癌の告知を受けた。骨と皮になった老人の手を引き、医師の前で水を入れた風船のように膨らんだ下肢をみせられたとき、不覚にも涙がこぼれそうになった。一緒に暮らしながら、私は父の変化に気づかなかった。下肢の浮腫は、娘の無関心さに対する、父の身体から発せられた怒りにとれた。正月休みを返上して治療にあたってくれた医師は言った。「最善の努力をします」。手術後、余命が家族に告げられた。
それからの半年間、暗闇の中で一本の糸をたぐり寄せ、希望の灯を見い出すような日々が続いた。そんな頃に本書を読んだ。名画を観たあとで席を立つことができなくなるように、名作を読んだあとで言葉を失うように、読み終えたあとで、何もすることができなくなった。そして、改めて考えた。罪とは何か。罰とは何か。法とは何か。死刑とは何か。絶望とは何か。希望とは何か。成長とは何か。生きるとは何か。愛するとは何か。人は何のために生きるのか。人間とは……?
読み始めた当初、20人の弁護団が語った荒唐無稽な「母胎回忌ストーリー」を思い出し、被害者遺族・本村洋さんの成長と相反する未熟な犯人像を想像した。そして思った。この作品は「司法に挑み、司法と闘い、司法を変えた」青年・本村洋の心の軌跡と成長を描き、「司法に失望してはいけない」「正義をあきらめてはいけない」と鋭く説く作品ではないか、と。しかし、後半になるにつれ、「死」、すなわち「生」を静かに説く作品なのではないかと思い始めた。「生きる」ということは、死ぬほど(本村さんが自殺を考えたほど)苦しむことであり、絶望の淵から立ち上がることであり、逃げないことであり、希望を持ち、使命(仕事)を成し遂げる勇気と信念を持つことであり、命を愛することであり、さらに命を「許す」ことである──。
命は滑稽で再三、茶番を繰り返す。運命を翻弄する神もまた悪戯を繰り返す……。しかし、被害者遺族・本村洋さんと被害者・弥生さんの母は「死(刑)をもって生きよ」と犯人に問い、その命を許そうとしたのではないか。最終章で筆者は「罪と向き合い、死(生)と真剣に対峙した」犯人を神のように許し、人として初めて認めたのではないか。
「生涯、田舎教師」を口癖にしていた父は、幼くして実父を亡くし、自力で教員免許を取ったせいか、天性の明るさをもつ母とは異なり、何事にも悲観的なところがあった。3年前、義弟を肺癌で失ってからは「医者など信じない」とあからさまに口にし、病の予兆はあっても病院の扉を叩こうとしなかった。
その父が変わった。「最善の努力をします」と語った医師の加療を素直に受け、医師と看護士の治療に心から頭をさげ、見舞客や食事のあとには「ありがとう」を繰り返し、人が「いい」と勧めることを疑うことなく聞き入れた。父は何かに憑かれたように、自分のなかにある希望の灯を見つめ続けていた。
癌告知の前から「美しく死ぬことを考えろ」と、ことあるごとに私を諭してきた父。死を考えることは、生を考えること。末期癌と闘う父の姿を目にするにつけ、家族を愛し、愛されることに感謝し、支え、支えられ、暗闇の中でも光を見い出そうとすることこそが生なのだと思わずにはいられない。
この7月、父は再手術に挑戦し、「根治は絶望的」と一時は見放された現代の医療で甦ることができた。自らの生と併走してくれた医師の治療を100%信頼し、絶望の淵に立たされてもなお、人生に光を見い出そうとした父。その姿に、本村洋さんの姿が重なった。医師や看護士の真摯な姿に、本村さんを支えた弥生さんの母・由利子さん、本村さんのご両親、上司である日高さん、刑事、検察官、裁判官……など、美しい日本人の心をみた。
生(死)と真摯に向き合えば、絶望のなかでも奇跡は起きる。父は今、医師が示す次の治療を希望の灯として生きている。
紙の本
人の命を奪うことの罪を痛烈に問う
2009/02/28 17:03
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:うっちー - この投稿者のレビュー一覧を見る
「人の人生を奪うことが如何に卑劣で許されない行為か。」…このあたり前に思える言葉も、光市母子殺害事件の被害者の夫である本村さんから発せられるとき、どんなに重い言葉となって胸に迫るか。彼は、この言葉の後をこのように続ける。
「人の命を奪ったものは、その命をもって償うしかない。それが社会正義である。司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義がない。」
一体、司法の場は、これにどのように応えてきたのか。何の罪もなく殺されていった被害者、そして残された遺族の心情を汲み取り、裁判に生かしてきたのか。
