紙の本
ゲスな出版意図
2022/08/09 09:33
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投稿者:犬鍋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宮本常一を著者名として掲げ、本の帯にまで宮本常一の肖像を掲げているが、宮本常一の没後に出版された本だから、宮本本人の意図とは無関係に出版されたものである。
安渓氏と出版社が、宮本常一の名前を利用して商売さしてやろうというゲスな意図が透けて見えてゲンナリしました。
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民俗学者・宮本常一氏の指導を受けたことがあり、宮本の提唱する「調査地被害」を調査先の人々とのやり取りの中で実感した安渓氏のブックレット。この手の話はフィールドワーカーなら少なからず経験したことがあるし、「調査地被害」を自分の手で起こさないように気を付けているハズ。だから同業者(とくに年配の)から、「わざわざこんな話を本にする必要はない」だとか、「安渓氏こそ、フィールドに溶け込めていないから、こんな思いをするんだ」と言われそうだ。でも安渓氏が同書の中で語っているように、この手の話はなかなか文字化されることはなく、貴重な記録であるといえ(当たり前のことを分かりやすく書くことは、すごく重要なことと思う)、とくにフィールド調査をしたことのない学生にとってはヨイ教科書になると思われる。もし私自身がフィールドワークについて語る機会があれば、テキストとして使用したいと思ったほどだ。
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宮本常一が渋沢敬三から学んだフィールドワーカーの3つの心得。
1)他人(地域の住民)に迷惑をかけないこと(自分でいい気になっていると、思わぬことで相手に迷惑をかけることがある)。
2)出しゃばらないこと(その場が自分を必要としなくなった時、そこにいることを周囲の人に意識させないほどにしているということ)。
3)他人の喜びを心から喜びあえること。
この3つを実行することは実に難しいとしながらも、自分を戒める言葉として忠実に守られてきたそうだ。
さらに「地域がよくなっていくためには、地元から良いアイディアが出なくてはいけない」と語っている。
高い使命感によって地球4周分を旅し、学問の枠に納まらない偉大な業績を残した民俗学の巨人が、現代のフィールドワーカーに残した言葉ですが、研究のためのフィールド調査だけでなく、よそ者がまちづくりに関わる場合の心得としても、忘れてはいけない重要な指摘と思います。
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自分を振り返って本当に恥ずかしくさせられた本。分かってはいるのだが……
第1章の宮本の文章で「調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外と多い」とある。調査を福祉と、地元(民)を利用者と置き換えても通じるかもしれない。
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『季刊 福祉労働』の大野更紗さんインタビューの中でちらと出てきた本。宮本常一にこんな本あったっけ…と図書館でリクエストしたら、いつものようにヨソの図書館から相貸で本がきた。自分がリクエストする本はマイナーなんやな~と思うが、未来社の宮本常一著作集はずーっと入れてんねんから、こんな小さい本も入れてーなとつい思う(この本の一章に収められた宮本のテキストの底本は『著作集31巻』だという)。
この小さいブックレットは、第一章に宮本常一が書いた「調査される側の迷惑について、たくさんの例をあげながら指摘した文章」を置き、以後の章は、この本の共著者であるアンケイさんが、宮本の"調査地被害"という見方にふれて、自身の南の島でのフィールドワーク経験をあれこれと書いている。
私も、とくに大学にいた頃には、大きいのから小さいのまで「調査」に関わったことがある。「調査員」として、全く見ず知らずのお宅へピンポンと訪ねていったこともあれば(そして、調査を受けてもらえたことも、何やねんそれと追い返されたことも)、周到に準備を重ねてインタビュー調査にいったこともある。調査の準備や、調査データの扱い、分析、その還元ということは、それぞれの調査経験のなかで、まさに実地で学んだこともあるし、昔の自分の経験を思いだして(あれでよかったんかなー)と、今ももやもや思うこともある。
▼調査者は、それぞれテーマを持って調査するのは当然であるが、しかし相手を自分の方に向かせようとすることにのみ懸命にならないで、相手の立場に立って物を見、そして考えるべきではないかと思う。…
