紙の本
正統にして異端の教育社会学入門
2007/11/24 20:31
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:後藤和智 - この投稿者のレビュー一覧を見る
教育学の専門家ではなく、単なるマニアでしかない私がこういうことを言うのもなんだが、本書はかなり優れた教育社会学の入門書だ。少なくとも著者名だけ見れば、いかにもオタク系統、あるいは「萌え」系統の本と思う方もいるかもしれないが、本書は、片足を教育学の専門知に(とはいえ、この著者たちも教育学の専門家ではないが)、もう片方を著者らの不登校及び「ひきこもり」体験に据えて、かなり骨太の教育論を語っている。
本書で語られるのは、近代的な「学校」システムの終焉と、そのシステムから逸脱したものに対して溢れんばかりの非難を浴びせかける我が国の「世間」への挑戦である。まず、多くの人が誤解していることだが、我が国の子供たちには「教育を受ける」権利はあるが義務はない。義務として存在するのは、親が自らの子供に教育を受けさせる義務である。さらに言えば、そもそも我が国における「学校」というシステムが、我が国の経済システム(これも決して伝統的といえるほど長い歴史を持っているわけではない!)や、国家が理想とする「国民」を養成するためのものとして続いてきた歴史も、決して長くはないのだ。不登校者、さらに言えば「ひきこもり」や「ニート」の人たちに対する倒錯したバッシングは、何よりもこの点を多くの人たち(特にマスコミ)がはき違えている点にある。
第1章においては「学校は現代の教会である」という宣言の元、学校をめぐる様々な「幻想」を、教育史や種々の教育社会学的な言説の援用によって相対化される。さらに第2章では、種々の経済統計によってもはや我が国の「学校」が子供たちに要求するものが通用しないことを暗に傍証すると共に、現代の我が国における「停滞ムード」を吹き飛ばすためによく用いられる「伝統」回帰の危うさを批判する。前半は、実に真っ当な教育社会学の立場の表明である。
後半のあたりから著者たちの個人的な体験が前面に出てくるようになるが、その使い方は、決して議論の「ためにする」ために引用しているのではなく、議論をわかりやすくするための一つの事例として引用される。とはいえ、本書の第3章や第4章における記述(特に後者)は、読み方によっては著者の妄想の産物として敬遠されるかもしれない。また第3章での社会の流動化に対する期待が強すぎる、規制緩和の恐ろしさをわかっていない、と憤る人もいるかもしれない。然るに、著者らが指摘している、既存の学校や会社のシステムから逸脱するような人を人間として失格であるかの如く追い詰めるような制度は、別に多様性など持ち出さなくとも批判されるべきではある。
そういう点では後半の2つの章は「異端」と言うことができるかもしれない。然るにそのような議論も、本書を単なる近代の学校の終焉を吹聴してまわる本に堕させないためには、やはり必要というべきである。本書の目的は(少なくとも帯によれば)既存のシステムの中で生きられない人たちに対して「新しい生き方」を呼びかけるものであるからだ。その試みは必ずしも成功しているとは言えないけれども、少なくともどこかのマスコミ御用達の学者や派遣会社の社長、人材コンサルあたりのご託宣などよりはよほど説得力がある。
本書は、教育社会学的な見方を知りたい人や、あるいは既存のシステムに反抗したい人まで、多くの人の関心をカバーしうるだろう。またあなたが前者であれば前半を、後者であれば後半を重点的に読むといい。またさらに本書の議論を深めたい人には、本田由紀、平沢和司(編)『リーディングス 日本の教育と社会・2 学歴社会・受験競争』、伊藤茂樹(編)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』(以上、日本図書センター)や、柳治男『〈学級〉の歴史学』(講談社選書メチエ)をおすすめする。
