紙の本
著者に対して、山積する疑問。
2009/11/16 00:57
12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:反形而上学者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書には興味はあったものの、どうしても読む気になれず、いわゆる「積読」状態で1年以上経ってしまい、その存在すら忘れていた頃になってたまたまダンボールの中から発見したので、読んでみた。
まず、私の読後の感想というのは、非常に複雑なものであった。故人である著者の言っていることが、何か「彼自身の言葉」でないような、奇妙な感覚が第一に生じたのだ。
果たしてこういう須原氏の行為は、須原氏が書いているように、ただ「死に時」がきたようだから、死んでしまおう。ついては死ぬまでの記録や思考でも残そうか。」というような、日常的な文章には、どうしても私には思えなかったのだ。
須原氏については、本書で書かれている以外のことも、独自に調べてみたが、そういう須原氏のプライバシーについては、やはりここに書くべきではないことなので、書くことはやめておく。
65歳という年齢は現代では決して「老い過ぎた」という年齢ではない。むしろ一般的な社会では、仕事も定年を迎えて、第二の人生にでも入ろう、という年齢だ。しかし、須原氏はごく普通に、「老人」であり、「人生をもう十分堪能した」ということを言っている。しかし、そういうことが、全体のトーンとは全く合っていないのをどうしても感じてしまう。
私が思うに、須原氏はやはり「絶望」していたのだと思う。そしてその「絶望感」は、彼の学者としての「探究心」も、「日常生活の楽しみ」もどんどん侵食して奪っていったに違いない。もちろん、そういうことを裏づけるようなことは、本書には一切書いてはいない。これはあくまでも私なりに感じ、調べた上での個人的な感想に過ぎない。
そして更に言えば、鬱病であっても、こうした緻密な記録を残して自殺した例というのは、実際問題としては、特に珍しいことではない。
私は須原氏が鬱病であったとまでは言わないが、やはり「人生に絶望していた」のだと考えている。
本書を読んだ読者は、ゆめゆめ「自殺という生き方」もあるのかとは、思って欲しくない。絶対にそれは違う。違うのだ・・・。
紙の本
自然死も悪くない
2008/12/06 22:54
10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゆうどう - この投稿者のレビュー一覧を見る
2006年4月、65歳で自身の哲学的事業として自死を遂げた哲学者須原一秀の「遺書」。本書の中心部をなす「新葉隠」の中で、「死の能動的・積極的受容」によって人生の極みのうちに自ら死を選ぶ生き方を提唱する。
例として挙げられているのがソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三である。彼らは、人生を十分に堪能した後に、老醜をさらす前に自ら死を選んで逝ったという。
『死ぬ瞬間』(読売新聞社)などの著書で有名な精神科医、聖女とも呼ばれたキューブラー・ロスは、40数年の間に数千人の最期を看取り、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として知られる。彼女によれば、癌を告知された患者のほとんどは、否認、怒り、取り引き、抑鬱、受容という5つの段階を経て死を迎えるという。これが、死の受容に関する「五段階説」である。
癌患者に限らず、普通の人々の態度は自然死の受動的受容である。しかし、『人間らしい死に方』(ヌーランド著、河出文庫)によれば、自然死というものはかなりの苦痛を伴い、悲惨なものであるらしい。決して「眠るような老衰死」といった状態ではない。さらには、死に至るまでの長い期間、体が不自由になって他人の介護を受けたり、寝たきりの状態になって床ずれなどの苦しみを味わったりすることもあるだろう。人間の尊厳を保つことが困難な状況に陥るのである。それならば、頭もしっかりして元気なうちに自らの手で人生を終わらせたほうがよっぽどましなのではないだろうか、というのが著者の考え方だ。先ほどの受動的な「五段階説」に対して、「死の能動的ないし積極的な受容の理論」としての五段階説を唱える。それは、(自分自身の)高の認知、(第一・第二・第三人称の)死の体感知、主体性、キッカケ、行動ということになる。
自死を肯定した書としては山本常朝『葉隠』がある。武士道とは、「死にたがり」になることによって、武人にとっては窮屈な官僚的幕藩体制を生き抜こうとした思想である。常に死を覚悟することによって前向きに生きようという姿勢である。須原氏は、死の能動的受容を、武士道になぞらえて「老人道」と名づけている。人生をおおいに楽しんだ後に「意志的な死」を迎えようというのである。老衰と老醜を拒否する自殺の流行を予想し、それを受け入れるような社会の到来を望んでいる。『自死の日本史』(ちくま文芸文庫)の中で、モーリス・パンゲも、「自死」はますます許容される傾向にあると述べているという。
