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商品説明
ゼロ年代、つまり2000年から2008年ごろまでの国内文化、とりわけ小説、映画、漫画、テレビドラマ、アニメーションなどの「物語」に着目し、その想像力の変遷を追う。『SFマガジン』連載に加筆修正して単行本化。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
宇野 常寛
- 略歴
- 〈宇野常寛〉1978年生まれ。評論家。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰。批評誌『PLANETS』編集長。戦後文学からコミュニケーション論まで幅広い評論活動を展開。
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紙の本
待望のゼロ年代批評
2008/08/02 11:34
9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
東浩紀以降、サブカルチャー領域のみならず、若い批評家の不在が続いた日本の論壇シーンに、ついに本書を掲げた宇野常寛さんが登場した! 宇野常寛さんの『SFマガジン』への連載評論は、開始当初から多くの話題を呼び、まとめて一書となることが待望されていたが、この夏、ついに『ゼロ年代の想像力』と題して、文字通り画期的な批評としてその全貌をあらわすこととなった。
本書は、自身の明確に述べているように、東浩紀批判としての側面を色濃く持つが、それは、単に東批判に留まるものではない。むしろ、東が現代文化を正しく認識し、批評できていないこと──つまりは「ゼロ年代の想像力」を正しく把握できていないことへの批判から出発する。つまりは、文字通り、併走する現代文化論たらんとして思考され、書かれている。(ただし、それは国内外の「政治」動向と無縁なものではありえないし、「ゼロ年代」という本書の時代把握自体にも、そのことは明らかだろう。)
本書で扱われるのは、『新世紀エヴァンゲリオン』や『DEATH NOTE』といったエポックとなった作品のみならず、小説、ゲーム、マンガ、アニメ、TVドラマ…それも実に幅広いジャンルから多くの作品が参照されていく。そこから宇野さんは、90年代までの「想像力」と、今なお生き残るその残滓を特徴付けながら整理した上で、(東批判、つまりはゼロ年代になお生き延びた90年代的想像力批判を経由して)「ゼロ年代」へのシフト・チェンジと、その可能性を、その特徴、必要性・重要性を理論的に説明しながら論じていく。(今後、本書を読まずに、東、あるいは「セカイ系」を無条件に肯定することは難しいだろう)
その読書体験は、これまで感覚的に「すき・きらい」あるいは「にてる・にていない」とみてきた現代文化が、明晰に腑分けされていくスリリングなもので、鋭敏な批評意識を文章として追うことで、いつしか「ゼロ年代の想像力」という主題のポイントへと導かれていく。本書の読書過程で蒙を啓かれた後にたどり着く結論部では、読者もまた「ゼロ年代の想像力」の長所・短所を考えると同時に、より普遍的なテーマへの足がかりをつかむことにもなる。その意味で、本書はサブカルチャー批評であると同時に、実に広範な射程を持つ、しかも説得的な「批評」の書なのだ。本書出版は、この夏の「事件」といってもいいだろう。
紙の本
刺激的且つ創造的
2008/10/10 12:07
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:町山 - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前から著者の名前はともかく本書の名はしばし雑誌やウェブでの書評で見掛けてはいたので記憶していたのだが、何やらひどく内輪的で拒否を誘う俗物感があるように見え敬遠していた。しかし書店でたまたま見かけ立ち読んでみると想像していた内容と違い以外としっかり書かれていたので購入した。
自分は本書で取り上げられている莫大な作品群の内、一割程度しか鑑賞していない。特に全十六章中一章を割かれてまで書かれている仮面ライダーシリーズを一作も見ていない。そうであるから本書の判断に鈍りがあるはずだ。
だがこのように取り上げられている作品をあまり知らなくても誠に楽しめた。悪質な言い方かも知れないが、議論の正否よりも著者の議論展開のおもしろさに強く心惹かれた。著者は、あれはあれでこれはこれというふう反発を招きかねないほど断定的に作品を纏めあげる。また、単調にならないよう攻撃的でユニークな文章が使われている。
「これはそうだ気がつかなかった」「そこは違うのではないのか」というふう読書中頭に考えが巡ることが多く、久しぶりに刺激的な読書となった。その刺激の結果のひとつがこの感想である。
紙の本
現場、会議室、給湯室。
2008/12/23 22:16
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Living Yellow - この投稿者のレビュー一覧を見る
会社生活の中で、重要かつ難儀なものが、会議、とくに「全体会議」であろう。議決権を有していない立場、大概二十代半ばまでは、「意見」を「述べて」を「積極性」をアピールするくらいしか、許されるものではない。「決断」はそのあと、「上の者」が下す。
そんな材料のために、キーボードを叩き、グラフを叩き出す。
「会議室」と「現場」の両方に送るために。
数多くの小説、アニメ、ゲーム、TVドラマをテーマに、小泉政権以降の「ゼロ年代」における、決断主義:選択肢を拒否して引きこもることもまた決断=拙い選択肢の一つでしかないということ:との対峙・受容・共存あるいは超克を語る本書には。その一方で。
類書にない、素材=各作品に対するまなざしと、料理=分析の静かな情熱が存在する。
日々のTV欄:献立をおろそかにしない、普通の、だが続けられる礼儀。
本書中、ゼロ年代の成果として、取り上げられる、木皿泉氏脚本によるTV版『野ブタをプロデュース』で山下智久くん演じる彰が日々飲む豆乳、堀北真希さん演じる信子が父に手渡す、どこでも手に入るコンビニおにぎり。
同じく重点を置かれる、よしながふみ氏のマンガ、『西洋骨董洋菓子店』、本書では取り扱われていないが、現在『モーニング』連載中の『きのう何食べた?』はそのものずばり。ただ、もはや『クッキング・パパ』や『美味しんぼ』と違って、料理は部下の結婚問題も、副部長の進退にも関わらない。生きるために、ただ、献立を選択し、手早くていねいに、日々料理し、おいしく供し、いただく正しさ。
そして、決断主義を踏まえた「仲裁者」=宮藤官九郎氏脚本の、『木更津キャッツアイ』において。「奴ら=オジーの敵」は「男の勲章」でもどこの喫茶店でも「ナポリタンとオレンジジュース」しか頼まない。「決断」を自覚しない者たちの醜さ。
ゼロ年代の大状況の分析を見据えつつ、諸作品に対して、決して、それらを「道具」扱いしない本書のていねいな「料理」の作法には共感を覚えた。
ただ。無い物ねだりを承知で。
フジテレビ系『踊る大捜査線』が「事件は会議室で起きてるんじゃない!」と織田雄二:青島に叫ばせて、はや十数年。個人的印象では、平成不況の始まりの中「組織のきしみ」を肌で感じた人々が。これだけは見ておかねばという、勢いで劇場版に殺到していたように記憶している。
そして、現在。80年代、テレビ朝日系:久米宏氏の『ニュースステーション』に文字通り時間枠を追われた、『特捜最前線』、『必殺仕事人』的な「社会悪」の形象をより洗練し、加えて「組織の論理」を導入、90年代末からじわじわと人気を集め、今春の映画版のヒット、同じく今クールのTV版も継続して視聴率を維持しつつ、一区切りを迎えた『相棒』、水谷豊:杉下右京氏。
これらの「ウェルメイド刑事ドラマ」のメインキャラクターの変遷は。
設計主義的「決断の調整」のより深く、広い浸透を意味しているのか。
「事件」は。もはや、「現場」は会議室にも。給湯室にまで拡がってしまったのだろうか?