この本に書かれている光市母子殺害事件では、被害者の夫である本村さんは、はじめ、裁判所に遺影を持って入ることすら認められなかったのだという。持ち込みを阻まれ、裁判長に説明を求めても「その義務はない」とはねつけられたのだ。この本は、そうした被害者に対して無情な裁判制度の壁を、ひとつひとつ崩していった、本村さんと彼を支えた周囲の人たちの、その闘いの軌跡である。そして、何より、人が命を見つめ、死生観を構築していく過程を綴ったものである。
妻と子を殺害された本村さんは、何度も死のうと思いつめた。そこから、立ち直り、彼を支えたのは何だったのか。どんな思いだったのか。彼が中学生時代に罹った難病の話、妻との出会い、家族とのことが綴られる中で、それが明らかになっていく。
死と向き合うことで、自分の罪とむきあうことができる。殺人を犯し、「死刑」が宣告されることで、初めて人の命を考え、自らの罪に気づき、贖罪の意識がめばえる加害者の姿は、何を問いかけているのか。何が何でも死刑を免れさせようとする弁護団は、人の命への償いをどう考えるのか。この本は、加害者だけが手厚く遇される司法の場への痛烈な批判だ。
絶望の中から、毅然と立ち上がり、妻と子どもへの思いと、命への強い祈りの気持ちで、歩み続けた本村さん。その姿からは、人が生きていくことの尊さが伝わる。彼が、司法の場での何かを変えたと信じたい。
追記:2009年2月18日、江東区の女性殺害事件の被告に、無期懲役が下された。加害者の男は、マンションの二部屋隣の女性を猥褻目的で自室に連れ込み殺害、その後遺体を切断した。しかし、東京地裁は、この冷酷残虐な事件を「死刑を選択すべき事案とまではいえない」とし、無期懲役にした。またしても…、である。裁判所は、量刑において、個別の事情とは関わりのない相場主義が幅を利かせるところなのだ。遺影を掲げ傍聴していたという被害者の遺族の無念は、察して余りある。
紙の本
光市母子殺害事件を描く「なぜ君は絶望と闘えたのか」が問いかけるもの。
2010/07/14 13:07
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る
こういうたぐいの本はあまり読まないのだが、このノンフィクション
は珍しく読んでみたいと思った。テレビで幾度となく見た本村さんの姿
とその言動に心を動かされていたからだ。もう一度、あの事件と裁判の
全貌を知るとともに彼の心の軌跡を追ってみたい、死刑判決が下るまで
の9年間、心の支えとなっていたものはいったい何だったのだろう?
当たり前のことだが、彼もけっして強い人間ではなかった。事件の後、
会社を辞めようとしているし、なんども自ら死のうと思っている。すべ
てに絶望した男をまさに死の淵から救い出したのは周りの人々だった。
退職しようとした彼に「労働も納税もしない人間が社会に訴えても、そ
れはただの負け犬の遠吠えだ。君は、社会人たりなさい」と諭した上司
とのエピソードが特に印象に残った。彼の闘いはけっして孤独な闘いで
はなかったのだ。
犯罪被害者、という立場について書かれている部分も心に残った。犯
人側は保護されているのに被害者は最初から実名で報道される。刑事訴
訟法には被害者の権利は書かれておらず、法廷に遺影さえ持ち込めない。
本村さんは犯人とだけではなく、様々なおかしさを正すために国や司法
やマスコミとも闘わざるを得なかった。そういう理不尽なものへの怒り
が彼を強くしたとも言えるだろう。死刑制度について考える意味でも価
値ある一冊だ。
ブログ「声が聞こえたら、きっと探しに行くから」より
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7月?
本村さんを支えている人にも
スポットを当てている
特に、上司の方の言葉が
印象に残った。
法律を少しばかり学んできたけど
法律ってなんのために?
裁判はなんのため?
改めて、考えさせられる。
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本村洋さんの記者会見を見る度に“何でこんなに冷静に、淡々と語ることができるんだろ?”と思っていた。
光市母子殺人事件は、世の中の悲惨な事件の一つでしかない。
覚えていないだけど、もっと悲惨な事件がたくさんのかもしれない。
なのに、光市母子殺人事件が、何故こんなにも心に残るのか。
彼の強さと思慮深さと妻と子に対する深い愛情を
目の当たりにして,もし私なら?と問いかけた時に、
彼と同じ強さを持って闘えるのか・・・即答できない。
私は、あらゆることに対峙した時、毅然と闘えるだろうか?