といった内容であるが、決して人に薦めたい書ではない。私は、やはり「受動的な自然死」を望む者である。いかに苦しくとも、その苦しみこそが生きている証だからだ。死んでからでは味わえないものだ、と思う。『臨死体験』(立花隆著、文藝春秋)によれば、死に臨んで人は混濁した意識の中でお花畑を見るという。そこを超えていった先が死の世界だ。幽体離脱も経験するとか。同書を読むと、死ぬ瞬間には快楽を感じる脳内物質を分泌して気持ちよくなっているのではないかと思えてくる。ひょっとすると自然死は苦しくないかも知れないのである。もっとも、その体験を語った人はこの世にいないのであるが。
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自死は一般化/普遍化するのだろうか
自らの思想に従い、65歳のときに「哲学的事業」として自ら命を絶った哲学者。というと、センセーショナルな響きがあるが、本書の記述は至って冷静で、誰かさんが総理を辞める時に言った「明鏡止水」の趣すらある。だがかえってそれが説得力、迫力につながっている気がする。
本書を読んでいる間、私自身は違和感とか嫌悪感を全くと言っていいほど感じなかった。それは私も、須原氏までとは行かないにしても「自死の思想」を持っているからだろう。だが本書の中で氏が何度も力説しているように、死については観念的にのみとらえて「わかったつもり」になる危険性が大きい。私も、自身の加齢とともに、また自死の思想の深まりとともに、改めてこの本を通じて須原氏と語り合い、新たな気づきを得たい。
本書の中で独創的な概念としては、「極みの理論」と「死の能動的受容の五段階説」がある。前者は、ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の「自殺」を説明する鍵概念として、また氏自身の実感として提示されたもので、有用な概念と思う。そもそもソクラテスの死について、西洋を始めとする世界が2400年もの間誤解を続けていたとしたら、大変なことだ。だが死も言うように一人称の死と二人称の死にも計り知れない断絶があるとしたら、それも不思議とは言えないかも。一方の「死の能動的受容の五段階説」については、一読して話にならないと思った。キューブラー・ロスの向こうを張って五段階にする必要はないし、後段のキッカケ・行動あたりは「Plan-Do-Seeかよ!」って言いたくなった。そもそもこんな類型論、自死する当人にとってはどうでもいいことだ。
本書の中で、あるいは本書について感じたささいな「引っかかり」について述べる。
ひとつは、須原氏が家族はもとより、幾人かの友人にも自死の決意を打ち明けたということ。当人は満足げだが、言われた方はいい迷惑だったんじゃないか。私は、こういうことはしたくない。
そしてもう一つは、本書の題名だ。「自死という生き方 〜覚悟して逝った哲学者〜」というのは、もちろん氏自身の付けたものではない。氏の原稿は、「新葉隠 〜死の積極的受容と消極的受容〜」と題されていた。事情は察するが、自らの命と引き替えに本書を世に問うた学者である氏に対して、こんなにも侮辱的なことはしてはいけない。
では最後に、表題の「自死は一般化/普遍化するのだろうか」という問いについて、私見を述べる。
医療の発達でなかなか死なないで済むように(死ねなく)なる一方、アメリカを除けばどの先進国も少子高齢化で高齢者は財政上社会の「お荷物」になる。「早く死ね」というプレッシャーが増して、老人の自殺が増えたとする。でもこれは社会として望ましいありようとは思われないし、須原氏の願望とも異なるだろう。
私はこう考える。生命至上主義の超克、人間中心主義の超克、そして「人生はどれだけ長く生きたかではなく、どれだけ深くあるいは濃く生きたかでその価値が決まる」というまっとうな人生観の定着。こうした認識が広まれば、一定数の割合で「死の能動的・積極的受��」としての自死を選択・決行する人が出てくるだろう。
だが私は、そうした人が際限なく増えていくとは思わない。同世代人口の5%程度くらいが上限なんじゃなかろうか。多くの人は生きられるだけ生きようとするだろうし、自殺する人もその多くは人生や生活、あるいは病気からの遁走だろう。体質というのか、気質というのか、須原氏のような境地に達することのできる人は、人類ではいつも圧倒的少数派なんだろうと思う。
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080904購入。080905読了。