…根ほり葉ほり聞くのはよい。だが何のために調べるのか、なぜそこが調べられるのか、調べた結果がどうなるのかは一切わからない。大勢でどやどやとやって来て、村の道をわがもの顔に歩き、無遠慮にものをたずねる。「そんなことを調べて何にするのだ」と聞いても「学問のためだ」というような答えだけがかえって来る。村人たちはその言葉を聞くと、そうかと思って協力したというが、「厄病神がはやく帰ってくれればよい」と思ったそうである。(pp.18-19、宮本)
同じところに、似たようなことを調べにくる者が、なんべんもなんべんも、やってくる。調べにくるほうは初めてで一度きりかもしれないが、来られるほうにしたらウンザリもするだろう。社会調査とか民俗調査ということだけでなくて、宮本のこの文章を読んでいて、私は病院や役所でたらいまわしにされて、なんべんも同じことをくりかえさせられた経験を思いだす。
医者にしたって役所にしたって、よく聞き出さねばわからないことがあるから聞くのだろうが、宮本が書いてるような「学問のためだ」的な対応もなくはない。そうなると、やはり学問の役に立つようなことは熱心に聞くが、そうでないことはてきとうにされている気がすることだってある。
何が研究されて、何が研究されないか、ということには、調査者や研究者の純粋な問題関心だけじゃなくて、とっととうまいこと結果が出そうとか、このことが分かればギョーカイでえらいと思われるようになるとか、そんなのも��なからずある(たとえば『金沢城のヒキガエル』は、そういうことをかいま見せてくれる)。
▼…よそから来て、わずかばかりの滞在で、村人同士のこまやかなかかわりあいの実情など知ることはできるはずがない。調査と調査に基づく計画というのは、このような微妙な問題をすべて切り捨てて行なわれるものである。
なぜそういうことになるのか。調査というものは、調査しようとするものの意図がある。その意図にそって自分の知ろうとすることだけを明らかにしてゆけばよい、と考えている人が多い。…意外性[予定した以外のことから、重要な問題を引き出してくることもある]がもっと尊重されなければ本当のことはわからない。理論がさきにあって、事実はそれの裏付けにのみ利用されるのが本来の理論ではなく、理論は一つ一つの事象の中に内在しているはずである。
しかし調査に名をかりつつ、実は自分の持つ理論の裏付けをするために資料をさがしている人が多いのである。このような調査の結果が利用されるなら、調査者たちの目のとどかぬ部分は、すべて切捨てにされてしまう。そういうものを認めようとはしないのだから…。(p.25、宮本)
これは、耳が痛い。自分も"資料さがし"をしてたんちゃうかと、振り返って身が縮む。見聞きしたもののなかで、何かをとりあえずカッコに入れておいて、それを補助線のようにして考えてみるということはある。でも、自分のアタマではうまく考えられなくて、結局は重箱の隅をつつくようなことをしていた気もして、昔を思いだすと、恥ずかしい。「理論は一つ一つの事象の中に内在している」という宮本のことばは、目の前にいる、そこにいる一人ひとりの存在のうちに人権はあるんやでという風にも聞こえる。
▼調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い。(p.34、宮本)
宮本の書いたことだけでなく、あとのアンケイさんの書いたところも、すごくおもしろかった。とくに4章の「フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴」。その章のおわりのところで、アンケイさんはこう書く。
▼フィールドでの濃いかかわりは、往々にして生涯をかけたものになります。お互いに相手の人生の物語の一部になるかもしれないという重い選択なのです。でも、誰しも体はひとつしかないし、人生は一回きり。とても、それだけの責任がとれない場合があることをよく自覚して、簡単には「濃いかかわり」の側に踏み切らないぞ、と自分に言い聞かせておくぐらいでちょうどいいのです。そうやって「学問と地域への正直さのバランス」をとる努力をしてほしいというのが、これから…濃い関わりを余儀なくされる場所でのフィールド・ワークをめざすかもしれないあなたへの助言です。(p.86)
アンケイさんのサイトは、なんかおもしろそうなので、またちょっとずつ読んでみようと思う。
http://ankei.jp/
(8/16了)
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人が住んでいる場所へ行って調査する。
それは価値のあることだけど、される側にとっては土足でズカズカ踏み込んでこられるような迷惑でしかないことも多い。
調査する側には調査される側への配慮や敬意、「人間扱いする」という当たり前のことが求められる。
そういう学術の倫理と実際の被害を論じたブックレット。
誠実な一章と、実感のこもった二章が圧倒的に良い。
1972に宮本常一が書いたものが一章、二章は安渓遊地を真面目に叱ってくれた現地の人の言葉の聞き書き。
他は安渓が書いたもの。
被害を語る二章、被害をふまえて研究者の倫理を説く一章。
安渓は「関わる覚悟」「関わらない覚悟」を語る。
観測者が関わることによって云々ってのは、今までピンとこなかった。
シュレディンガーの猫みたいなのを想像していたから。