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2008年4月22日、再審の末勝ち取った死刑判決。 光市星殺人事件が発生したとき、海外に住んでいたので活字でしか知らなかったが、折々でニュースとして報道され、被害者の夫である本村洋氏の姿をTVを通してみてきた。 苦悩を味わった人間が感情だけに流されずにメディアを前にして毅然とした態度で言葉で発言する姿勢に尊敬の念を覚えた。 彼についてもっと知ってみたいと思っていた矢先、たまたまミク友から紹介を受け、本書の存在を知り、早速手にとって読んでみた。
突き刺さるように痛い・・・本書を読んだ感想はそんな言葉でしかあらわせない。 本村洋氏の無念さを活字を通して感じ、彼の信念・執念と彼を支える人々の力に心打たれ、そして勝ち取った成果。
本書を読んで改めて知らしめられた少年法の実情と被害者の人権無視。 日本の法律は事なかれ主義の産物で、問題が発生してやっと動くという有様。 人の命と1人の青年の執念によって動かされた法律。
そして何よりも生とは何か、死とは何かという根源的な問題を考える機会を与えてくれた本書は、同時に人間の生きる意味や、生きることの使命は何なのか、という隠れた命題をも提起しているように思える。
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本屋で手に取って立ち読みし始めたら、止まらなくなった。
続きが読みたくて、3日本屋に通って立ち読みで一気に読んだ。(買えよって感じですよね)。
きっと筆者は、かなり本村さんびいきの立場でこの本を書いてるから、
裁判官や少年や少年の弁護士の言い分もあるんだろうけど、
本村さんがものすごい、ものすごい、大変だったんだって事はよくわかった。
簡単すぎる表現かもしれないけど。
本村さんの上司の、
『君は社会人たれ』という言葉、深い。
この本の中で、1番心に残った場面です。
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こんなにもページをめくるのが重く感じた本は無二だったように思います。
光市母子殺害事件が起きてから、
死刑判決が出るまでを綴ったノンフィクションドキュメンタリー。
9年という長い年月を経て、死刑制度の是非にまで飛火したこの事件。
印象的だったシーンがいくつもありました。
1.(絶望と無気力から会社に辞表を出そうとした本村さんに向かっての上司の言葉)
「君は社会人として発言していってくれ。
労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。
君は社会人たりなさい」
絶望の淵の本村さんに、こんな言葉を言える上司を人間として尊敬します。
2.(地方裁判所の判決が出る前夜)
本村は、前日、遺書を書いていた。
もし、判決が死刑でなかったら、命を断とう。本村はそこまで思いつめていた。
(中略)
自分が死ねば、事件に関連して死んだ人間は「三人」になる。
そうすれば社会も声を上げてくれるかもしれない。
そうだ、社会に訴える手段として、自分が命を断とう。
24歳になったばかりの本村は、そんなことを考えたのだ。
本村さんの強い決意に涙を禁じえません。
3.(アメリカの死刑囚、ビーズリーとの対談で)
ビーズリー
「僕は死刑判決を下されてすべてが変わった。
でも、僕はもう死ぬことしかないから何も出来ない。
それはおかしい」
(中略)
立派に更生した人間でも死刑からは逃れられない。
その事実から、社会が多くのことを学ばなければならない、と本村は思っている。
死刑判決は人を変える。でも、それからでは何も出来ない。
結局、加害者も被害者も犯罪からは悲しみしか生まれないんですね。
ありふれた感想ですが、犯罪だけは犯してはならないと強く決意しました。
4.(死刑判決が下った直後の本村さんの言葉)
「どうしてあんな供述をしたのか、事実を認めて反省の弁を述べていたら
死刑は回避できたかもしれない」
「死刑は回避できたかもしれない」
極刑を望んでいた本村さんにとってのこの言葉の重みを感じます。
5.(死刑判決が下った直後の加害者元少年の言葉)
「殺めた命に対して、命をもって償うのはあたりまえのこと」
彼がこの言葉をどこまで本心で言ったかは定かではありませんが、
直接この言葉を本人の口から聞いた著者は真摯な態度での言葉だと記しています。
死刑が彼を変えたのか?
改めてビーズリーの言葉を思い返します。
私はつい最近家族を持ちました。
もし妻を失ったら。。。と思うと想像することすらままなりません。
お子様がいた本村さんは今の私では知りえないほどの絶望だったことでしょう。
それでも、闘い抜いた彼の姿に私はとても憧れます。
もっともっと強くならなくては、誰も救えないし何も変えられない。
生きる意味を改めて考えさせられる良本でした。
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1999年に起きた光市母子殺害事件をテーマにした本。
タイトルにもある本村洋さんによる事件が起きた日の出来事や彼を支えた彼の上司の話はもちろん、最も目を惹いたのが裁判所や弁護士、検事など司法に携わる人々の話だった。
日常生活を送る中で関わる機会の少ない司法関係の人々や法廷という場所について、関わったことのない人のイメージとはどのようなものだろうか?