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主張には概ね賛同する。無理に学校に行く必要はない。しかし、それはそれでもったいないことでもある。公立ならばそれなりに安価に教育を受けることができ、その場を放棄するのであるから。緊急避難的に行われるのであれば歓迎である。大検から高認へと制度が変わったことは名前くらいは知っていたが、その時は既に高校を卒業していたため興味が無く詳しくは知らなかった。「学校長が許可すれば、長期休学者がこの試験を利用して単位を取得し、卒業単位として活用することもできる」ことは始めて知った。これは大変素晴らしいことだと思うので、もっと広めていただきたい。
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日本の教育制度に対して批判的な視点で書かれている一冊。タイトルは過激だが、書かれている内容はよくありがちな論の展開。ただ、最後のほうの結論付けは強引なきらいは感じる。
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タイトルからして、教育相談や心理学的な話をするのかしら?と思ったけれど、実はそうではなくむしろ社会学的。ちょっと言いすぎでは?と思うけれど、著者の意見にはなるほど、と思うことも少なくありません。
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発想の転換。
目から鱗の部分もあり、とても新鮮でした。
視点を変えれば、世界は変わるものだと再認識しました。
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現代の教育問題の新たな処方箋となり得る一冊
世間一般では「引き篭もりは負けだとか」「早く学校に来ればいいのに」という意見が大半だが
それはあくまで固定観念であり、居場所がない側にしてみれば苦痛でしかない
加えて一言言っておくと、この本は別に逃げて引き篭もりになれと推奨しているのではない
単位を得るために傷だらけになり学校に行くのではなく、学校に行かなくても選択肢はたくさんあるので、それを考慮すべきだという本である
日本の教育界の将来を見据えた示唆に富んだ本なので
ぜひ一読していただきたい
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[ 内容 ]
いい学校からいい会社に入って、一生安泰という時代は終わりを告げた。
かたや学校で頻発するいじめ自殺。
それを隠蔽しようとし「いじめはなかった」と強弁するダメ教師と無能な教育委員会、性根の腐った加害者とそんなわが子をかばう親。
さらに教師自らいじめに荷担することも-。
もはや、こんなストレスだらけの学校に通う理由はひとつもない!
本書では、多くの人間が囚われている「学校信仰」を相対化し、不登校児や引きこもりを病気のように扱う社会の価値観がいかにおかしいかを解く。
そして、共同体の解体と雇用の流動化が進み、価値観が多様化した時代を前向きに捉え、それに適応する新しい生き方を提案する。
[ 目次 ]
第1章 学校の正体(学校とはなにか 学校制度の誕生 ほか)
第2章 流動化した社会(「学校を出て、就職すればそこそこ幸福に暮らせる」の終焉
流動化した価値観 ほか)
第3章 フリーターの人でも安心して暮らせる社会を(国の起源 子役の就労時間も延びた規制緩和 ほか)
第4章 孤独力、妄想力がコンテンツ立国を支える(「おちこぼれ」がつくる歴史 ADHD、LDだったエジソン ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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実際にそういった発想の転換ができるようになるのは、自分がそのコミュニティから出てからになってしまうんだよなー。
・学校は資本主義で生きる人間を作るための養成機関
・60まで働いて、ぼろぼろになってから自由な時間を手に入れる、そんな生き方でいいの?