ここに描かれているのはそんな観念的な話ではなく、もっと実際的なこと。
調査することで相手にどんな利益があるのかを考える。
せめて有害でないように配慮する。
それが調査「させていただく」側の最低限の礼儀だけど、調査「してやる」つもりの人が多い。らしい。
古文書を持ち逃げされた等のわかりやすい被害はもとより、形のない被害はさらに大きい。
宣教師のような上から目線で自分の倫理を押し付けようとしたり、そこにいる人たちを自分の見たい形にゆがめようとする研究者の害がある。
善意の研究者と善意の調査対象の関係であっても、繰り返し調査されることで現実を定型化してしまったり、聞かれたら応えなきゃという意識が答を作ってしまったり、調査結果をもとに過去が決まってしまうような本末転倒も起こる。
きちんと調べる・敬意を払う、という当たり前だけど難しいことが行われないために現在がゆがんでしまう。
それは社会学系の調査だけじゃなくて、他の学術でもジャーナリズムでもカウンセリングでも社会運動でも医療現場でも、どこでも起こりうる。
安渓はちゃんとかかわる姿勢を持っていると思う。
怒りはもっともだし、訴える内容はまともだ。
当事者の話を聞いて反省しようとする姿勢がある。
だけど少々、自意識が強い気がする。
当事者を差し置いて自分が主役になってしまっているところがある。
いくら善意でも方向が正しくても、自分を正義の代弁者にしてしまったら現地の人は脇役になりさがる。
当事者と仲良くなると、代弁できるような気になってしまうから、そこは強く強く自覚しなきゃいけないと思う。
2章で話をしてくれたP子さんは
・不惑にはまだ間がありそう
・本格的に地域の歴史を学び始めて20年以上
・調査被害で失った資料を集め直す気力はもうない
ということは小学生くらいで本格的に調べ始めて三十代で燃え尽きちゃったのか。早熟だな。
…不惑の意味を勘違いしてるかな?
関連
「オオカミ少女はいなかった」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/478851124X
「社会運動の戸惑い」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4326653779
非当事者は代弁できない
「アシュリー事件」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4903690814
「カニは横に歩く」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4062164086
「MILK 写真で見るハーヴィー・ミルクの生涯」http://booklog.jp/quote/47996
誰のためなのかという視点のあるジャーナリズム
「セミパラチンスク」http://booklog.jp/quote/161536
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たいへん勉強になりました。
自分のこれまでの行動を振り返って、身につまされる思いをしたところもあり…反省しきり。まず理性ある人間として行動することを、改めて心がけなければ…と思い直しました。
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ツイッターで誰かが必読だと言っていたので。
もはや調査することはないのかもしれないが、何となく懐かしみながら読んだ。
著者の安渓遊地氏は山口県立大学教授でフィールドワークを教えている。
奄美大島の話が多く出てきた。
雑に掻い摘んで言うならば、フィールドワークは失礼のないように行うべし。
相手は生ものだから、思いもよらない方向に行く。
深く立ち入り過ぎるのも考えものだ、などである。
自分も修論ではフィールドワーク形式であったが、そんなに方法論として確立しておらず、手探りで拙いやり方だった。
現地への入り方、溶け込み方はこれを参考にしていたら、もっと良いものにできただろう。
しかしアウトプットは、この文章を読む限りあまりうまくなさそうである。
話があっちへ行ったりこっちへ行ったりするうえに、ユーモアの交えぐあいとかも不均一で、なんだか昔の経験則だけで語る先生だなあといった印象を受けた。
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「フィールドに出る前に読んでおく本」という副題が身につまされる。民俗学にとどまらず、まちづくりでもサービスデザインでも、反省なく本書を読めるフィールド研究者はいないだろう。
宮本の章のおわり、
調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い。(p.34)
デザインをするものとして、なんらかの価値を生み出そうとして、フィールドにかかわること自体が尊大であるのかもしれない。
それでも、フィールドにしかないものから学ぶためには、そこに出かけ、人々と渡り合うしか無いのだから、与えている気にならないように、奪うことにならないように、常に自分を諌めねばならない。
