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商品説明
小林秀雄が「晩年の仕事」として、人生のすべてを賭けるように書き継いだ「本居宣長」。その本を読んで震えるほど感動した著者が、小林秀雄を人生に「学問」という恵みを与えてくれる人として新たに読み解く愛のある論考。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
大和魂の考古学
2008/04/06 21:32
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本における「学問する知性」はいつ誕生したのか。
小林秀雄は、それは近世にあると説いた。近世とは主に、鎖国以降の
江戸時代だ。学問する知性は近代の専売特許ではなく、本居宣長の
国学に至る前に、すでに日本には学問する知性があった。
その認識は、近代の基点を近世にまで遡らせ、近世と近代に横たわる
「西洋的・科学的知性」という分水嶺を無意味なものとし、これまで
信じられてきた(すでに無意識下に組み込まれたといってもいいほどの)
近代的なるものを水没させてしまう。橋本治はその認識に震えるほど
感動して本書を書いた。
橋本の震えるほどの感動は、その震えるような文体でもって読むものを
引き込む。それは日本人の魂の震えの連鎖であり、この国に生きた人間
への共感だ。本居宣長が探求した国学というものは、「もののあはれ」を
学問したもので、それは日本人の魂の震えを時空を越えて感じ取る試みで
あり、大和魂の考古学ともいえる。小林秀雄は最晩年、この本居宣長の
研究に没頭する。
「魂はあるかないか、あるに決まっているじゃないですか!」と学生相手に
語る小林秀雄の講演CDを聴いたことがある。語るというか怒っている
ような口調だった。その口調は、科学的精神なるものが浸透しきった戦後
日本において、魂がぶつかり合う「もののあはれ」を軽視し、ひたすら
資本主義的成長にひた走る日本へのイラ立ちでもあったのかもしれない。
橋本は本書で、小林秀雄が没頭した本居宣長ではなく、本居宣長に没頭
した小林秀雄を論じた。小林秀雄最後の大作『本居宣長』が刊行された
1977年は高度成長もほぼ終わり、日本が近代化を完成させようとする時期
だった。批評家としての小林秀雄は、近代化の果てに、精神の荒野の
ような風景を見たのではないだろうか?それは自らの中にあったはずの
「もののあはれ」を感じ取る力が失われていく過程でもある。
橋本が試みようとしたのは、近代化の果てでたたずむ小林秀雄を、
古事記の時代から近世につながり、本居宣長を媒介にしてさらに現代へと
つながる流れの中に呼び寄せることだったのではないだろうか。
それは近代化の果てに路頭に迷い、未だ夜明け前の現代日本人に対して、
「日本的なるもの」をそっと差し出すという、最高級に奥ゆかしく、
日本的な優しさであるように私には思える。