「平常心で死を受け入れることは可能か?」という問いから始まった著者のライフワークともいうべきこの作品。そして、この本は、著者の「自死」という試みにより相互に補完され、著者が嫌っているであろう観念的な「死」を語る作品に終始することを避けている。ちょうど三島の「葉隠入門」を少し前に読んだところだったので、内容的にはすんなりと受け入れられた。この本を読んでつくづく感じたのは、結局「死」とは主観的なものだということである。病室で家族に看取られながら自然死するということは、周りからみれば安らかな最期だったと納得できるが、ヌーランド以下須原氏も述べている通り、自然死はそんなにあまいものじゃないそうなので本人にとっては望ましい死に方ではない可能性が高い。一方氏のような人工死は、周りにとっては不可解であるが、覚悟を決めた(氏の提唱した「死の能動的五段階」を経た)人にとってはこのうえなく恵まれた死に方である。残されたものの悲しみを思えという反論もあるだろうが、まずこの本が画期的なのは「平常心からの自死が不可解である」、「自死というものはすべて否定すべきものである」という観念を覆そうとしているところである。正直、この本を手にしたとき、あほらしいと思った。それは彼が自殺をしたからである。もともと自殺に関する本を読んでいて、三島以外の自殺はすべてくだらないものだと結論付けていたときであった。(三島の死は本作で「老衰」を避け主体的に死ぬことと語られているが、未だ僕は三島に興味を惹かれて止まない、なぜだろう)この本はどちらかというと医療倫理学の本だ。彼は死に価値をもっていない。過剰に死に意味づけしてるのは意外にも周りの人々だと思った。人工的な世界で生きながら死にだけ自然をもとめる。彼は自分の意思で、仕事をし、ご飯をたべ、遊び、そして今までの人生どおり、自分の意思で死んだだけである。「尊厳死」というとすでに世に知られている感があるが、今回の場合、病人でもない普通の人が、能動的に死を選んだというところに、新しい道を見ることができる。この本によって人々がどう感じるかわからないが、なにやらこれからの社会の方向性を決める本になりえる可能性を秘めた本である。
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(相対的感想五段階評価)
明 ・@・・・ 暗
衝撃@・・・・平凡
一過・・・・@永年(読んだときの気持ちの燃費)
論理・@・・・稚拙
表紙 3
ぼくはこの先生の授業を受けていた。
最初の授業で、いきなり嘉門達夫の「小市民」を大音量でかける先生だった。
先生の本は、どれも強烈で、論理学という枠組みをとびだして、人生に必要な「明るさ」と「真剣さ」を教えてくれた。
ぼくは、先生に授業できいた、「名言の構造」について、いまも実践している。これは他人に説明してもわからないと思う。説明するのも難しいし、納得させるのも難しい。
本の内容は、伊丹十三や三島由紀夫が実践した、明るい自殺について、また武士道が見つけた「死ぬこと」について、肯定的にかつ実践できうる形に理解することであった。
読んだからといって、いきなり自分も死ぬわけではないが、生きることや死ぬことについて、考え直すよい機会になった。
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生きるとは死ぬこと。
死ぬということは生きること。
やっと納得した人生のクリエイティブ論。
どうしてもっと話題にならないのか。
何を恐れているのか。
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皆さんのレビューが素晴らしい。
私は「老人のみつぎもの」を頂戴する前に逝きたいが、それがいつ来るのか予測できない。加齢臭に自分で気づく事も出来るか否か。自死=人生の全否定 ではないし人から迷惑だと言われても自分の死期は自分の選択で何が悪かろう。
自殺に見せかけた他殺がある事、自殺を助けると罪になる事などが問題なのだろうな。
この先生の講義を受けたかったな。
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65歳で自ら死を選ぶことを哲学的に考察して実行した人《赤松正雄の読書録ブログ》
この本を取り上げるのは少々悩んだ。2年ほど前に出版されると共に読んだが、ここで紹介するには憚られた。自殺のすすめであるかのごとくに誤解されかねないからだ。須原一秀『自死という生き方』である。本来は『新葉隠 死の積極的受容と消極的受容』といった須原氏の遺書を、評論家の浅羽通明氏が家族と共に、本人の死後に公にしたものだ。
「私の人生は65歳までである」と30歳代から周辺に明言していた著者は、そのとおりに自身の哲学的事業として自ら命を断った。06年の四月に、ある県の神社の裏山での縊死。頚動脈は自ら刃物で斬り裂いてあったという。この人の考え方の背景には、自然死は苦痛であるとの認識がある。一般的には天寿を全うすることが人生の理想とされているのに、この人はそれを否定し、むしろ長生きして自分が自分でなくなる状況の中で苦しい死を待つよりも、むしろ元気で身体も精神も最高の状態の中で死を自ら選ぶことが尊い生き方だというのだ。
かねて私は、自分で死を選ぶ人は、いかなる理屈をつけるにせよ死の直前には精神に異常をきたしているものとの思い込みがあった。しかし、この本を読んでからそうではなく、やがて誰にもくる死の時を自分が元気の絶頂にあるときに選ぶのが望ましいと考える人が極めて少数ながらいるということが分かった。三島由紀夫、ソクラテス、伊丹十三の三人の自死を例にとりながら謎解きをしていく須原さんの筆さばきは絶妙だ。