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長いこと読みたい本リストには入っていたが、今あれを読むべきだなというタイミングが来た。
フィールドに出る前に読む本、という表書きがあるが、フィールドに出なくともひとの生活の上に作られたものを読む人は読んでおくべきものだ。特に第一章の宮本常一「調査地被害」は肝に銘じるべき内容であった。
人が人を調査すること。学者先生が古俗をのこした地域の生活を記録する。中央による侵略であるということ。精神的な侵略と実際に行われた略奪についての言及。
南の島の怒りの言葉では、Coccoの「三村エレジー」の歌詞を思い出した。
「イザリバチョーデー(行き逢えば兄弟)信じて開けたら 根こそぎ盗られて 裸」
わたしの住む愛媛県でも縄文時代の犬が埋葬された状態で発掘され、慶応大学に引き取られてどこにいったんだかわからなくなり、最近になってそれらしきものが見つかったという話があった。
「中央のエライ先生」はこんな未開の田舎に貴重な発掘物を残しておいても取扱がわからないだろうから文明人のおれたちが保存してやらなければと親切にも考えてくださったのだろうか。同じ発想で各地から整理しきれないほどのものを持ち去っていたのだろう。
出土品は発見した人の成果物だという考えもわかるのだけれど、わたしは出土品ははその土地の記憶であり遺品だと考える。埋葬されていたのであれば、できれば地中に戻して眠っていてほしい。研究のために埋め戻すことができないのであれば、せめてその地にあってほしい。大英博物館だってツタンカーメンのマスクをエジプトに返還したのだ。
この縄文犬のケースではそもそも持ち去るだけ持ち去って適切に管理していなかったのだから、なにほどの親切心があったとしても略奪という強い言葉が相当するように思う。そしてこの一例をもってしても、中央の権威ある研究者がいかにして地方を蹂躙するかというのも想像がつく。
しかしわたしもフィールドワークの成果物を好んで読む点においては同じ穴の狢なのだ。ひとの生活を外から眺める。いやらしいといえばいやらしい趣味である。
この分野を覗き込むきっかけは越後三面が廃村に瀕したことで調査され書かれた本を読んだことで、そこにはむらびとの「ダムに沈んで失われるむらの生活の記録を残したい」という強い意志があったために疑問に思わなかったのだ。しかしその後生きた村に関する調査を読むにつけ、自分の好奇の目はそこに生きる人を標本のように見ているのではないかと居心地の悪い想いが湧き出てきた。
映画「サーミの血」で、サーミ人の骨格を無遠慮に計測する研究者が、被検者たる主人公から発せられた「何をしているの、何のために?」という当然の問いに答えもしないシーンがある。それはサーミ人には理解ができないという当時の価値観ゆえというよりも、かれは答えをもたなかったのではないか。日本国内でも特定地域の似た調査結果を読んだことがあり、体質人類学というようだが、おそらく現代では下火になっている分野ではないだろうか。遺伝子情報が読める時代にひとりひとりの身体的な差異を見出そうとすることはナンセンスだ。同じように、古俗の記録もまたナンセンスになる時代がくるのではないだろうか?
この著者の本を読むと古来の生活様式を強固に守り続けることを好しとする考えが窺えるのだけれど、好きな考えではない。その土地に生まれた人を縛り付ける呪いになりかねないからだ。わたしのような怠惰な人間は楽な生活があるならそちらのほうがいい。個人の選択は自由であるべきだし、個人の選択の結果によって古い生活様式が失われていくのであればどうしようもない自然の流れではないか。失われるからこそ残っているあいだに記録することが研究として成立するとも思う。
しかし、文化の均質化を望んでいるわけではないのだ。古俗を守る集落があり、そこに開花の波にとりのこされた、貧しい、遅れた、未開の地というレッテルが貼られ、そこに住む人に引け目を与えたと知ると憤りを覚える。異俗があり、構成員の流出入があればよいのに、と思う。現実的ではない夢想だけれど、かりにそれが成立したとして、構成員の流出入があれば当然に文化は変質してゆく。しかし生活様式を守るために生きてゆくのでは本末転倒だ。
とりとめもないことを書いていて思い至ったが、わたしは今の生活にそれなりに満足しているけれど、理想ではない。不満だって山ほどあるのだ。生きていく上でどのような生活様式をえらぶのか、その可能性として、先人の記録から学んでゆければよいと思っている。言い訳じみているけれど、教えを乞うている、それを忘れなければ、この罪悪感はいくぶん和らぐだろうか。
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人文科学において「フィールド」と言われると,民俗学や人類学が思い浮かぶかもしれない。
実際,宮本常一は民俗学者であるし,安渓遊地も人類学者・地域研究者であり,その調査経験にもとづく調査地被害について報告している。