「司法は正義の味方」、「法律は弱い立場の人々を守るもの」と考える人が多数だろう。しかし、必ずしもそうとは限らないという現実がこの本には描かれている。被害者の遺影を法廷に持ち込むことは出来ず、被害者の写真は公表されても未成年であることから加害者の写真が公表されないなど、遺族の心を踏みにじるような現実があることが、この本を通じて知ることが出来る。
残された被害者がどう生きているのか、加害者は何を考えているのか、といった事だけでなく、マスコミや司法の問題点をも浮き彫りにさせている点で多くの人に読んでもらい、日本社会の現実を知って欲しいと思わせる作品。
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当時、本田氏は年齢や、妻子持ちというところが僕と似通っている。
偶然といっては失礼だが、
彼は事件に巻き込まれてしまった。
本当に大切なものを奪われ、
なお今戦い続けている。
そして、戦いは彼が死ぬまで続く。
凄いものを背負ってますね。
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妻と子を殺害されたにも関わらず、本村さんは第一発見者として(被疑者として)、取調べを受けておられたのですね。
本村さんの生い立ち、結婚、事件発見の状況、事件後の親族、「F」が逮捕されるまで、職場、逮捕後、第一審、検察官の執念、控訴審、被害者支援の動き、犯罪被害者保護に国が動き始めたこと、最高裁、差し戻し審、自分をずっと責め続けてこられたこと、何度も自殺を考えたこと、など。
ぜひ、両方の本を読んでいただきたいと思います。
今回の本は、被害者からの視点で書かれています。法制度に対する絶望、裁判官に対する絶望、被告人に対する絶望、弁護人(弁護団)に対する絶望を乗り越えてこられた本村さんに、一般の方には共感しやすいと思います。原審裁判官の対応(詳しくは読んでください)には私も憤りを感じましたが、悲しいことに、こういった対応をされる裁判官が多いこともまた事実です。
検察官の職務についても書かれています。第一審判決後、司法に絶望した、控訴は望まない、早く被告を社会に出して、私の手の届くところにおいてほしい。私が子の手で殺します」という会見をした直後の、検察庁での第一審担当吉池検事とのやりとり。
『広い三席検事室のソファに腰を下ろした遺族たちに声はなかった。すべてが虚しかった。Fと弁護人の笑い声がそこにいても聞こえるようだった。
その時である。
「僕にも、小さな娘がいます。母親のもとに必死で這っていく赤ん坊を床に叩きつけて殺すような人間を司法が罰せられないなら、司法は要らない。こんな判決は認めるわけにはいきません」
銀縁の眼鏡をかけ、普段、クールな吉池検事が、突然、怒りに声を震わせたのである。目が真っ赤だった。本村たちは息を呑んだ。
「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。そんなことは許されない。たとえ上司が反対しても私は控訴する。百回負けても百一回目をやります。これはやらなければならない。本村さん、司法を変えるために一緒に戦ってくれませんか。」』
当時、判決が無期懲役となることは法曹界では常識でした。検察官としては、当然の判決を受けたわけです。にもかかわらず、被害者を「この判決で仕方がないんだ」と説明するのではなく、このような正義感に溢れる発言をされる検察官がいたことに、司法試験受験時は検察官志望だった私は素直に感動したのでした。
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お友達に借りた本。
光市母子殺人事件。
まだ、皆さんの頭に残ってることと思います。
この本は、読み始めから最後まで
何とも言えない気持ちで読みました。
読み初めから、涙がこみ上げてきて
止まらなかった・・・
憤り、絶望し、考えさせられた。
弁護団に怒りさえ覚えました。
少年法のため、加害者が何重にも守られてるなんて
被害者や被害者に残された家族の思いを考えたら
この事件は、死刑判決で正しいと思う。
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序盤の事件描写の時にあまりに惨くて泣いた。
途中かなり感情的になっていて、論理的にどうかと思うところはあったが、
それでもなお何か司法に大きな問題があると思った。
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山口県光市で起こった母子殺人事件の遺族である本村洋さんの、「司法」との戦いを追った記録。
「人権」は少年法で守られた加害者のためのものであり、
被害者には全くの配慮も無い。
罪の重さの決定基準は事なかれ主義
今の司法制度ってそうなんか!?って思えることばっかりやった
自分がもし、同じような立場に置かれたとき
どんだけのことができるやろう
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1日で読み切った一冊です。
もうね、本村さんの心の叫びと悲しみと、怒りに悔しさが苦しくなるほどズーンと来る作品。
奥様の弥生さんや娘さんの夕夏ちゃんへの愛が、ここまで深く、また絶望から生きる力へ、
そして自分の与えられた『使命』と思えるほど奮い立たせてくれる原動力になるものか、
読みながら感情移入して怒りに震えたり、涙ボロボロになる作品。