私の親友で65歳になったら死にたいと言っていた男がいるが、彼もこれを読み大いに共感したという。ただし、先日会ったら、少しその実行を先延ばししたような言い回しをしていた。
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自死という生き方―覚悟して逝った哲学者を読みました。テーマだけに感想を書くのも躊躇してしまう。著者は自死の普遍化という難しい問題に取り組んだが、私はこの問題に幾ばくか意見できるほど成熟していない。分かったようなふうな意見しか言えない気がするのである。あえて言えば、メメント・モリ(自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな)を私は忘れてはいけないと考えている。
私は以上のようなことを三人称の立場で客観的に主張してるのではなく、一人称の立場に立って主張しているのである。そのことを読者は重々考慮しながら受け取っていただきたい。 (P105)
覚悟の書である。
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思想家や、三島や伊丹十三の例を引いて自分の考えを明らかにしようとしてる部分にはあまり得るものはなかったように思う。死に向かっていく中での自分自身の心境を描いた9章(いや10章だったかな)だけは読み応えがあった。
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知人に紹介されてから、大変興味深く期待していて、やっと手にすることが出来た。しかし、思っていたように、気持ちが順ずる部分が少なく、本編の哲学・思想部分より、むしろ淡々と「その日」までの日々を綴った「雑感と日常」に引き込まれた。自らの意思で、自身の哲学的事業として65歳で自死を遂げるまでの、文字通りの「雑感」がなんともなんとも、生々しく迫り来る。本編で取り上げられていた「伊丹十三氏」。そうだ、昔のエッセイを読みたいと思っていたんだ。などと、思い出したりして・・・自分だったら、何歳が、その時なんだろう酔仙亭さんからのご紹介本ありがとうございました
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自死という生き方 覚悟して逝った哲学者
新葉隠 死の積極的受容と消極的受容
はしがき
一章
三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、それぞれの不可解
二章
なぜ彼らは死んだのか?
・ソクラテスの場合
・三島由紀夫の場合
・伊丹十三の場合
・老衰も自然死も嫌だーそれぞれの苦境
三章
「未練」も「苦痛」と「恐怖」
・「極み」の理論
・彼らは、「苦痛」、「死そのもの」、「死後」への危惧ないし恐怖をどのように克服したいのか?
四章
死の能動的受容と受動的受容
・五段階説
・観念的知識と体感的知識
・「二人称の死」と「三人称の死」
五章
自然死と事故死と人工死
・自然死は悲惨ー専門家の見解
・虚無主義と厭世主義
・受動的自然死派の人々
六章
武士道と老人道
・ヤクザ、武士、老人、それぞれの苦境
・人生は恋人
・『葉隠』ー日本人の聖典
七章
弊害について
・自由は怖い
・共同体
八章
キューブラー・ロス キリスト教との苦境
九章
補助的考察
・神秘、大いなる存在、魂、あの世、神、など
・虚無主義にも厭世主義にも関係無い
・「人生を肯定する自死」
十章
雑感と日常
おとがき
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ここは分かるよーて思ってたら、それは違うような…って一気に振れる、振り回されまくりな本だった。レビューでもちらほら見かけたけど雑感が一番面白い。
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世の中への恨みつらみが延々と書かれてる本かと思ったら全くそんなことは無かった。
健康的で、地位も、名誉も、収入も確保されながら、人生を謳歌していた著者が、明るい精神状態の中で自死を実行し、その理由と動機と心情を綴った本。
「自死=絶対に避けるもの」という一見当たり前の命題が、全く根拠がなく、また終末期医療の現場にて無為な苦しみを生み出しているかがよく分かった。
ただ、いつでも死ねるという考えが生の張り合いを無くすこともあるので、自分のような青臭い若者が読むべき本ではないとも感じる。
生きていればまた30年後に読み返したい。
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「受容」と「極み」の定義。
ずっとずっとなんで自死はいけないのかというこたえでこれだというものに出会えていないのですが、対極のタイトルの書籍でこたえの片鱗をいただけたような気がしました。
自分の極みと高は、自己判断で勝手に棚に片づけるものでもない。