調査地被害とは「調査される側に生じている様々な迷惑・被害の総称」である。たとえば,現地の民族調査というので資料を借しだしたらそのまま返却されなかったとか,調査者が横柄な態度で振る舞うとか,調査に協力したけれど結果の報告がなく何のために協力したのはわからないままであるとか...その例は多数ある。すなわち,「調査」という大義名分(?)のもとで起こる調査される側にとっての迷惑・被害である。もちろん加害者は調査者である。
調査地被害をこのように定義すると,話は民俗学や人類学だけのことではないことがわかる。「調査」と名のつくもの(ジャーナリズムも含めて)はすべて調査地被害の潜在的加害者でありうる。本書はその事実を端的に突きつけてくる。
「調査結果を協力者に適切に報告できていたであろうか?」
「協力者にとって何の意味がある調査だったのだろうか?」
「協力者にとってというよりも,調査者自身のためのものになっていないだろうか?」
「調査というものは地元のためにはならないで,かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く,しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い」(p.34)と宮本は指摘する。はたして自分の調査はそうなっていなかっただろうか。
心理学をしていると「介入」という話がよくでてくる。しかし,「介入」でさえ協力者のためになっていない可能性だってある。「自立」を支援するために介入したことによって,かえって「自立」できなくなることだってある。「介入」すればそれが即座に調査結果の還元になるわけではないし,協力者のためになるわけでもない。(そういう意味で,松井豊『惨事ストレスとは何か』は介入の在り方を考えさせてくれる良書である)
大学で心理学を教えていると,研究法や調査法を教える。もちろん,研究にまつわる倫理的問題として「調査が迷惑であること」も伝える。しかし,「研究法や調査法を教える」ということは,「調査することを進める/勧める」ことと表裏一体であり,はたして本当に「調査が迷惑であること」を伝えきれているのだろうか。伝えるべきは「調査しないこと」あるいは「調査しない調査法/研究法」であるのかもしれない。
本書を読んでわたしは調査するのが恐くなった。あいにくの事情で今後の調査の予定は白紙状態であるが,その事情がなくなったとして,はたして本当に調査してもいいのだろうか。調査できるのだろうか。
少なくともしばらくは「調査」なんてできない。
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地域に出て働く可能性のある身としては、言葉のひとつひとつが重かった。
地域住民と一体になる覚悟とそれができる体力気力人格が必要で、深入りしたならそれ相応の責任をとらなけばならない。自分の人生も巻き込むことになるから、自分の立場を良くわきまえなさいと言っていると思った。
調査して報告がまとまったのなら、世に出す前に地域住民に添削をお願いし許可を得る必要がある。研究結果がでたなら、成果をわかりやすくまとめて地域住民に報告する。成果をお返しする。借りたものは返す。約束は守る。
でもこれらのことをやったとしても、調査する側がされる側へ何かを「還元する」構造や姿勢は果たして正しいありかたなのか?と問うている。
種をまくのは簡単だけど、それを収穫するのは大変で、耕作によって荒れた土地をもとに戻すのはもっと大変、という言葉が分かりやすい例えだった。
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【琉球大学附属図書館OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA85410285
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宮本常一のエッセイ「調査被害―される側のさまざまな迷惑」を核に、フィールドワークにおける調査被害についての本。一口に調査被害といってもその実態は多様で、調査する側の高圧的だったり、自説への強引な誘導といったものから、資料の借りパクやあからさまな窃盗、さらには調査が好評されることによる風評被害や、コミュニティ間の軋轢の原因となったりもする。
明らかな犯罪や調査者の人間性に由来するものは論外いしても、難しいのは正当な研究成果そのものが調査対象の不利益につながる場合もあるということで(本の中でもある集落の特性が被差別部落につながるものであることが判り結果公表できなかったケースが紹介されている)、公と私のモラルの線引が問われるところだろう。
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ミッドサマー(映画)を観て、フィールドワークについて少し勉強した方が良いと思って読んだ。
もう少しハウツー的な内容かと思ったら、本当に迷惑した人の談話がたくさん書いてあった。
そもそも「調べられる」という出来事があるだけで地元には影響を与えてしまうわけなので、民俗学というのは因果な学問なのだなと。
あと借りた資料を返さないのは絶対だめだと思う。