・資本主義を広めるために学校があるのだとしたら、消費者意識の過剰な高まりによって生まれたモンスターペアレンツは子の親への反逆のようである。ストレートに捉えれば、資本主義教育は成功しているということでは。
・資本主義からあぶれてしまった人たちが自分の生き方を見つけるのは大切だけど、資本主義に頼らない社会を先導するのは難しい。
1.仕事を人生として楽しめる人
2.仕事はしなくちゃいけないからとりあえず働く人
3.働きたくない人
がいて、2.と3.の人がどうして働かなきゃいけないのかがわからない。
というようなことを当時の自分はめもしていた。
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学校信仰というドグマ。
正直、もしいつか自分に子どもが生まれて学校に行きたくないって言い出したら、
余裕で行かせるのやめるわ。
別に勉強する場所なんかいくらでもあるし、
人間だって社会だっていくらでもあるし、
何ってったって私も学校大嫌い!笑
どうかどうか学校のせいで死にたくなって、
本当に死ぬことばかり考えてしまうなら、
学校に行くのをやめる選択肢をとってもいいと考えてほしい。
でもそういった、生き方をもっとフォローできる社会になる必要があるし、
何より何年も同じような内容を教える、
個別の興味関心、社会の変化にも対応できない
日本の義務教育を根本的に変えないといけないと思う。
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2013年3月の横浜市立図書館・都筑図書館「図書館はあなたを守りたい~自殺予防パネル展~」で選書された1冊です。自殺についてはほとんど書かれていませんが、自殺予防という点で非常に示唆に富む内容です。特に序盤、学校制度の歴史を丁寧に振り返り、「制度」から解放されることで発揮される個性もあることの重要性を説いています。著者の2人、本田透と堀田純司はともに高校中退、大検を経て大学へ入学したフリーランスのライターであり、それぞれの「引きこもり」実体験から放たれる筆は実に鋭く、爽快でした。歴史上の人物では、エジソン、アインシュタイン、ニュートン、アップル創業者のスティーブ・ジョブズが引きこもりの例として取り上げられています。私自身、学生時代は成績がふるわず、社会に出てからの学びが非常に充実しているので、学校に行く適齢期には個人差があり、制度上もっと幅があっていいのではないかと思いました。
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学校に行かなくても死にはしない。 「本当にいい大学には金がないと入れないし、たかが、中学高校の教科書に書いてあることは自宅で独習できる程度の初歩的な知識にすぎない。」といった初等中等教育の必要性の話から、大検制度から高認制度へのシステム移行の話、人によっては学校に行かないほうが勉強がはかどるという筆者の体験談まで、社会学的な背景からの視点と体験記的な視点がバランスよく読みやすい。
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究極的には、「自殺するなら、引きこもれ」は正しい選択だろう。しかし、多少の我慢や忍耐を子どものうちに経験しておくことは重要である。教員や学校の質が少々下がったくらいで、「学校という制度は前世代のもの。学校に行かなくてもなんとかなる」という暴論は、自分がそこそこうまく言った人間のたわごとだろう。しかも、いうにことかいて「フリーターが安心して暮らせる社会が必要」などとは、アホすぎて反論する気にもならない。正月からクソ本を読んでしまった。
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大学生協で見かけて、本学の「生協の」白石さんがあとがきに書いていたので買ってみた。本田透氏はつまらないラノベなんか書いてないでこういう本をもっと書くべきだと思う。いじめられている子が学校に行って苦に思って自殺するくらいなら学校に行くな、引きこもれ、という本。
確かに言われてみれば命を懸けてまで学校に行く必然性はあまりないので蒙を啓かれた感じである。別に家でも勉強はできる。よく考えれば昔の貴族の子弟は学校に行かずに家に家庭教師を呼んで勉強をしていたのだ。学校行く必要性は命より大きくない。本書では高認試験から大学への道も示されている。
だいたい、自分をいじめてくる相手と付き合うことで得られる社会性、人間性って何だ? 明らかに距離を置いたほうがいいだろう。もはや「詰める」文化なんかいらない、陋習だ。そんなものに耐える能力などもはや不要だ。日本はQOLが低いと思う。
本田氏は東亜の思想のことなど何もしらないだろうが、スペンサーの社会進化論(適者生存の原理より劣等な人・民族は敢言すれば抹殺してよいという論)を引き合いに出して、それがナチスに利用され、ユダヤ人、障碍者などの虐殺が起きたことにより、戦後一時は下火になったことに触れて、今また、それが復活し、経済的弱者に対する自己責任論と弱肉強食の肯定の流行が起きていることの批判をしている。そしてそれは実のところ東亜の「禽獣の道」批判と同じことを言っているのだ。東亜思想を見直すべきである。